2章 受け継がれしもの 5-6
賓客のための客間である一室は広く、奥の寝室の手前の部屋にはテーブルと椅子が複数並べられている。
クラウスはまず奥の寝室を覗き、そこに眠る少女の顔を確認した。少女の顔を認め、低く唸るように息を吐き、司祭は目を閉じて指で眉間を揉み解した。
「すでに連絡が入っている……彼女の父、ヨハン殿はすでに……」
話しながらクラウスは椅子に向かった。ルシカの手を借り、ぐったりと腰を下ろす。これから語らねばならぬ話の続きに、のしかかるような重圧を感じているかのようだ。
繊細な意匠を凝らして美しく飾られている天井を見上げ、老人はようやく口を開いた。
「……今朝の式典のあと、儂もはじめて聞かされた。マイナムの教会が焼け落ちた、と。昨夜遅くのことらしい。そして、その前後に黒い革装束を身に纏ったふたり組を目撃したとの情報も入っておる」
クルーガー、テロンとルシカ、三人は思わず顔を見合わせた。
「――カーウェンとルシファー。祭りのなかで騒ぎを起こした者たちが、確かそのように名乗り、あるいは互いを呼んでおりました。どこかの機関に属しているような発言もあったように思います」
ルシカが言った。些細なことまでしっかり覚えていられるのが彼女のもうひとつの長所だ。
「そのひとりは魔法を解放し、まるで化け物のように自分の体を強化していたぞ。――妙な魔法陣を胸に仕込んでいた」
クルーガーが、大聖堂を破壊されたときのことを思い出しながら語った。
「その者たちについて儂のほうに情報はないのだが……娘のほうの事情は生前のヨハン殿から聞いている。儂が知っておる全てをお話ししましょう。本当はもっと前に、陛下のお耳に入れておけば良かったのやもしれませぬが――」
クラウスは言葉を切り、ちらりと寝室のほうに意識を向けた。
「あの娘の……マイナの体には、グローヴァー魔法王国の遺した『五宝物』のひとつ、『従僕の錫杖』が受け継がれておるのです」
クルーガーが思わず席から立ち上がった。テロンは目を見開き、ルシカは膝の上に揃えていた手に力を込めた。
「それが……あの影の正体……」
ごくりと喉を鳴らしたルシカに、他の三人は注目した。
「あの子の胸の位置に、長細い影が見えるの。光が反転したような、輝く不思議な影……それがあの宝物だというのね……?」
「ルシカ、『従僕の錫杖』というのは何なんだ」
クルーガーもテロンも、いにしえに栄えた魔法王国が現代にまで伝え遺している、有名な五つの宝物の名前は知っているが、その詳細まで知っているわけではない。
もちろん、自分たちで探して、最終的にルシカが手に入れた『万色の杖』や、クルーガーの命運と引き換えに要求された『生命の魔晶石』、そして邪神復活の要となった『破滅の剣』については、実際に係わってきたから知っているが……。
「『従僕の錫杖』はもともと、魔法王国の中期に造られた魔法の品なの」
ふたりの問いかけに促され、ルシカが語りはじめた。
「永く平和だったと伝えられているグローヴァー王国だけれど、一度だけ、大きな暴動が起こったことがあってね――」
そもそもの始まりは、魔人族の治める領域、ミンバス大陸の都市ガルバーニャを発端とした騒ぎだった。
閉鎖的な平和、弱まっていく魔導の力――それを愁える人物が現れ、魔導再建を掲げた組織を作り上げた。
「このままでは太古より継がれてきた血は衰退する一方、我らは純血を守り衰退の歯止めと成さんとする」
魔導の力を操れない者を差別し『滅ぶべき血』と呼んで、魔導の力を持つ者との係わり、交わりを全て絶とうとした。
それが高じ、ついには虐殺にまで及んだため、王が自ら動いたのである。
当時の魔人族の王は、ラミルターという名の女性だった。その女性は正義感が強く、また気性が激しく、法を犯す者を許すことができない人物だった。だが同時に、暴力を何より嫌っていた。
血を流さずに組織を抑え、鎮圧し、無力化するために、ラミルターはその類稀なる魔導の力を使った。ひとの心とその生命全てを支配し意のままとする錫杖を作り上げたのである。
その魔力は凄まじく、組織の者は抗うことができず女王にひれ伏すことになり、騒ぎは治まった。
――だが、それをきっかけに事態は思わぬ方向へ転じていくことになる。
女王は箍が外れたように人々を支配し、自分の思うがままに動かしはじめたのだ。法を作って指導者として導くより、支配するほうが遥かに平和的でスムーズに国を治められることに思い至ったのである。
