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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第五部】 《従僕の錫杖 編》
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4章 海の向こうに渦巻くもの 5-11

 王宮内にクルーガーの姿を捜し回っていたルーファスは、王の執務室の扉を開けて心底驚いた。時が巻き戻ったのかと、一瞬思ったのだ。


 奥にずっしりとしつらえてある執務机の向こうで、手を挙げて挨拶を送ってきたのは、他ならぬ先王、ファーダルス・トゥル・ソサリアそのひとであった。


 壮年期を過ぎつつある騎士隊長ルーファス・トム・ソルアは目を見開き、呼吸みっつ分は動きを止めた。そして体を仰け反らせ、次に目をごしごしと擦ってみて――声を震わせた。


「なッ、何故にあなた様がこちらに……!」


「おはよう、ルーファス。その面妖な仕草は魔除けか何かかな?」


「い、いえ! そそその、大変失礼を……離宮においでになったものとばかり思っておりましたので、わたくしが幻でも見ているのではないかと……」


 喉がからまったように恐縮する騎士隊長に向け、ファーダルスは優しげに微笑んだ。冗談だよといわんばかりに。


「よい、よい。――実はわしがここに居るのは内密なのだ。あやつが、どうしてもと頭を下げおるのでな。留守をしている間、公務を儂が代行してやることにしたのだよ」


「クルーガー様が、ですか?」


 ルーファスは驚いた。今までにも、公務をサボって王宮を抜け出すことはあったが、ここまで用意周到に整えて行方をくらませることはなかったのだ。


 ましてや、父君に頭を下げて王宮での自分の留守をお願いするとは……。


 もちろん、行き先はわかっている。一緒に居る者たちもわかっている。とてもではないが、その周囲にいる者たちが王を引き止めてくれるとは期待していない――全員が、クルーガーの真の友であるがゆえに。


「――どうしても、さねばならぬことができたそうだ」


 王の父は、まるで独り言をつぶやくように、そっと言葉を唇に乗せた。その意味を……重みをズシリと感じたルーファスが、はっと息を呑む。


「のう、ルーファス。クルーガーは王位を継いだとはいえ、自分の正義や護るべきもの、本当に大切なものを追う若者そのままだ。テロンもまた、そうじゃ――」


 ファーダルスは椅子に座ったまま、物憂げに背をもたせかけ、ここではない遠い場所に視線を向けていた。


「ほんに、ふたりとも、あれによう似ておる……優しく、強く、自分の信念を貫き通す。立派な人間に育ったものよのぉ……。いつか儂の寿命がきて、再びあれと逢えるとしたら……しっかり育てたと喜んでくれるじゃろうか」


 その王の皺深き顔に時の重みを――その深淵を垣間見た気がして、ルーファスは思わず胸に手を当て顔を伏せ、かしこまった。


 ――目の前にいる存在は彼にとって、何時いかなるときでも、たとえ死してもなおずっと忠誠を誓っている相手。心弱き姿もまた受け止めるべき腹心の部下であるとの自負はあるが、あまりにも立派な主君であったがゆえに、老いた姿にはあえなく涙が零れそうになったので。


「まあ、そんなワケだ。しばらく頼むぞ、ルーファス」


 突然、力強い声に変わったので、ルーファスは弾かれたように顔をあげた。


「息子たちの、そして義理の娘のためじゃと思えば、このくらい引き受けてもバチは当たるまいて」


 カラカラと笑うかつての国王に、騎士隊長は「ハッ!」と張りのある返事をした。しかし――今回、これではわたしも共犯だな。ぬぬぅ、考えおりましたな、殿下!


 ルーファスの脳裏に浮かぶのは、いつまで経っても、ヤンチャ坊主のときのクルーガーとテロン……無邪気に遊びまわり、礼儀作法の席を抜け出し、剣の修行に本気で向かってくる、純真で真っ直ぐな子どもたちの姿のままであった。





