2章 受け継がれしもの 5-5
本来、暗く静かな住宅街の一角だった路地は今、見る影もなくなっていた。
「――あぐ……うッ」
マイナの喉を、男がぎりぎりと締め上げていた。爆風に吹き飛ばされたとき、空中で男に掴まれたのだ。
半ば崩れかけた壁に押しつけられ、マイナは呻き声をあげた。呼吸もままならず、為すすべもなく――マイナの手が、金属の硬度を持つ皮膚に覆われた男の腕をむなしく引っ掻いている。
路地の両サイドに続く石造りの建物は、先ほどの衝撃にボロボロと崩れ、窓に並んでいた鉢植えは落ちて石畳の上で砕け散っていた。洗濯物を干すために渡されていた紐はぶちぶちと千切れ、地面まで垂れ下がっている。
衝撃が発した中心付近の石畳は、まるで巨人がこぶしを打ちつけたように丸くへこみ、無残にひび割れていた。
周囲のものより頑丈に建てられた真新しい壁のみが、完全に崩れ落ちることなく残っている。
その壁に、逃れることもできず足掻くことすらできないまま、まるでピンで留めつけられた標本の蝶のように、少女の体が押しつけられているのだった。
「……今こそ、我らが捜し求める品を……」
少女の喉をギリギリと締め上げながら、銀の髪の異形は高ぶる期待に目を見開き、ニンマリと嗤った。
男の手がゆっくりとマイナの胸に伸ばされ、心臓の上あたりの位置で止まる。その手のひらが、ぼぅっとした青白い輝きを放ちはじめた。
呼応するように少女の心臓あたりの胸全体も輝きだした。闇に沈みゆくなかで、その光景は異様ではあるが煌々と光に満ちた奇跡の一場面のようでもあった。
青白く輝く魔法陣が展開された。少女と男を包み込み、周囲を圧倒するほどの力場が生じる。
クルーガーは爆風に吹き飛ばされていた。
民家の屋根の上に落ち、転がりながらも手を伸ばして縁を掴んで落下をこらえたクルーガーは、青白い光に驚き目を見張った。
「――な、なんだ?」
目をすがめ、眼下で展開される魔法陣の輝きを見つめる。
「封印……解除の魔法陣、か……?」
マイナの表情が苦痛に歪むのに気づき、クルーガーは奥歯を噛みしめた。
素早く周囲に視線を走らせ、足場になりそうな出窓やひさし、そして真下にある公共水道の台座などの位置を確認する。
壁を蹴って跳べば届きそうだ――。
クルーガーは落下したときにも手離さなかった剣を一旦鞘に収め、空中に跳び出した。
「……う……く……あぁッ……!!」
マイナは、あまりの苦しさに可能な限り身を捩り、絶叫したつもりであった。だが、喉から出るのはかすれた声が僅かばかり。――呼吸がほとんど止められているのだ。
自分の体の中心が凄まじい熱を放っているのではないかとマイナは思った。心臓が、まるで燃え尽き消し炭になるのではと思うほどにカッと熱くなっている。
……誰か、助けて……、おとうさん……おかあさん。
声にならない呼び掛けが、心の中で幾たびも繰り返された。そのまぶたの裏に、幼い頃に亡くした母の顔がぼんやりと浮かび上がっていた。
あまりに昔過ぎて幼すぎて、マイナははっきりとは覚えていなかった。だが父が部屋に飾ってくれた絵姿で容姿は知っていた。夜空のように星を宿し流れる漆黒の髪、マイナと同じ紅い瞳をした、とても美しい女性だ。
よく笑う優しいひとだった――そう父は娘に何度も話して聞かせてくれたのだ。
歌がとても上手で、村の外れにある海の見える丘の岩のところで、遠い故郷を想いながらよく歌っていたのだと。マイナが生まれたあとには、子守唄を穏やかな旋律で歌っていたのだよ、と。
――ズキン!!