自分が、太古の昔に建国の長たちが見え深遠なる知識を授かった神々と同等の存在だと、僅かばかりに残っていた理性を粉砕し歪曲に思い込んだのだ。それが思い上がりだと気づかずに……。
そうして錫杖の遣い手が女であり、組織の指導者をはじめ一千余りの全てのメンバーが男であったため、錫杖はその名で呼ばれることになった――『従僕の錫杖』と。
だが、そんな自治領域の異状を、当時の王国全体を監視する立場にあった『評議会』が黙認するはずがなかった。女王の暴挙を止めようと、『評議会』内部の機関をはじめ他の四人の王たちが制裁の手を打ったのである。
追い詰められた女王は『従僕の錫杖』そのものを失うことを恐れ、人知れず巧妙に隠した。世継ぎで王を決めていた国ではなかったので、女王に子はなく――自分が娘のように可愛がっていた人間族の幼子の体内へと封印したのである。
しかもただ体内に封印したのではない――それは生命と結びつき、その者の魂と一体化したのであった。
普通に過ごす日常では、発現することもなく魔力の流れが見える者にも感じ取ることができない。だからこそ、決して見つかるはずはなかったのである。
ただひとつ、杖が体内に発現し、外より発見される可能性は――『生命の危機』に瀕したときのみだ。女王は捕らえられたが、その養い児は見咎められることなく逃げ果せたのであった。
そして『従僕の錫杖』は、子を産むと生命の一部として子孫に伝えられることとなった。命として次の世代に紡ぎ伝えていくことができる存在――すなわち娘へと。
その事実は永い間巧みに隠されていた故に忘れ去られ、また気づかれることなく……『従僕の錫杖』は王国の歴史から消えることになった。
ただひとつ、事実の発覚を恐れ獄中で自害した女王が、捕らえられる前に書き綴り、隠し遺した文献に記されたのみ。
それは王国末期に発見されたが、その時点ではすでに誰が錫杖を受け継いでいるのか記録を辿ることさえ容易ではなくなっていたという。
「あたしが読んだ文献も、その末期に記された物だったから……これ以上詳しいことはわからないの」
「そんな歴史が……。名前の由来はわかったが、その杖は現実に取り出せるものなのか?」
クルーガーが身を乗り出すようにしてルシカに訊いた。
「文献を読んだ限りでは、その方法はないみたい……」
ルシカは残念そうに首を振った。
そんな宮廷魔導士の顔を感服したように眺めていた老人は、そこで我に返って自分の膝をぴしゃりと叩いた。
「しかし、いやはや――さすがはルシカ殿。そこまで知っておられるとは話が早い。おかげで儂が語るべきことが半分がたなくなってしもうたの」
そう言ってクラウスは目元を緩めて少し笑った。……が、すぐに痛ましそうに眉を寄せ、目を伏せた。
「まあ、そんなわけで――マイナの体の中には、その『従僕の錫杖』が伝わっておるのです。本来、そんなものが体内に在ることすら知らずに人生を終えていくものなんじゃがのぅ……。その錫杖を狙う者が現れた、というわけじゃな」
「杖が体内に発現する『生命の危機』……さっきの化け物に変化した奴らに、襲われたってことか」
クルーガーが唸るように言い、腕を組んだ。自分で意識しているのかいないのか、寝室に繋がる扉に目を投じている。
「――その相手に、心当たりはあるのですか?」
テロンの問いに、クラウスは首を振った。
「今度は儂が知っていることをお話ししましょう。まずは、マイナの両親について語らなければなりませんな……。マイナの父は正真正銘、マイナムにあるラートゥル教会を預かる司祭ヨハン・セルリオーネじゃ」
「父親はその古代魔法王国に連なる魔導士ではないということですね。……では母親が?」
「そう。母親であるアイララが『従僕の錫杖』を継ぐ者だったというわけじゃ」
クラウスはゆっくりと語った。
「儂がヨハンに聞かされたのは、母親がミンバス大陸から来たということだ。その大陸にある小国の公女だったそうじゃ。だが、その代々伝わる力の秘密に気づいたやからに狙われ……ついには大陸を離れるために海に出たそうじゃ」
「遥か西方の、ミンバス大陸……」
「じゃが、海上までも追っ手がついた。船は沈められ、いったんは捕まったが、海に飛び込み、何とか逃れてこの大陸に流れ着いたという。海に流れておったところを助けたのがマイナムの漁師であり、村に運び込まれて介抱したのがヨハンだったというわけじゃな」
神職にある者は、そのほとんどが神聖魔法の使い手だ。医療の知識もある。小さな村では教会が病院の役割を担うこともある。
