5章 邂逅のその果て 5-15
「儂と共に来い。今度こそ、そなたを放しはしない」
自信に満ちあふれた口調で、ロレイアルバーサはルシカに告げた。ルシカの眉が僅かに寄せられる。
「――今度こそ、の意味がわかりません」
相手から視線を外さず、ルシカは言葉を発した。テロンが今にも動きそうな気配を感じるが、今は駄目よと祈るように心の内で繰り返す。
何かが引っかかる、ズレている――強い違和感があるのだ。この感覚の正体がわからなければ、こちらから仕掛けることはできない。
ロレイアルバーサは黄金の瞳を揺らし、焦点が合っていないような、遠くを見つめる目つきをしている。まるで淡い過去の夢でも見つめているかのよう……。
ふいに、ルシカは、その不思議な感覚の正体に気づいた。
「そうか……あなたの瞳は、あたしを見ているわけではない」
ロレイアルバーサは微かな声でつぶやいていた。熱に浮かされたように。
「……もうそなたを他の誰にも渡しはしない……ルレア……」
ルシカには、その名前に覚えがあった。
「……ルレア? あたしの祖母の名前だわ。おとうさんの母親――あたしが生まれるよりずっとずっと前に亡くなったひと」
「その瞳……我が愛しき、麗しき魔導士……ルレアのもの」
うっとりと夢見るように、男はつぶやいていた。その瞳に映っているのはルシカではなく、そのルレアという女性なのだ。
「あたしはルレアじゃないわ。目を覚ましなさい!」
ルシカは突き放すように固い声を発した。その声で、ロレイアルバーサの焦点がはっきりとしたものに戻る。
「――太陽の瞳は、選ばれし者の証」
今度はルシカの顔をしっかり見据えながら、口を開く。
「そなたの祖父、偉大なる『時空間』の大魔導士と言われたヴァンドーナの瞳を覚えておるか? 受け継がれてゆく魔導の血統の徴であるはずなのに、あやつの瞳はくすんだ灰色だったことを疑問に思ったことはないか?」
ロレイアルバーサは言葉を続けた。
「そなたの類稀なる魔力の質……その容姿……そなたはルレアそのものなのだ」
「狂っていると思うわ、そんな考え」
「ヴァンドーナはもういない、儂と共に来るしかないのだ……来てくれるだろう? ふたりで平和な世界を手に入れるのだ……!」
ルシカは眉をひそめ、オレンジ色の瞳に力を込めた。はっきりとした口調で答える。
「お言葉ですが……時は進み、決して戻りはしない。あたしはあたし。あなたが想い続けているひととは違う。……たとえ誰であっても、失われたひとの身代わりにはなれません!」
カッと瞳を見開いたロレイアルバーサは、憤怒のあまりぶるぶると震える手をルシカの細い首に伸ばした。
「――儂は『時』の魔導士。過去の魂を呼び戻せる存在。そなたを礎にルレアの意識を降臨させればよいッ」
だが、その手がルシカの首に触れる前に、それを掴んで止めた腕があった。――テロンだ。
「我が妻に、手出しは許さない」
口調はあくまで静かであったが、テロンの瞳の奥には燃えるような青い炎が宿っている。怒りで顔色が蒼白になっていた。
ロレイアルバーサが振り払おうと力を込めるが、掴んだテロンの手と腕は微動だにしない。
「……妻とは笑止な。若造が! おまえごときには相応しくない。引っ込んでいろ!」
ロレイアルバーサが上擦った声で叫んだ。
テロンは顔を歪め、口を開いた。よく響く低い声で、はっきりと言い放つ。
「――あんたはヴァンドーナ殿に負けたんだ。失恋した相手をいつまでも忘れることなく想い続け、その孫娘で本懐を遂げようなどというほうが……よほど笑止だ!」
ロレイアルバーサがようやく手を振り解いて後ろに下がり、テロンを激しく睨みつけた。青い瞳と、黄金の瞳が、火花を散らす。
「ほざいておれよ。あの錫杖を手に入れたならば、おまえごとき敵ではない。全てが儂にひれ伏すのだからな……!」
「やはり、あなたが狙っている張本人なのね!」
テロンの背にかばわれていたルシカが声をあげた。
「――あんたには、何ひとつ渡しはしないさ」
テロンが言うと同時に、後方のルシカが腕を振り上げて魔法陣を具現化させた。足元いっぱいに赤い光が奔り、魔文字と魔法記号の羅列を一瞬で綴りあげる。
「あたしは『万色』の魔導士、ルシカ。あたしたちはみんなを守り抜いてみせる!」
ルシカは片腕を真下に振り下ろした。凄まじい波動が放出され、部屋の窓が瞬時に砕け散る。衝撃は渦を巻くように部屋中を駆け巡った。
「何ッ!!」
飛び散る硝子の嵐に、思わずロレイアルバーサは腕を掲げて自らをかばう。硝子の破片は、術者であるルシカと傍にいるテロンにはかすりもしなかった。
テロンはルシカの腰を抱き、素早く窓から空中に身を躍らせた。
「クソッ……待てッ。逃がさんぞ!!」
悔しそうな声を残し、そのまま三階分ほどの高さを落ちる。そしてテロンは脚をバネにして、見事な着地を決めた。
夫の首に腕を回していたルシカが顔を上げ、ニッコリと笑った。テロンは目元を笑わせて応え、すぐに駆け出した。
「そういえば、ルシカ、収穫はあったのか?」
城内を走り抜けながら問うテロンに、抱えられたままのルシカが頷いた。
「ええ、もちろんよ、テロン」
ふたりは刹那だけ目を見合わせ、頷きあった。
「では、もうここに用はないな」
必死に追いかけてくる憲兵たちを翻弄しながら、テロンは港へ向かって風のように駆けた。腕に人ひとり抱えていようとも、へっぴり腰の憲兵たちには誰一人として、彼の足に敵う者はいなかったのであった。
ザブン! ザン……ザッパーンッ!