ひときわ凄まじい痛みが全身を駆け抜けた。魂がばらばらになってしまうと思えるほどに。
「……よせえぇぇぇ!!」
マイナには聞き覚えのない、見知らぬ声が絶叫するのが、耳に届いた。
「――止めろ、止めるんだッ、ルシファー! そのままでは死んでしまう……!」
マイナの目の前は、まるで白熱したかのように真っ白で何も見えず、誰が叫んだのか判別できない。ただ、ずっと自分を助けようとしてくれている男性とは違う声なのはわかった。距離は少し離れているようだ。
「……カーウェン……何故止める!」
「わからないのかッ? その方法では無理だ……このまま続けると命そのものが引き裂かれてしまう!」
「……だれ……?」
かすれた声がマイナの喉から滑り出て、声を発した本人が驚く。締め上げていた腕の力が緩んでいたのだ。遠退きかける意識の中で、何者かが目の前の男にぶつかってゆく気配があった。
ガツッ! という音に続き、フッと何の前触れもなく突然マイナの体は完全に解放された。
一階分の高さから落下するところを抱きとめられ、無事に地面に降ろされたことを感じてマイナは目を開いた。間近にある青い瞳が油断なく前方を見据えているのが少女の瞳に鮮やかに映る。
その青い瞳がちらりと少女の顔に向けられ、その無事を確認する。真一文字になっていた口元が僅かに緩む。
「――大丈夫かい?」
低く心地よい、涼やかな声で相手が訊いた。それは王宮の前で出逢ってからずっと少女を護り続けている男性だった。
端正な顔立ちだが、決して冷たくはない、むしろ愛嬌めいてほんの少しだけふざけたような表情を作っている。凛々しくも優しい性根を語る真っ直ぐなまなざし。長い金髪が、まるで王族が身につけるマントのようにその背を覆っていた。
対峙している相手を睨みつける、どこまでも澄んだ夏空色の瞳。頼りがいのありそうな鋼のしなやかさを持つ体躯。そしてその口もとは――。
マイナは胸を衝かれ、思わずつぶやいた。
「……おとうさんに、似てる……」
――それは、クルーガーだった。
壁を蹴り、ひさしを掴み、脚をバネのようにして全身で受身を取りつつクルーガーが地面に降りたとき、悲鳴じみた別の男の声があがったのだ。
その制止の声を聞いた異形の男の表情が驚愕に歪み、少女を締め上げる力が緩んだ。同時に、少女に何らかの魔法を行使していた力場が消失したのである。
その隙に相手に体当たりを喰らわせ、クルーガーは少女を取り返すことができた。
「……この女性に手出しはさせない」
少女を腕の中に支えたまま再び剣を抜き、クルーガーは殺気を込めた眼差しを相手に向けた。
先ほど少女に向けた魔法で膨大な魔力を消費してしまったのか、相手は憔悴しきった様子だった。かなり離れたところまで吹き飛んだあとに起き上がっていたが、ぐらり、ぐらりと体が傾いでいる。
そのふらつく異形の影のすぐ隣に、新たに人影が生じる。暗闇に紛れて、黒衣の男が近づいていたのだ。
――そのとき、さらに新たな気配が増えた。
「兄貴!」
「クルーガー!」
耳に馴染んでいる頼もしいふたつの声が、クルーガーの背後から聞こえた。顔を向けなくてもクルーガーにはわかる。テロンとルシカだ。
「ルシファー……一旦、機関に戻るのだ」
「だが、目の前に……! またみすみす逃すのかッ」
異形の姿のほうが悔しそうに叫び、鋭く舌打ちを響かせた。黒髪のほうは一歩下がり、堂々と顎を上げて言った。
「――また見えることになろう」
「させないッ!」
逃亡の気配を感じ、ルシカが腕を突き出した。瞬時に展開された魔法陣が、相手の足元を絡め捕らえる。――が、黒髪の男が同時に展開した魔法陣が広がり、ふたりの姿を掻き消してしまった。
何処かへ転移したのだ。
「……逃げたか」
クルーガーは姿勢を戻して剣を収め、少女を軽々と抱え上げた。
「えっ、ちょっと待って――」
その行為に驚き慌てて声をあげかける少女に、クルーガーは親しげに笑いかけた。安心させるように、おどけたように片方の眉を持ち上げてみせて。
「――足、痛むだろ?」
