6章 想いが導くもの 5-17
血の繋がりはあるにしても、こうも似ているものなのか――ふたりは信じられない思いだった。
描かれた絵……優しく微笑む女性は、浮かべた表情から受ける印象こそ僅かに違えど、それはまるでテロンとクルーガーのように、ルシカの双子の姉だといわれても信じてしまうだろう。
テロンとルシカのふたりは、手帳に挟んであった姿絵を見つめたまま、しばらく動きを止めていた。
ふいに、テロンが顔を上げた。部屋の入り口を振り返る。
コン、コン、コン。よく響く小気味良い音で扉が叩かれ、ルシカはやっと姿絵から視線を引き剥がすことができた。
「よう」
部屋に入ってきたのは、クルーガーだ。
「後ろには誰もいないぜ、俺だけだ。他の皆は下で待ってる。ティアヌはいくらでも待てそうなくらいだ」
片手を挙げて笑いながらクルーガーが言った。そして、神妙な顔をしたふたりの様子に気づき、自分も表情を引きしめた。
「――どうした、何かあったのか?」
ルシカは思わずテロンを見た。テロンが頷いたので、決心したようにルシカが話し出す。
「クルーガー。ターミルラ公国の城にあたしたちが行ったとき、こちらに絡んできた今回の事件の首謀者の話はしたよね……?」
「ああ。ロレイアルバーサ・リ・クライン……もともとは大臣の位に就いていた人物だな」
「うん。……そいつがね、あたしのことを見て、ルレアという名の女性と取り違えていたふうだったの。正確には、あたしの身体にそのひとの魂を降臨させて、一緒になろうとしているみたいで」
クルーガーはみるみる厳しい顔つきになった。
「どういうことだ。そこまで俺は話を聞いていなかったぞ」
「ごめん……」
「話せなかった理由があるというのか?」
クルーガーが鋭く問いかけた。
うなだれるルシカの肩に、テロンが手をかける。そして兄であるクルーガーを真っ直ぐに見つめ、ルシカの言葉を継いで口を開いた。
「マイナのこともあったし、兄貴にもみんなにも、ルシカの件で上乗せしてこれ以上の心配をかけたくなかった。しかもあまりに不明瞭な話だったんで、もう少し何か分かったら兄貴やみんなに相談しようと、俺とルシカで決めていたんだ」
クルーガーは深く息を吸い、吐いた。言いたい言葉がいくつか喉元まで上がっていたが、とりあえずそれを呑み込んだままにしておく。
「話してくれ」
言葉短く、先を促す。
「ルレアというのは、あたしの祖母の名前なの。父が生まれたとき亡くなったということしか聞いてなかった。どんなひとだったのか、おじいちゃんもあまり話をしてくれなかったし」
ルシカは手元の手帳に目を落としたままそこまで語り、姿絵をクルーガーに渡した。
受け取ったクルーガーが絵姿を見つめ、息を呑む。
「なるほど、ルシカに生き写しだな……。この女性を、今のルシカの体に降臨させるだと?」
「ああ。……どうもロレイアルバーサという人物は、ヴァンドーナ殿とその女性――ルレアを巡って何かあったらしい。当時の想いをそのまま今も引きずっているんだ」
テロンが語り、口の端を引き結んだ。
クルーガーは弟の苦々しそうな表情を見て、ロレイアルバーサが抱いているという想いの正体を悟った。
「――実らなかった恋を、ルシカで何とかしようとしているわけか」
「ああ」
「なるほど。語りたがらなかったわけがわかってきた。――最低変態ヤロウってわけか」
クルーガーが額に手を当て、呻いた。
「死んだ者の魂を降臨させるなんて、そんなことができるかどうかは疑問だが」
「……できるわ」
ルシカの半ば呆然としたような声が、ふいに割って入った。ふたりが目を向けると、『万色』の魔導士は不安の面持ちで手帳から顔を上げていた。
「――どういうことだ?」
クルーガーとテロンの声が重なる。