船の甲板から制服を着込んだ憲兵たちが次々と落とされ、さかんに水飛沫をあげていた。憲兵たちは数で圧倒していたが、戦況は彼らにとってかんばしくないどころか、はっきり言って劣勢である。
相手の者たちが余程剣の扱いに熟練した冒険者たちなのか……実力差が歴然としすぎていた。
しかも、甲板上にいる者は体つきのしっかりした男たちだけではない。木箱や手摺の上を舞うように、流れるように動き回る少女にすら、憲兵たちは敵わないようだ。おまけに、巨大なスパナのようなものを振り回している老人にも、容赦なく船から叩き落とされている。
「何と無様な。腰抜けの憲兵……寄せ集めの雑魚どもめが」
港の倉庫などの建物が並ぶ一角。屋根の上でそんな光景を眺め、ギジリ、と奥歯を噛みしめる男がいた。船の上の戦況を見極めた彼は、苛立たしげに銀の髪を掻きあげた。
「……あれでは時間稼ぎにもならん!」
ましてや、錫杖を体内に持つ少女を拉致してくることなどできるはずもないではないか――男は心の内で苦々しげに言葉を吐き捨てた。
「しかし……船上の冒険者どもの動き、妙だな。正規の訓練でも受けたかのような剣術……まるで王城の衛兵ではないか。しかも、何やら覚えのあるような構えをしている」
訝しげに見やる男の瞳が、ふと気づいたように、船上のある一点に吸い寄せられた。そこに見えたのは、翻る金の髪、青の衣、手に輝く魔法剣と雷光のような素早くキレのある動き――何度か対峙したあの男に違いない。
ラートゥルの大聖堂ではじめて見え、そのあと彼に体当たりを喰らわせてこの手から少女を――『従僕の錫杖』を奪った、忌々しい魔法剣の遣い手。
「ふっ……ククッ……ここでもまた立ちはだかるというのか。つくづく縁がある……」
含み笑いを洩らしながら、銀の髪の男は革鎧の前を開いた。裸の胸に直接描かれた赤い魔法陣が、陽光のなかにあってもなおまばゆく輝いている。
「――鬱憤が溜まっていたところだ。せいぜい愉しませてもらおう」
男は足元を蹴り、空中に跳びあがった。胸の魔法陣に片手を突き当てる。
ズンッ! 着地した場所で、敷石が陥没し砕け散った。顔を上げた男は、すでに異形と化している。
「今度こそ、容赦はせぬ。引き裂いてくれるわッ!」
裳裾のように銀の髪をなびかせ、紫水晶の双眸を狂気のように輝かせながら、男は走り出した。
「――アイツが来たかッ!」
クルーガーはすぐに気づいた。
「やはり裏にいるのはやつらなのか」
ルシファーと呼ばれた異形の襲撃者に違いない。隠してもいない、叩きつけるような凄まじい殺気を発散している。海洋を渡る冒険者の姿に扮している兵たちもまた、感覚の敏感な者たちは皆その方向に目を向けた。
クルーガーは咄嗟に、背後で魔導を行使しているマイナを振り返り、戦闘の状況を確かめた。
『使獣』の魔導士である少女の周囲を動き回り、敵である憲兵たちを近づけまいと魔獣プニールが戦っている。さらにその周囲を守るように、頼もしい王宮の直属兵たちが剣を振るっていた。
「よし、ここは問題ないな」
斬りかかってきた憲兵ふたりを剣の一閃で弾き飛ばしたあと、クルーガーは素早く自分自身の魔法剣を眼前に構えた。
今は亡き大魔導士ヴァンドーナから贈られた魔法剣だ。鋭い切れ味と、魔法属性を持ち、鋼より堅い稀有な金属でできている。
「――とっておきで迎え討ってやるか」
クルーガーは魔法語を唱え、剣に別の魔法属性を上乗せした。
真紅の炎を宿して燃えるように発光する剣をビュンと振り下ろし、クルーガーは甲板に真っ直ぐに立った。その背に青い外套と金髪がサラリと流れる。
「ギャアアアァァッ」
港側の手摺りの傍で断末魔の叫びが上がり、甲板に血が飛び散った。剣を折られ、胴を斬り裂かれた兵の体が倒れる。
その向こうからゆらりと現れたのは、ざわざわと銀の髪をなびかせた、屈強な肉体を持つ異形の男である。
