5章 邂逅のその果て 5-14
「おい!」
背後から掛けられた声に、ふたりは振り返った。憲兵たちを率いているリーダーらしいが、どうにも頼りない印象で、虚勢ばかりの人物に見えた。
長い平和の中で、軍の質が落ちてしまったのか、あるいは優れた上官たちが失われてしまったのか? ふたりの足に置いていかれそうになって、声を掛けてきたらしい。
「あら、間違っている? 城に向かえばいいのよね?」
ルシカはくるりと振り返り、意地悪く訊いてみた。変装に合わせてみたというのもある。
「ロレイアルバーサ・リ・クライン――ターミルラ公国の魔導研究の第一人者で、大臣の地位にある人物だと記憶している。呼んでいるのはその人物なのだろう?」
テロンがルシカの言葉に補足した。自分たちはあくまで冒険者ギルドの意向で行動しているのだ、と話を続ける。
「俺たちは、冒険の情報を求めてこの街へ立ち寄っただけだ。調べ物があって先ほどの図書館を訪れたのだが、人がいなかったので勝手に奥まで踏み入ってしまった。非礼があったのならば詫びよう」
「大臣さんなんだから、城にいるはずよね」
言葉に詰まる憲兵のリーダーに構わず、テロンとルシカはまた歩きはじめた。
街中は、相も変わらず静かなままだ。押し殺したような静寂、押さえつけられたような圧迫感のようなものを、鋭敏なテロンは感じていた。
魔法的な影響ではないのだろうと、彼は思う。もし『強制』などひとの心を乱したり操るような魔法が原因ならば、彼の傍らを歩くパートナーの魔導士がすぐに気づくはずだ。
そのパートナーは、軽い足どりで歩いてはいるが、周囲に向ける目は真剣そのものだ。何があろうとも見過ごさぬように気を張っている。
時々その瞳が揺れるように震えるのは、頭の中でいろいろな考えをまとめ、各方面から検証し……同時に船に残してきた仲間たちを思い遣っているからだろう。
――そんなふうに、自分以外の事ばかりを気にしているから、足元が見えていなかったりするのだろうな、とテロンは思っている。
城の入り口の手前の段で、ルシカがつまずいた。ほとんど同時にテロンが腕を伸ばして、その体を支えてやる。ルシカの体は軽い――あっけないほどに。けれどその存在は、その生命は、テロンにとってこの世界の何よりもずっと重く大切なものなのだ。
「おまえをずっと見ているから、何が見えているのか……何が見えていないのか、わかるからな」
「え? なぁに?」
テロンが心の内でつぶやいたつもりの言葉だったが、ルシカには届くものなのかもしれない。敏感に彼女が顔を上げたので、彼は優しく微笑んだ。
「いや、何でもない」
テロンは顔を上げ、つられるように視線を上げたルシカと共に、目の前の門を――そしてその先に建っている城を見た。
優美な尖塔が立ち並ぶさまは、トリストラーニャ大陸ではあまり見られない建築様式だ。それは優雅で、華麗な眺めだった。
森の恵みで発展した歴史があり、主要な建物や塔は石材だが木材を使っている箇所も多くある。そして、そのどれもに凝った装飾が施されている。
「街の様子がこうも閑散としていなければ、さぞ美しい眺めだったのだろうな」
「そうね。……残念だわ」
海からの恵みと、森からの恵み、それによる海産物と工芸品と良質な港とが、小国ながらもターミルラ公国を豊かな貿易国として発展させてきた。取り囲むように連なるガーランディア山脈は自然の要塞となって、陸からの他国からの侵入を阻んでいる。
小さくとも、豊かで平和な公国であったのだ――かつては。
港で待機しているリミエラ号の船室のひとつの広い空間に、船の乗組員である直属兵の分隊長、グリマイフロウ老、ティアヌ、リーファの姿があった。
中央に固定されたテーブルの周囲に集まった皆は、それぞれの考えを巡らせながらほとんど話もせず待機している。ティアヌとリーファは窓から港と城下の街並みを見ていた。
「今頃、ルシカたちは……」
心配するようにかすれたリーファのつぶやきに振り向き、ティアヌが何か言おうと口を開きかけたとき、入り口の扉が開かれた。