「あいつは言っていた。自分は『時』の魔導士。過去の魂を呼び戻せる存在。そなたを礎にルレアの意識を降臨させればよい、と……。この手帳はおじいちゃんの若い頃のもので、覚え書き程度だけれど、三人が一緒に過ごしていた当時のことが書いてあるの」
ルシカは言葉を続けた。
「ロレイアルバーサは『死霊使い』でもあるの。冥界と現生界とを繋げる扉を開くことができる魔導士。あたしにはその方法までわからないけど、たぶんあいつの語っていたことは全て実行可能なんだと思う……」
温かい日差しに満たされていた書斎の空気が、一気に冷えたものに変わる。
「そんな……冗談じゃないぞ……」
テロンがこぶしをギュッと握りしめ、クルーガーは奥歯をギリッと噛みしめた。
「……マイナだけではなく、ルシカまで狙っているというのか……」
ルシカはオレンジ色の瞳を伏せ、手帳に綴られていた内容を語りはじめた。
「当時は、おじいちゃん……ヴァンドーナとルレア、そしてロレイアルバーサは、仲の良い親友だったみたい――」
三人は友人だった。無二の親友だった。
尋常ではない力の持ち主として、魔導士は世間でいつも孤独だった。常人が持ち得ない稀有で強大な力。それゆえに生じる悩みは、周囲に話しても理解されるものではない。
だが三人が運命的に出会ってからは、気持ちを通じ合うことができる仲間となり、互いの胸に開いていた穴を塞ぐことができたのである。
けれど、青年ふたりと娘ひとり――いつしか通じ合う気持ちは恋愛のそれに変わっていき、ついに一組のカップルが互いの想いを成就させた。
ふたりは結婚したが、残ったひとりはそれを祝福することなくふたりの前から去った。……抱いていた恋心と、友情から取って代わった愛が、あまりにも大き過ぎたゆえに。
恋を実らせた青年はヴァンドーナ。彼はそれでも親友との関係は続くと信じていたが、ロレイアルバーサがルレアに寄せていた想いは、ヴァンドーナにも気づけなかったほど遥かに深く強いものであったのである。
ヴァンドーナは、姿を消したロレイアルバーサの行方を捜したが、すでに大陸のどこにも彼の気配はなくなっていた。死んだのかも知れぬ……大切な友人をないがしろにしてしまったのだと、手帳には悔恨の思いが綴られていた。
後年どうなったのかまでは、手帳には記されていない。
「――この手帳が探していた魔導書の隣にあったのは……おそらく、おじいちゃんが意図して置いたからだと思う……」
ルシカの手帳を持つ手が、震えていた。
「ヴァンドーナ殿の『予知』か……。今になって、このタイミングで発見されるとはな」
クルーガーとテロンは、偉大な力を持つ大魔導士の哀しみの片鱗を垣間見た気持ちがした。
そしてテロンはルシカが感じた思いを理解し、同時に胸を衝かれていた。そんな、閉じられない眼のような能力とともに生きるのは、あまりに重過ぎる、苦しすぎる……過酷だ。
「……おじいちゃん……」
ルシカが堪えきれずに嗚咽を洩らした。テロンがその肩を抱きしめる。
クルーガーは口を引き結んだままふたりから目を逸らすように、手元の絵姿を見つめた。ただ穏やかな面持ちで微笑む、ふたりの青年に愛された女性を。
「――まるで以前の俺たちみたいな関係だな……。皮肉なものだ」
心の内でつぶやく。
クルーガーの場合は、テロンとルシカのふたりを心から祝福していた。自分の気持ちは二の次だ――ふたりの幸せはクルーガー自身にとっても喜ばしいことなのだから。
だが今回……これほどまでの重荷を、テロンもルシカも、自分たちの中だけで抱え込んでいたのには納得がいかない――そんな思いがどうしても消えなかった。
ルシカの涙が消えるのを待って、三人は階下に降りた。
居間にあるテーブルの上に二冊の書物を置き、ルシカがおもむろに口を開く。