 よく晴れた空、どこまでも青い海――。


 右舷側に続く外洋にはきらきらと輝く水面みなもが視界いっぱいに広がり、やわらかな潮風が鼻腔をくすぐって通り過ぎていく。


 遥か彼方には魔の海と呼ばれる領域が広がっているはずなのだが、うららかな陽光が降り注いでいる中では不吉な影ひとつなく、本当にどこまでも穏やかな海だった。


 左舷側に広がるのはトリストラーニャ北部の陸地だ。起伏のある緑と茶の織り成す光景が、青い空と海に挟まれるようにずっと続いている。


 仲間たちは甲板に出て、兵やグリマイフロウ老から様々な船の知識や操舵方法を学んだり、綺麗な景色にうっとりと見惚みとれながら、好きなように過ごしていた。


 トリストラーニャ大陸の北端を過ぎるまでしばらくは、この景色が続くことになる。


 そんな、呑気でうららかな陽光のなかで――。


「……あうぅぅぅ……うぷ」


「大丈夫か、ルシカ」


 甲板の手すりにもたれかかり、顔色が青を通り越して白になってしまっているルシカが呻いていた。テロンが横の手すりに腕を乗せ、そんなパートナーの様子を心配そうに見守っている。


「魔導士にも、弱いものがあったんですねぇ……」


「……なんだか懐かしい遣り取りだなって気がするんだけど」


 ティアヌとリーファの軽口にも、ルシカは顔を上げることすら難しいようだ。


「そうね……うっ……船室もぐらぐら揺れて時間の感覚がなくて……ぐっ……未来永劫責め苦にあっているみたいで」


 ――船酔い、らしい。


 ルシカの両親は、彼女が幼い頃に船に乗り、王国と平和にあだなす者の手によって海の底へ沈められた。その時の記憶がはっきりと残っていなくても、心に受けた衝撃は彼女の心に傷を残したのかもしれない。


「そうだ。ひとつ、試してみたいアイディアがある」


 そう言って、テロンはルシカを抱き上げた。


「……テロン?」


「効果があるのかないのかは、わからないけれど、こうしていたら少しは楽にならないか?」


「うん、ありがとう」


 素直に体を預け、テロンの首に腕を回したルシカは、高くなった視点から、ゆっくりと過ぎていく船からの眺めに目を向けた。幾分か、頬に赤みが戻っている。


「このまま、海、ずっと穏やかだといいですね」


 いつも変わらないのんびりした調子のティアヌの言葉に、その傍にいたリーファが頷き、潮風に乱れる髪を押さえた。


「――風が出てきたなァ」


 そのとき船尾では、マイナと並んで立っていたクルーガーが言い、澄んだ青空を見上げていた。


「でも、いいんですか?」


 マイナの問いに、クルーガーは傍らの少女の顔に目を向けた。


「何がだい?」


「はい、その……国王なのに、何週間も国を空けて大丈夫なのかなって、気になってしまって」


「マイナは、いろんなことを心配してくれるんだな。自分のことだけでも大変なのに」


 クルーガーは目を細めて笑い、少女の黒髪の上にポンと手を乗せた。


「君のこともあるが、他にも気になることがあるし、放ってはおけなかったんだ。……俺はまだまだ、王になるには決意と覚悟が足りないのかもしれないな」


 クルーガーはぐんぐん小さくなってゆくソサリアの地に視線を向けた。マイナもつられるように、もう彼方へと見えなくなりつつある故郷の方向を見つめた。


「こうだ! と思ったらさ、自分で動かないと気が済まないんだ。自分の知らないところで大切に想っている相手や仲間たちが、危険な目に会うのだろうかと思うと……居ても立ってもいられなくてね」


「……クルーガー……さ、ま」


「仲間を信じていないというわけじゃない。それに……指示して人を動かすだけが王じゃないと俺は考えている。――言い訳かも、しれないがな」


 自嘲気味に唇の端を歪め、クルーガーは海面に目を投じた。


 船体が青い海面を割り、白い波が立っている。通った跡筋を少しの間だけ残し、やがてまた静かな海面に戻るのだ。


「それはある意味、王の資質なのかもしれません」


 しっかりしたマイナの言葉に、クルーガーは驚いて少女の顔を見つめた。


「自分が信じる道、自分が為すべきことを見つけたら、しっかりと見据え、やり遂げよと、父もよく言っていました」


 マイナはその言葉に自分で頷き、クルーガーに顔を向けた。力強い輝きを秘めた紅玉髄カーネリアンの瞳が、僅かな迷いに揺れていた青い瞳を真っ直ぐに見つめる。


「――ああ、そうだな。その通りだ」


 俺の父も同じことを言っていたな――クルーガーは不思議な感慨を持って、自分を見つめる少女の頬にそっと触れた。


 黒髪がぱたぱたと風に吹かれて揺れている。少女は恥じらいを含んだ表情で微笑み、海に紅い瞳を向けた。


 クルーガーは手を戻し、手すりに乗せた。しばらく無言のまま、ふたりは並んで海を眺めた。 



 