「アイララは、じきにヨハンと恋に落ち、結婚――そして娘を授かった。結婚前に妻から秘密を聞かされていたヨハンは、娘の誕生を喜ぶと同時に思い悩み、儂のところへ相談にやってきた」
クラウスは語りながら、目元を何度も拭っていた。その家族との繋がりが、単に神殿の繋がりというだけではない親愛深いものだったことを、聞いていた三人は理解した。
「だが儂が調べる前に、アイララは流行り病で亡くなってしまったのじゃ……。ヨハンは幼い娘と残されてしまった。ヨハンと儂は、その事実を洩らさず、儂らだけの秘密としておくことにしたのじゃ。年に一度だけ会い、娘の将来を憂えて何とか杖を取り出せないかと相談しながらの。だが……追っ手は諦めるということを知らぬ相手だったようじゃの……」
「……その杖を、体内から分離させることができれば」
顔を伏せ、深く考えを巡らせながらルシカが口を開いた。
「そうしたら、もう狙われなくて済むのよね?」
「そうだろうが、単に『封印解除』すればいいというだけの話ではなさそうだ」
クルーガーの言葉に、ルシカが顔を上げた。
「どういうこと?」
「彼女に向けて、あの相手が『封印解除』らしき魔導を使ったんだ。だが……魂が引き裂かれて死んでしまうと、相手の仲間の黒ずくめ野郎が叫んで止めたんだ。その方法では、無理だと」
ふむぅ、とルシカは半眼になって再び顔を足元に向けた。
クルーガーは続けた。
「それだけじゃない……。俺が見ていて思ったんだが、そんなものが体内に現れたからマイナは心臓や呼吸が苦しいんじゃないか? なんだかそんな気がするんだ」
「そうね……確かにそうかもしれないわ。直接体内に入っていて圧迫されているわけじゃないけど、生命と繋がっているわけだもんね……。発現したことによって体内の本来の魔力の流れが阻害されている可能性はあるわ」
「では、やはり無理に引き剥がそうとすれば、命に係わるってことなのか?」
テロンが訊き、ルシカはますます難しい表情になった。頭の中で、いろいろな記憶を混ぜ返し掘り起こしているようで、オレンジ色の虹彩にいつもの輝きが宿っていた。
「そういうことになるけど……何とかしたいところね」
「――方法がありそうなのか?」
クルーガーの問いかけに、ルシカは顔を上げた。決然とした表情だ。
「今はまだわからない。――でも、調べてみる!」
立ち上がるルシカに、テロンは何か言いたげに口を開きかけたが、すぐに口を閉ざし自分も立ち上がった。
ルシカが気力も体力も十分には回復していないことに、クルーガーも思い至った。ルシカは他人のためなら、自分のことはいつも後回しなのだ。
「あ――すまない、ルシカ。君も休息が必要なのに……」
言いかけるクルーガーに、戸口に向かって一歩踏み出していたルシカは「ん?」と無邪気そのものの表情で振り向いた。
「あたし? もう十分に休んだわ。平気、平気。――あっ、いけない!」
ルシカは手をポンと打ち鳴らし、クルーガーとテロンに体ごと向き直って言った。
「ティアヌとリーファが来てくれるんですって。あたしは図書館棟に居るから、テロン――悪いけど」
「わかってるよ、ルシカ。俺たちもあとで行く。……無理するんじゃないぞ」
「はい」
心配性のテロンに、ルシカは手をあげながら笑顔で応えてみせた。小走りに扉に向かおうとして、気づき、おとなしげに歩いて部屋を出て行った。
そんなふたりの様子を見て、ラートゥルの最高司祭は優しい眼で微笑み、「さぁて」と声をあげた。
「そろそろ、儂も退出させていただくとしましょう。聖堂が崩れておるので、復旧のための調べと、誰かが踏み入って怪我をしないように柵を作っておるのじゃった。儂も急ぎ戻って動かねば」
クラウスは言いつつ、腰を上げた。だが、言葉が終わるか終わらないかのうちに「いたたた……」と腰のあたりを擦ったので、慌ててテロンが手を差し伸べる。
「じゃあ、俺はこのままクラウス殿を送ってくる。それからティアヌとリーファに会って、そのあとルシカを手伝うつもりだ」
「ああ。わかった」
クルーガーは頷き、額に手を当てながらテロンに目を向け、一言付け加えた。
「――すまない」
「どうしたんだ、兄貴らしくない」
テロンは力づけるように微笑み、兄の腕を叩いた。それから老人を支えるようにして部屋を出て行った。
クルーガーは椅子に座りなおし、落ち着かなげに片足で床を叩いた。
「そうだな……」
静かに、口の中でつぶやく。
「どうしたんだ……俺は」
自分の胸の内に湧き上がる不安とも焦燥ともつかない想いが一体何なのか、何と呼んだらいいのかわからず、クルーガーは天井を見つめて己の内に問い掛けた。