「これで『従僕の錫杖』を体の内より解放する秘術の詳細を知ることができるわ」
この言葉に、マイナが瞳を輝かせ、ティアヌとリーファが明るい表情を見合わせた。
「ただし、秘術を実行するには、ある場所に行かなければならないの」
ルシカの言葉と同時に、テロンが持っていた地図を広げた。国内の地図ではない。このトリストラーニャ大陸全土の地図だった。
テロンが口を開いた。
「ソサリアの南に接する隣国、飛翔族の治めるタリスティアル王国内に『打ち捨てられし知恵の塔』と呼ばれる場所がある」
言葉とともにテロンは地図に指を走らせ、ソサリア王国の南にある国を指し示してみせた。そこからツッと指を動かして、ソサリアとタリスティアルの境界にある広大な山脈地帯をなぞる。
「隣国内といっても、実際には人が住んでいない場所――この『大陸中央』フェンリル山脈のどこかにあるんだ」
そのとき、ティアヌが「あっ」と叫んだ。
「どうした? ティアヌ」
「テロン殿下、アレですよ! 僕が『南隣の国で不思議な遺跡の話をいくつか聞いた』って言っていた、そのなかの遺跡ですよきっと!」
「ティアヌ、落ち着いて。――旅の間にあたしたちが聞いた、フェンリルの高峰のひとつにある遺跡の話でしょ?」
ティアヌはリーファに促され、すぅと息を吸った。一同の視線を集めながらエルフの青年が口を開く。
「フェンリル山脈の中央にある高峰ザルバーンの中腹に、結界が張られた塔があると聞きました。研究施設の跡ではないかと言われていて、三千リールを超える標高にあるらしいです。もっとも、そこまで至るには周囲の四千リール級の高峰や、絶壁である『ソルナーンの壁』に阻まれるため、いかな飛翔族の冒険者といえども容易に近づくことができないと」
「侵入するための結界解除が厄介っぽくて、そんな術が使えるような魔術師で、あそこまで登れる体力の持ち主なんておいそれと居ないし」
リーファが肩をそびやかした。
最高峰ザルバーンは五千リール近く、山岳氷河に覆われる人外未踏の領域だ。噂では古代龍が生息しているとも聞く霊峰である。
「――つまり、噂はあるが誰もまだ入ったことのない遺跡、ということなのだな」
クルーガーの言葉に、ティアヌが頷く。同時にルシカも頷いていた。
「その遺跡のことだと思うわ。『打ち捨てられし知恵の塔』――古代王国期には、そこが魔導の研究実験の場所だったの」
ルシカは説明を続けた。
「ラミルターは、そこで『従僕の錫杖』を作った。娘の体に錫杖を封じた場所はミンバス大陸のガルバーニャだけれど、封印解除の方法は作った研究塔のほうに残してきた」
「娘の体に、奪われたくないからって魔法の品を封じ込めるなんて、ひどい母親じゃない? こうしてずっと後の世代にも面倒を伝え残してるんだから」
唇を尖らせたリーファが言った。
「そのことなんだけど……」
ルシカは人さし指の関節を唇に当て、考え込んだ。少し間を置いて言葉を続ける。
「たぶんラミルター自身は、その娘のことを大事に思っていたのかもしれない。自分の欲と力に溺れてもなお、愛する娘をただ利用したのではなかったんだと思うわ」
「何でそんなふうに思えるのよっ」
リーファが声を荒げた。が、ルシカの静かな眼差しにぶつかって、思わず口を閉じた。
「……この『反転せし光の錫杖の解除方法』の、分かたれた時の本の表題を思い出してみると、娘さんに宛てたものだとしか思えなくて。たぶん、ラミルターが捕らえられた別れ際、娘さんに渡したんじゃないかな。その本が真の姿に戻され、体内から杖が解放されることがなかったとはいえ」
ルシカは白地に金縁の本に手を乗せて語り、次に書斎で発見したもう一冊の本を指し示して言った。
「こっちの、暗号を読み解くための本を見て、そう思うようになったの。その暗号は、当時子どもたちの間で流行っていた魔法語の入れ替え遊びを基にしたものだった――」