 最初の一週間はこうして穏やかに過ぎた。


 だが、船が大陸の傍を離れ、いよいよ外海へと離れたところから、雲行きが怪しくなってきた。


 すでに太陽は進む先から左舷寄りの方向の地平線に沈み、雲に残ったオレンジの光も碧から紺へ、そして漆黒へとみるみるうちに色を変えた。風が強まり、頭上を低く覆いはじめる。


 海上で迎える悪天候の夜は、月も星も見えなければ闇に等しい。遠く、燐光を発する何かの海洋生物が横切り、ぼんやりと光るのが、怪しくも美しく、不気味であった。


「左舷、何か見えます!」


 見張りについていた兵からの報告を受け、甲板にクルーガー、テロン、ルシカ、そしてマイナが飛び出してきた。


 風が吹きすさぶなか、クルーガーは腰の剣の柄を握りながら、テロンと同時に走った。


 甲板は大きく上下に揺れている。


 ルシカは姿勢を低くして転ばぬように気をつけながら甲板を回り、『発火ファイア』で次々と主要なランタンに火を灯した。


 船上が明るくなることで敵に狙われる的になる危険もあるが、今宵は光なしには戦えない新月だ。もし仮にたとえ月があっても、厚い雲に阻まれていただろう。


「見えるか、テロン!」


「いや、潜っているようだ」


「……魔獣かもしれないです」


 ふたりの隣に駆け寄ったマイナが、緊迫した声を出した。覗き込んだ海面はまるで闇を溶かし込んだように真っ黒だ。


「ルシカさんからいろいろ伝授されました。力の見定め方、扱い方、そして……感じ方を」


 高い波に揺れる船から転落しないように手すりを強く握り、マイナは視線を海面に向けた。感じる魔力マナを見極めようと気を集中させる。


「敵意ばかりで神経にビリビリと当たる感じがします……大きなものがひとつ、それから、よくわからないたくさんの気配も同時に感じます。その辺りにいっぱい――」


 マイナが指を向けたと同時に、何かが水面を割った。


 背びれのようだ、と思った瞬間、そいつは一気に跳びあがった。身を乗り出していたマイナが慌てて下がるが、相手のほうが遥かに速い。


「マイナ!!」


 クルーガーが魔法剣を抜き放つと同時に振り抜いた。ギィン! という、硬い金属でも打ったような手応えを残し、弾かれたそいつは派手な水飛沫とともに海面に落ちた。


「何だ今のは! 魚かッ?」


 剣を手にしたままクルーガーが問うが、答えは聞けなかった。


 相手は一体ではない。次々と剣呑そうな背びれが海面に現れていく。波はますます大きく激しくなり、海面はまるでひとつの生き物の表面のように起伏を繰り返している。


「来るぞッ!」


 ガツン! テロンが拳を突き出し、跳びあがった巨大な影を押し留めた。ガチガチと鳴る鋭い歯が、白い魚眼とともに宙に一瞬静止する。次に空を切って繰り出された脚がそいつの横っ腹を激しく蹴りつけ、海中に叩き込んだ。


「クッ、鋼みたいに硬いやつだな」


 テロンは打った手を振って痛みを払い、『聖光気せいこうき』を発現させて身にまとう。体術の構えを整え、こぶしを引き、力をめる。


 魚のような魔物は次々と飛んできた。


 マイナをかばうように、プニールが後部甲板から踊り出た。マイナの指示を受け、魔竜は鉤爪を武器に怪魚たちを迎撃しはじめた。


 船室から上がってきたティアヌとリーファが戦いに加わる。戦況は悪くない。だが……。


 怪魚たちは一向に減る気配を見せなかった。主に左舷から次々と襲い掛かってくる。中には甲板を飛び越え、そのまま右舷側へ飛び込むものもいた。水中でも船に体当たりしている魚もいるらしく、嫌な衝撃が響いてくる。


 叫び声がいくつかあがり、喰らいつかれて傷を負った兵が甲板に転がった。血の跡が点々と散る。


硬鱗こうりんで覆われているから、とても硬いわ。腕が痺れないように気をつけて!」


 周囲で各々の剣を構えた兵たちにも聞こえるように叫び、灯りをつけ終わったルシカが走り寄ってきた。負傷した兵たちに『治癒ヒーリング』を行使し、ルシカはすぐに次の魔法発動の動作に入った。