少女が「え?」と目をぱちくりさせて、視線に促されて自分の足を見た。足首が赤く腫れ上がっている。衝撃に吹き飛ばされたとき、壁に打ち付けられたことが思い出され、マイナの頬が染まった。
「……あ、ありがとう、ございます」
マイナには、それまで過ごしてきた人生の中で他人に抱き上げられ、運ばれた記憶はなかった。物心つく前には、幼少の頃に親に抱っこされたことはあるのだろうけれど。
照れた顔を見せるのが恥ずかしくて、マイナは顔を横に向けた。周囲が暗くて助かったなぁ、と少女がつぶやく声がクルーガーの耳に届く。
騒ぎの中で街灯が壊れ、魔法の輝きもない路地はほとんど闇の中に沈んでいる。ただ、王都の夜空は幾分明るいので、歩くのにさほど不自由を感じることはないが……。
「ルシカは大丈夫なのか?」
クルーガーは傍らのテロンに訊いた。
さきほど魔法を放ったあと、昏倒し頽れてしまったのだ。もちろん、石畳に倒れる前にテロンがしっかりと抱きとめている。
「無理に魔力を使い過ぎたんだ。いつもの通りだよ……ルシカは止めたって聞きはしないからね」
テロンは無理に微笑み、ぐったりとしたルシカの体を抱く腕にそっと力を込めた。
お互いに女性を腕に抱えたまま、双子の兄弟は目を見交わし、照れたように笑った。
「――じゃあ、俺たちは指示で回ったあとに王宮に戻るよ。祭りのこと、ルシカも気にしてるだろうから」
「ああ、わかった。――こちらは先に戻っておく。さっきの奴らも、当分は戻ってこないだろ」
「そうだな。だが、気をつけておくにこしたことないからな、兄貴」
「ああ、ふたりともサンキューな」
テロンはクルーガーに向けてもう一度微笑み、踵を返し背を向けて歩き出した。
「あの――さっきのひとたちは、誰ですか?」
足音が遠ざかり、暗くて顔がろくに見えなかったらしいマイナが問いかけてきた。クルーガーは改めて腕の中の少女を見つめ、答えようと口を開いた。
「さっきのふたりは、俺の弟と友人、テロンとルシカだ。今更かもしれないが、俺の名はクルーガーというんだ。――君の名前は?」
「わたしはマイナ・セルリオーネ。助けていただいて、ありがとうございます。それから……う」
マイナはふいに言葉を切り、苦しそうに息を吸いこんだ。胸を押さえる手が震え、その呼吸が乱れる。
「それから、ご……ごめんなさい、あなたがたを、巻き込んでしまっ、て……」
「……痛むのか?」
苦しそうな表情で、蒼ざめた唇を僅かに開いて喘ぐマイナを、クルーガーは気遣った。
「すぐに王宮に向かおう。ゆっくり休めるぞ。それに医者もいる」
「でも……わたしどうしてもクラウス様にお会いしなければ……ならな……」
「大丈夫だ。司祭殿には王宮に来てもらうから、心配するな」
クルーガーは言い、苦しむ少女の体をあまり揺らさないように気をつけながら、急ぎ足に大股で歩き出した。身を縮めて痛みに耐える少女の体を腕に抱え、時折心配そうに覗き込みながら。
――これが、クルーガーとマイナの出逢いだった。
正門をくぐり、マイナを抱えたクルーガーが王宮に戻ると、国王の帰還に気づいた兵士たちがすぐに駆け寄ってきた。
国王の着ている服が裂けて血がところどころ滲み、その腕にはあまりの痛みと苦しみにほとんど意識を失いかけている年若い女性が抱きかかえられているのを見て、集まった者たちはみな驚いた。
クルーガーは部屋をひとつ用意するように頼み、腕の中の女性を運びましょうと声をかけてきた者たちをやんわりと断った。
クルーガー自身がマイナを部屋まで運び、整えられた寝台にそっと降ろした。呼ばれた医者がすぐに駆けつけ、侍女たちが水やタオルなど必要そうな物を持ってきた。
国王陛下の身を心配して駆けつけたルーファスは、クルーガーが何とか言いくるめて廊下に出し、「事情の説明と王宮抜け出しの釈明は明日にするから」と納得させようとした。
「実は陛下! 陛下がふらふらと王宮を抜け出し遊んでおられたときに、別の村の騒ぎの報告が入りまして――」
「すまない、ルーファス。それどころではないのだ。あとでまた聞こう」
負けじと言いかけるルーファスだったが、医者に呼ばれたクルーガーがすぐに部屋のなかに戻ってしまったので、何やらぶつぶつと口にしながらも待機するために階下に降りていった。