「――待たせたな」
「クルーガー陛下、体は大丈夫なのですか?」
「ああ、もう心配ない。治癒が良かったからな」
クルーガーは言いながら、続いて部屋に入ってきたマイナの顔を見た。マイナに微笑んでみせたあと、クルーガーは厳しい面差しになって部屋のテーブルまで歩いた。
集まっていた皆が顔を上げ、テーブルの周囲に歩み寄る。
「外の状況を見た。もうあまり時間がないようだ――戦闘の準備はできているか?」
クルーガーの問いには、控えていた隊長がすぐに答える。
「整いました。皆、臨戦態勢です」
「――さっきから見ていたけど、もう周囲は完全に取り囲まれているわね。ただ、すごく素人っぽいけれど。へっぴり腰なのよね~。包囲っていってもあちこち隙間だらけ。自国を守ることすらできそうにないって感じだわ」
リーファが肩をそびやかしながら言った。その隣で、ティアヌは眉を寄せて顎に手を当てている。
「リーファの言葉通り、本当に形ばかりの兵隊みたいです。古参の者がいなくなって、新参者ばかりで構成されているような……。政権交代でもあったのでしょうか」
「――確かに、この国の状況はおかしい」
クルーガーは頷いた。
「マイナの母君が大公の娘であったとして、今現在このような状況にあるのがどうも腑に落ちない。母君がソサリアの地にたどり着いたのは、マイナが生まれる前のことなのだ。そのときに混乱はあったらしいが、少なくとも半年ほど前までは平和で落ち着いた国だと確認されていた」
「最近状況が変わったばかり、としか思えませんね」
「うむ。街にも港にも、ここから見える限り戦乱の跡も略奪の跡もない」
「大公の名は、カールウェイネス・ルル・ターミルラ。マイナの母の実の弟ということだ。マイナにとっては叔父に当たるな」
クルーガーは隣に立っていたマイナの顔に視線を向けたが、目が合った少女は顔を伏せた。自分の腕を掴んでいる手に、きゅっと力が入った。
「――母のことはあたしもほとんど聞かされていません。いずれ話すつもりだ、と父からは言われていたけど……」
「そうだったのか」
頷いたクルーガーは視線を前に戻し、口を開いた。
「そのカールウェイネスという大公は、立派な人物だと伝え聞いている。確かな外交手腕と、民を愛し、国は豊かだったと。だが、今はこの状況だ」
「マイナを襲った犯人たちが、国まで乗っ取ったとか?」
「まさかそんな、突拍子もない話です! ――と言いたいところですが」
リーファの言葉に一旦声をあげたティアヌだが、テーブルに手を突いて身を乗り出し、言葉を続けた。
「ありえない話ではないですよね。力のある魔導士ならば、魔法の守りの薄い国を乗っ取ることは可能だと思います」
「ふぅむ……確かに、王都が襲撃されたときのことを思い出すとその説は否めないのだが」
クルーガーは考え深げに眉を寄せながら、言葉を続けた。
「そのカールウェイネス大公自身が、魔導士ではないかという噂もあるらしい。だからかどうかは知らないが、大臣のなかには魔導を学問として研究している者もいたのだ」
「国の規模はソサリアほどではないとしても、ここは立派な魔導の力に親しい国家というわけじゃな」
それまで黙って話に耳を傾けていたグリマイフロウ老が口を挟んだ。
「魔法に対する対抗手段がいくらあっても、それだけが国を崩す方法ではないがの」
「まだ乗っ取られたと決まったわけでは」
マイナが言い、口に手を当てた。
「ごめんなさい、邪魔するつもりは――」
「え? いいんだよ、もちろん。いろいろ意見を言ってくれなくちゃ」
当然のことのようにリーファが言い、傍らのティアヌも頷いた。
「俺たちは仲間だからな。変に気を使わないでくれよ」
クルーガーがマイナに向かって微笑んだ。ホッとした表情のマイナだった。
「確かに、乗っ取られたと考えるのは早計ですが――」
ティアヌが言いにくそうに口ごもる。
「何だ? 気にせず言ってくれ」
「はい。あのふたりが……テロンとルシカが、自分たちだけで行くと言い張ったのが気になるんです。ふたりだけで話し合っていたときの様子、ただの偵察にしては覚悟を決めたように真剣そのものでしたし。武器なしでいつもと同じように戦えるのは、あのふたりだけですから」