「てやあぁぁぁっ!」
気づいたリーファが短剣を構え、疾風のように男に飛びかかった。
ギィンッ! 鉤爪に弾かれ、空中でくるりと反転したリーファが、悔しそうな舌打ちとともに離れた甲板に着地する。
「アイツは俺が引き受ける!」
短剣を逆手に構え直し再び突っ込もうとしたリーファを、若き国王が制した。
「この船の守りと……マイナを頼むぞ」
剣を構え、臆することなく前に進み出たクルーガーの姿に、異形の男がニタリと嗤う。
「ククッ……そうこなくては……ハアッ!」
言葉が終わると同時に、異形の男が突っ込んできた。闇色の筋を引いて振り下ろされた鉤爪を受け止め、クルーガーが相手の胴を凄まじい速さで蹴りつける。
男はくぐもった呻きとともに後方へ吹っ飛んだ。クルーガーは待ってなどいない、すぐに踏み込んで男を追う。
手摺にぶつかった男は立ち上がったが、息もつかせぬ勢いで繰り出されるクルーガーの突きを受け、追い落とされるように船から転落した。
クルーガーは剣を構え、手すりを蹴った。港の地面で体勢を整えた異形の男が、雷のごとく落ちてきたクルーガーの剣を腕で受け止める。
金属同士がぶつかるような凄まじい音が鳴り響き、次の瞬間激しい炎が吹き荒れた。相手は腕と顔を焼かれ、苦痛に口元を引きつらせた。
クルーガーが魔法剣に付与した『炎嵐』だ。
「なんと小癪な!」
「ふっ。舐めてかからないほうがいいぜ、と――」
ニヤリと笑いながらクルーガーは剣を押し込み、相手の鉤爪を絡め取るように翻した。
「――言ったはずだッ!」
鉤爪ごと相手の体を持ち上げ、次の瞬間横ざまに振り払った。
「なッ!?」
驚愕に顔を歪めた相手は倉庫の壁に突っ込み、壁をぶち抜いた。衝撃で瓦礫が飛び散り、もうもうとあがった土埃が周囲を覆う。
次の瞬間、土煙のなかから異形の男が飛び出し、油断なく構えていたクルーガーの剣に衝突した。
「……くっ」
受け止めたクルーガーの足が地面を擦り、剣が軋んだ。
次の瞬間、両者は同時に各々の後方へ跳び退った。相手の隙を窺うように気を引きしめ、互いの武器を――剣と鉤爪を構えて、対峙する。
「只者ではないな……名は何という?」
「言っただろ。相手に尋ねるときには、まず自分から名乗るんだな」
相手の男はヒクリと口元を震わせた。
「我が名はルシファー。ロレイアルバーサ様につき従う影――この世の闇、そして破壊者」
クルーガーが青い瞳に力を込め、剣を握り直した。不敵にニヤリと口元を微笑ませ、堂々と名乗る。
「俺の名はクルーガー・ナル・ソサリア、一国を預かる王だ」
「なるほど、貴様がソサリアの若き王か。どうりで剣技に長けているわけだ。……騎士隊長に就いているルーファスという男から、剣術を仕込まれたな?」
「なにッ? ルーファスを知っているというのか」
片方の眉をあげたクルーガーに、ルシファーと名乗った男はフンと鼻を鳴らした。
「まだ若造のときにこの大陸に渡ってきたあやつは、我が師に完膚なきまでに叩きのめされた。弟子になり師に教えを受け、何年かともに修行をした――どうりで型がよく似ていると思ったが」
ルシファーは唇を歪めた。
「……そうか、船のやつらも王国騎士団の兵どもだな」
「ふん。それにしては、おまえは剣を使わず体に仕込んだ魔法陣で武装し、わざわざ異形に化身するなどと……、ははぁん」
クルーガーが見透かしたような目つきで言った。
「さては、ルーファスに剣で敵わなかったからだろ。さらにその教え子である俺にも、勝てないくらいだからなァ」
「ほざけッ!!」
ルシファーが跳躍した。渾身の力を込めて腕を叩きつけてくる。
ガギンッ! クルーガーは頭上に掲げた剣でその爪を受け止めた。ギリギリギリ……と双方の武器が軋るような音を立てる。
そのとき、ふたつの声が聞こえた。
「兄貴!」
「クルーガー! どうして下に?」