 腕を振り上げて魔法陣を展開し、船全体を包む『障壁』の魔法を発動させる。


 ヴィイィッ! 高音域へとせりあがるような音が一瞬周囲を圧し、金色に輝く魔文字の羅列のようなものが空中に張り巡らされ、船を覆い尽くした。


 水中から飛び上がる魚たちの突撃、そして船体に体当たりしていた音が途絶える。展開された『障壁』が物理的な攻撃を阻んでいるのだ。


 だが、魚たちは突撃を次々と繰り出してくる。


 『障壁』にほころびが生じるのに、それほど時間はかからなかった。


 裂け目から飛び込んできた怪魚に、ルシカが『衝撃光インパクトライト』をぶつける。その魚は甲板に落ちる前に消し飛んだが、広がっていく裂け目からは次々に怪魚が飛び込んできた。 


「うッ……数が多すぎっ」


 軽く舌打ちをして、ルシカはすぐに腕を振り上げた。次に輝いたのは守護の魔導の、白の輝きだ。甲板で戦う仲間たちと兵たち全てに白い光の粉が降りかかり、全員の動きが軽く、速くなる。


「ねぇ、テロン、何かおかしいわ。魚たち、主に一方向から襲っていると思わない?」


「ああ、左舷側からばかりだ」


「何か理由があるのかしら……」


 ウルゥゥゥゥゥゥゥッ!!


 そのとき、船の前方から鋭い声があがった。警告するような鳴き声だ。


「ウルだわ」


 その声に反応したルシカが甲板を走り、舳先へ向かった。


「ルシカ、気をつけるんだ!」


 また一匹を海面に叩き落し、テロンがルシカの背を追う。激しくアップ、ダウンを繰り返す床は、戦う者たちの体をふわりと空中に突き上げたかと思うと、次に甲板に叩き付けようとでもいうように迫ってくるのだ。


「……揺れが激しくなっている。――マイナ!?」


 クルーガーが海に放り出されかけたマイナに気づき、腕を伸ばしてその体を抱き寄せた。その隙に飛び掛ってきた怪魚を、プニールの鉤爪が硬鱗をものともせずに切り裂く。


「海に放り出されないように気をつけろ!」


 周囲の兵に届くよう、声を張りあげる。船の揺れは激しくなっていくばかりだ。


 ふいに腕の中のマイナが顔を上げた。微かに身じろぎし、左舷の沖を見つめる。


「すぐそこまで近づいている……!」


「――ウル!」


 ルシカは両手をついて物見台に登っていた。木枠を掴んで立ち上がる。その危なっかしい姿勢の背中に、怪魚が迫る――。


「ルシカ!」


 追いついたテロンが『聖光気』を纏った腕で殴り、怪魚を離れた海面に吹き飛ばした。


 どうした、とは訊かない。ルシカはやるべきことを解っているし、テロンも同じだ。


 テロンはルシカの体を支えた。前方の暗い海面から小山のように突き出した、巨大な『海蛇王シーサーペント』の後頭部が見えている。ルシカが腕を伸ばし、渦巻く海と怪魚の猛攻の中からウルに呼び掛ける。


 優しい旋律のような言葉がルシカの唇から紡ぎだされ、呼応するように不可思議な音が響き渡った。途端に、ルシカの顔色が変わった。


「――テロン、大変だわ。この魚たちは追われて逃げているんだって。その捕食者が、すぐ傍まで来たって!」


 ウルルゥゥゥゥルル!


「あたしたち、もう気づかれてる!」


 甲高いウルの声は、はっきりと警告だとわかる。蒼白になったルシカを抱きかかえるようにして、テロンは段の下に飛び降りた。


 グオオォォォォォォッ!!


 凄まじい咆哮が海を、空気を激しく揺るがした。大きくうねる暗闇を割り、ザアアアアッと塔のようなものが現れる。


 それは生き物だった。ウルと同程度の巨大な体躯を持つ、海の怪物だ。


 てらてらと、ぬるぬると光る滑らかな皮膚の上を、海水が滝のように流れ落ちる。ぎらり、と闇の中で光る銀の眼球が、ぎょろりと目の前に浮かぶ船に向けられた。



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