クルーガーが一瞬、虚を突かれたような表情になった。すぐに立ち直ったが、その顔は苦しさを感じているように歪んでいる。
「……自らが危険に飛び込んでいくことになるとわかっていた。分散させる戦力を削ぐことなく、こちらには最大限の戦力を残して戦闘に備えておくよう言い残していった、と」
「その可能性を考慮していたのは、おそらく間違いないと思います」
エルフ族の青年は、確信しているかのような口調で言った。
「あいつらは……自分たちの力を過信しすぎだ」
「むしろ、危険な状況に誰かを巻き込みたくなかっただけかもしれませんが」
クルーガーとティアヌの遣り取りの間に、リーファが割って入った。
「本当に……自分たちの寿命を縮めるくらいに優しいんだから! わたしたちのことも、もっと頼ってくれたらいいのに」
クルーガーは自分でも意識しないまま、こぶしを握りしめていた。彼の閉じたまぶたに浮かぶのは、「兄貴が国を表で支える、裏は俺たちに任せてくれ」と語った双子の弟テロンの姿だ。そして、その横で微笑むルシカの姿も――。
「何故ふたりだけで、何でもかんでも背負い込もうとする! 俺は自分の仲間を捨て駒にする気はないぞ……!」
クルーガーがテーブルの表面をバンと叩き、マイナがびくりと震えた。
だがその伏せられた表情を見て――苦しそうな痛むようなクルーガーの様子を目の当たりにして、マイナの瞳が揺れた。気づくと、その口から言葉が飛び出していた。
「……それほどに大切に想っている心は、たぶんテロンさんやルシカさんも同じなんだと思います」
その言葉にクルーガーは目を開いた。揺れていた青い瞳はすぐに落ち着きを取り戻し、マイナを見つめる。
「そうだろうな。故に、テロンもルシカもそう行動するのだろう。――取り乱して、すまない」
クルーガーが真っ直ぐに背を伸ばしたとき、部屋の入り口の扉が開かれた。兵が緊迫した声で報告をする。
「陛下、襲撃です!」
クルーガーは頷き、全員の顔を見回して声を張り上げた。
「迎え撃つぞ。ただしできる限り船を損傷させるな――行くぞッ!」
帰る場所を守るのが残された者の役目だからな――クルーガーは仲間たちとともに甲板まで駆け上がりながら、口の中でつぶやいた。
「こちらがはじまったとなると、向こうに何もないってワケがないだろう。必ず、無事で帰ってこいよ!」
ここにはいないふたりに向けて言葉を発し、クルーガーは魔法剣を抜き放った。
魔導士であるマイナと、魔術師であるティアヌの援護の魔法が飛ぶ。港から船に向けて放たれた火矢を、甲板の上を舞うように移動するリーファ、そして剣や槍を手にした兵たちが次々と弾き落としていった。
続いて雪崩れ込んできた憲兵たちの数は多かった。すぐにあちこちで対人の戦闘が展開される。
船上とその周辺――桟橋付近は、瞬く間に戦場と化したのである。
ギイィッ……。テロンとルシカの目の前で、大きな扉が重々しく開かれた。
部屋の内部は、大国の執務室や客間と比べても遜色がないかそれ以上に豪華なもので、テロンとルシカは軽く目を見張った。
「儂の名は、ロレイアルバーサ・リ・クラインである」
低く堂々とした声が響き、部屋の奥で立ち上がった人物がいた。豊かな白い髪と、戦士のように鍛えられた肉体を持つ壮年の男だ。
「――冒険者ギルドから、という話だが」
「はい。あたしたちはトリストラーニャ大陸、ミディアル支部の者。ミンバス大陸にあるいろいろな遺跡を調査したいのです。でも、こちらの勝手がよくわからなくて……。都市訪問の際、間違った手順を踏んでしまったのでしたらお詫び申し上げます」
「それには及ばぬ。冒険者たちは国家に俗さぬ、自由な身分。それに……そなたたちには別な話もあったのでね」
ロレイアルバーサはサッと片手を挙げた。
人払いをしたいのだ――すぐにテロンとルシカは気づいたが、その合図を向けられた衛兵は理解していないらしかった。その証拠に、入り口の傍で突っ立ったままである。