「……つまり、娘さんは封印を解除する方法を与えられていた、ってことなのですね……?」
マイナが胸に手を当てて言い、ルシカはコクリと頷いて答えた。
「でも、封印解除の場所が、そんな遠くて高い場所にあるなんて! 到達できない場所にわざわざ――」
「『道』はあると思うんだ」
答えたのは、テロンだった。「そうなの?」とリーファの琥珀色の目がまんまるになる。
クルーガーが組んでいた腕を解き、マイナの横に歩み寄って口を開いた。彼は書斎ですでにこれらの話を聞いている。
「俺たちはその方法を探るべく、次はミディアルに移動する。あの都市はフェンリル山脈の麓に位置している。周辺で発見された古文書や魔法王国期の文献も、ミディアルの図書館に集められて保管されているからな」
「うん。そこで『打ち捨てられし知恵の塔』なる場所に至る『道』の詳細が判明すると思う。あたしが以前『破滅の剣』のことを調べに行ったとき、そんな内容の文献を見た覚えがあるから」
ルシカが無理に作ったような、明るい表情で言った。クルーガーが茶化すように、そんなルシカに声をかける。
「ルシカの記憶力は相当だよなァ。道筋や馬の乗り方は、て~んで覚えられないくせに」
「なによぉ」
「おっと」
クルーガーの軽口に、ルシカが握ったこぶしで彼の横腹を軽く突いた。慌ててみせながらも笑顔で、クルーガーが受け止めてみせる。
緊張した表情が続いていた全員に、やわらかな笑顔が広がった。
「なんだか、すみません……。本当に、ありがとうございます」
マイナが唇を噛んで、真紅の瞳を揺らしながら全員に頭を下げた。
ルシカが首をゆるゆると振った。
「ううん、もうあなただけの問題じゃないもの。これはあたしたちの国を、そして世界をも揺るがせる不安の種になるだろうし」
それにあたしも相手にとっては無関係ではないから――そう口の中で続けたルシカを、刹那、クルーガーが痛いような苦しげな表情を向ける。
思わずクルーガーが口を開きかけたとき、リーファがマイナの肩をトンと小突いた。十六歳のフェルマの少女が親しげに首を傾けながら笑って言った。
「そもそも『従僕の錫杖』のことは、あなたのせいじゃないっしょ! おねえさんたちにドーンと任せなさいって。ねっ」
「あー、言っとくが」
クルーガーが口を挟んだ。オホン、とワザとらしく咳払いをして言葉を続ける。
「――たぶん、彼女はリーファより年上だぞ」
リーファが目をまるくして、肩を縮めるマイナを凝視した。
「あ……えと、わたし十七歳になりますから、リーファさんからひとつだけ上……かな?」
顔を赤らめて言うマイナに、リーファもまた頬を染めて「えええぇぇぇっ?」と絶叫したのだった。
「うーん。まあ、雰囲気は明るくなりましたけど」
リーファの横から少し離れたティアヌが、傍らのテロンに小声で話しかけた。
「クルーガー陛下も、なかなかにあなどりがたいですねぇ」
それはどういう意味なのやら、と苦笑しつつ、テロンはテーブルに広げたままの地図に目をやった。
このミルト郊外にあるヴァンドーナの私邸から街道沿いに進んでいけば、商業都市ミディアルまで徒歩三日の距離だ。もし村で馬を借りることができれば、明日中には着けるだろう。
テロンは隣に視線を向けた。
ルシカはヴァンドーナの手帳を手に、じっと黙り込んでいる。背の高い彼の視点からでは、やわらかな金の髪に隠されてその表情までは見えない。
テロンはそっと手を伸ばし、ルシカの肩に触れた。はっとルシカの視線が上がり、テロンの瞳にぶつかった。
「自分だけで抱えこむな」
ルシカだけに届くように、テロンは低い声で囁いた。
「俺を巻き込んでくれ。俺はルシカを――その身体も想いも、全て護る」