少女の具合を診た医者の話だと、特に体の異常はないという。
他の者が引き揚げてしまっても、クルーガーは部屋に残って少女の様子を見守った。
マイナと名乗った少女は眠っている。ぐったりと伏せられたまぶた、まつげは長く黒く、遠慮がちに輝いている魔法の光のなかでもくっきりと影を作っていた。乱れた前髪が額にかかり、桜色の唇は苦しみが続いていたためかうっすらと開かれている。
顔立ちは美人と形容するものではなく、むしろ可愛いという言葉のほうが似合うものだった。
年齢は、出逢ったころのルシカと同じほどか、ひとつは上か……見かけはもっと幼いが。あどけない表情も幼い印象に一役買っているのだろう。
魔導士ではないかとクルーガーは思っていたのだが、そういえば魔法を全く行使していなかったことに思い至る。
「あれだけ苦しそうだったのに、体に異常がないとは……もしかして呪いとか、別の要因があるのか」
クルーガーは少女の寝顔を眺めながら、考えを巡らせた。
「あるいは、ルシカなら何かわかるかもしれないな――」
そうつぶやいたとき、扉がノックされた。音でわかる――双子の弟、テロンだ。
静かに開けると、そこにはテロンがひとりで立っていた。ルシカの姿はない。気疲れした様子の弟を見て、クルーガーは尋ねた。
「テロン、どうした。ルシカの様子は?」
「まだ目を覚ましていない。……今日はずっと朝から動き詰めだったし、体内の魔力の消費も半端ないものだったからな」
テロンは息を吐き、言葉を続けた。
「だが、心配はないみたいだ。しばらく休めば回復すると思う」
「そうか……。ルシカの力は天恵のように凄まじいが、頼りになるのかならないのか、放出したあとの反動もまた凄いからなァ……」
クルーガーの言葉に、「そうだな」とテロンは顔を曇らせて頷いた。
「――今もあのときのことを夢に視るよ……。声なく叫んで目覚めて、隣で眠るルシカの寝顔を見て……ホッと安心する。いつかまたルシカが自分の生命を全て使い切ってしまうんじゃないかと、俺は今でも懼れているんだ」
「『浮揚島』を亜空間に封印したときだな……」
クルーガーもまた、心に受けた衝撃を忘れられずにいる。もう誰にも、そんな決断をさせるような状況を押しつけたくないとも思う。
その胸の内を悟られないよう、弟の腕をポンポンと叩きながら、クルーガーはことさらに明るい声を出した。
「まあ、燃費の悪い高性能高機能な魔導士のために、おまえが傍に居るんだろ? ――だったら大丈夫さ」
そのとき、ぱたぱたと足音がした。あまりに聞きなれた軽快な音に、双子は嘆息した。
「――ルシカ、走ると危ない。今はまだ体が」
テロンは言いつつ、すでに駆け寄っていた。案の定ふらりとバランスを崩して転びかけるルシカを、倒れる前に支えている。
「あの役目、俺には無理だなァ……」
クルーガーは以前からずっと痛切に感じていたことを、今もまたつぶやくのだった。
彼女を支え、ともに隣で闘えるのはテロンでないと務まらないだろう。だが同時に、双子の兄である自分以上にテロンを真に理解し支えているのも、彼女なのだ。
「クルーガー陛下」
ルシカの後ろから歩んできたひとりの老人が、こちらに向けて頭を下げていた。
「ラートゥルの最高司祭、クラウス様です。あたしが目覚めてここへ向かおうとしたとき、丁度お着きになったの」
ルシカがにっこり微笑みながら言った。
飾り気は少ないが上質な布で仕立てられた衣、胸にはラートゥルの聖印、そして口もとには薄いが長い白髭がたくわえられている。
齢七十を迎えるクラウスは、自分の手を取り導くように案内してくれる娘と若者に笑顔を向けた。老人はテロンとルシカにとっては婚姻の証人であり、クルーガーにとっては国事の良き相談者でもある。
「――いやはや、ふたりは本当に親切じゃのぅ。して……ここにヨハン殿の娘マイナが身を寄せておるとか」
「そのことで相談があるのです」
クルーガーは真面目な顔になり、音を立てないよう気を使いながら部屋の扉を開いた。