部屋の主が眉を寄せてギロリと視線を送ると、衛兵はようやくハッと気づいたように反応し、慌てて部屋から出ていった。
「やれやれ、見苦しいところを。――実は、ひと月ほど前に大きな騒ぎがあったのでね」
ロレイアルバーサは精悍な顔をしかめ、ため息をついてみせた。
「そのゴタゴタのなかで兵や大臣の大部分を投獄するという事態になり、新兵を早急に実務に就かせる破目になったのだ。おかげで兵たちの礼儀の教育すらままならぬのだよ。……正直辟易させられている」
「心中お察しします」
ルシカが礼儀正しく口元を微笑ませた。金の髪と白い薄布が揺れて顔があらわになり、部屋を満たしていた陽光が僅かに明るくなる。
ロレイアルバーサが目を見張った。
その瞬間、黄金の瞳に強い輝きが宿ったことにテロンが気づいた。危険な輝き――本能が彼にそう告げている。
「……クク……、ウワハハハハッ!」
含み笑いしたかと思うと、突然爆発するようにロレイアルバーサが哄笑した。テロン、ルシカの全身にサッと緊張が走る。
「ロレイアルバーサ大臣?」
テロンが呼びかけると、相手はパッと笑いを引っ込めた。
「フン、儂は大臣ではない! この公国の新たな大公なのだよ。……『時空間』の大魔導士と謳われたヴァンドーナの孫娘、ルシカ・テル・メローニ」
「祖父を――あたしを、知っているのですね」
ルシカは髪を掻きあげ、被っていた白い薄布を外した。大きな両の瞳が陽光の元にさらけ出され、オレンジ色の虹彩に白い輝きが宿る。
「もちろんだ、類稀なる魔導士の娘。どんなに変装しようとも、儂の目は誤魔化せない。そなたを見紛うはずがない」
男はうっそりと佇んだまま、ルシカの顔に視線を奪われていた。まるで長い間探していた恋人にようやく巡り会えたかのように。
「……知り合いなのか、ルシカ?」
「いいえ」
小声で問うたテロンに、ルシカが即座に答えた。祖父が生きていたときにも、この男と会ったという記憶はない。
その言葉が耳に届いたのだろう。男はさも悲しげに首を横に振りながら、真っ直ぐにルシカに近づいていった。
「つれないことを……。今、こうして知り合えたではないか?」
ルシカの前に立ち、見下ろすように、その容姿と顔――殊更に太陽を宿したようなオレンジ色の瞳をじっくりと眺めた。
あからさまに不躾にじろじろと舐めるように見つめられ、嫌悪感を感じたルシカのこぶしが握りしめられた。
仲間たちのことが頭をかすめる――他国で騒ぎを起こすのは得策ではない。マイナのことで目の前の男が敵となるなら、戦闘もやむなしと想定していた。だが、自分のことで何かあるとは思ってもいなかった――。
それでもルシカは、落ち着いた口調で尋ねた。
「どういうことでしょうか。それに、見たところ、あなた自身も魔導士ですね」
ルシカの瞳には魔力の流れが見える。それは閉じられない眼のようなものだ。
部屋に入って邂逅を果たしたときから、相手が魔導士であると気づいていた。魔導を研究している者だと聞いていたので、おそらく多少の魔術の心得くらいはあるに違いないと思っていたが……まさか自分と同じ魔導士だとは。
ルシカは顎を上げ、男を正面から見つめ返した。気圧されてはいない。だが、嫌悪感は拭いきれなかった。男の目に宿る光が普通ではないからだ。
目の前の男は侮れない、とても危険な気配を放っている。
「そなたは若く……まことに美しい。手折られる定めの一輪の花のごとく可憐で儚く、それゆえに光り輝いておる……」
ロレイアルバーサの背丈は、テロンより僅かに低いほどの長身だ。壮年期を過ぎる年齢だというのに、若々しく、筋肉も発達している。そんな頑強そうな体躯に負けまいと、小柄なルシカは背筋を伸ばして対峙している。
「美しい花の命は短いというが、そなた、すぐにも終わらせとうはなかろう? どうだ、惜しいとは思わぬか」
「……おっしゃる意味がわかりませんわ」
ルシカは一歩も後退することなく立っていた。いつでも魔導を行使できるよう、精神を集中させ高めながら。