城下の街からルシカを抱えたテロンが駆け出してきて、船に向かって走ってくるのだ。
「手出しは無用だ。――先に乗れ!」
叫んだクルーガーに、ルシファーが腕に力を込めてくる。
「……ずいぶんと余裕だな、若き王よ。我から逃れられると思っているのか?」
クルーガーは押し込まれる剣を支えながらも、微笑んだ。
「おまえと一緒にずぅっと遊んでいるヒマはないんで、悪いなァ。そろそろ行かせてもらうぜ」
クルーガーは片腕を沈ませた。刃先に向かい、耳障りな音と火花を散らしながら鉤爪が滑る。一瞬で位置を変えたクルーガーに、驚愕した表情のままルシファーが地面に突っ込んだ。
その動きは、周囲で手を出せずに遠巻きにして見守っていた一般人である憲兵たちには見えなかった。
クルーガーが剣を引き、次の瞬間、ルシファーに向けて剣を真上から振り下ろす――!
ドズン!!
重い衝撃とともに、異形と化したからだが吹き飛んだ。激しく回転しながら宙を舞い、土埃を巻き上げながら再び倉庫のひとつに突っ込む。
壁が崩れ、屋根がボコリとへこんだ。それをきっかけに、石造りの倉庫はガラガラと音を立てて崩れはじめた。
「――やったかッ?」
自問するクルーガーの足元から崩れゆく倉庫まで、無数の穿ったような傷が地面に刻まれていた。傷の深さは足首が埋まるほどで、しゅうしゅうと焼け焦げたように薄い煙が立ち上っている。
甲板にいた敵の憲兵たちはひとり残らず海に叩き込まれるか、あるいは切り捨てられていた。残った兵たちはルシファーが倒されたのを目の当たりにして、散り散りに逃げていった。
ホッとしたのも束の間、今度は城からの憲兵、そしてロレイアルバーサ本人が追撃してきた。
「――撃て!」
号令。そしてドォンという地面に響く音ともに、大砲の弾が飛んできた。
「うわマジ!?」
「うわわわわっ」
「キャアァッ!」
リーファやティアヌ、マイナが悲鳴を上げると同時に、ルシカが腕を突き出した。魔導の光が閃く。
ドゴォォォン!! 瞬時に展開された魔法陣が、大砲の弾を空中で阻み、腹に響く音とともに大爆発させた。
「さぁて、今度はこちらの番じゃ。お返しといこうかの!」
何やらすこぶる愉しそうな声が響いた。船の砲台に取りついた、グリマイフロウ老の元気な声である。
「そぅれ!」
ズドン!
「っと――おいおい冗談じゃないぞッ!」
まだ地面にいたクルーガーが、剣を収めながら慌てて船に向かって猛ダッシュする。テロンが伸ばした腕に向け、力いっぱい跳躍した。同時に、ルシカがピイィィィィッと指笛を吹く。
テロンの手とクルーガーの手がガッシリと繋がるのと、ウルが海中から顔を出すのと、グリマイフロウ老の放った大砲の弾が港の倉庫のひとつに着弾するのとが、ほぼ同時だった。
ドッゴォォーーン!! ポンポンポン!
港に飛び交ったのは、色とりどりの光のシャワーだ。眩い閃光と燃える火薬は、追ってきた憲兵たちに降りかかり、ロレイアルバーサを仰天させた。
「たっまやー!」
ウルが曳いて港を離れる船上から、ちゃっかり誰かが叫んだ。
爆発したのは、花火師であるグリマイスクス老からの餞別の特製花火だ。次々と爆発する花火に、港は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっている。火傷を負ったり昏倒したりした憲兵たちはいたが、城下の街に被害はなかった。
「ホーッ、ホッホッホ! 弟に良い土産話ができたわい」
ウルゥルルルルルゥー!
グリマイフロウ老の笑い声が響き、ウルが同意するように高く啼いた。
ポカンとしていた一同は顔を見合わせ、皆が弾けるように笑った。甲板に戻ったクルーガーの傍には、安堵した表情のマイナが走り寄っている。
『海蛇王』に曳かれた船は一見しずしずと、だが凄まじい速度で海に向けて進み、無事に外洋に出たのであった。




