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ソサリア魔導冒険譚  作者: 星乃紅茶
【第五部】 《従僕の錫杖 編》
103/223

プロローグ 祭りの前日

 北の海から届くかすかな潮の香りを乗せた風が、小さな村に届いた。


 優しい風が髪をそっと揺らし、少女は目を開いた。


 紅玉髄カーネリアンという宝石のような、陽光に輝く大きな真紅の瞳だ。透きとおるような肌は日焼けを知らぬ白磁のよう、黒い髪は明るい光の中でつやつやと際立っている。


 少女は立ち上がった。伸びやかな肢体に、しなやかさを秘めている。それを証明するかのように、トンと地面を蹴って走り出した動きは早く、あっという間に生垣に空いた隙間を通り抜け、流れる小川をいとも簡単に跳び越えて駆けていった。


「おや、マイナちゃん早いねぇ、おはよう」


「おはようございます、ブレンダおばさん!」


「今日も元気だねぇ。あとから教会に野菜を持っていくよ。収穫したばかりのエンドウとカクストアトマト、うめぇぞお」


「うわぁ、ジョシュアおじさん、ありがとう!」


 快活な、耳に心地よく響く明るい声で道行く人々と挨拶を交わし、少女は軽い足どりで緑の小道を走っていった。


 村はずれにある、とある古びた教会の建物に入る前でピタリと立ち止まり、パンパンと衣服を払い、スカートについていた草の切れ端を落とす。木造の扉を開けて中に入ると、静謐な空気が少女を受け入れた。


 教会は、少女にとって我が家だった。父は『光の主神』ラートゥルの司祭なのだ。


 王都にある荘厳な大聖堂とは違い、村の教会は質素なものだが、少女はこの空間が世界のどこよりも大好きだった。


「――とは言っても、あまり村から出た事はないけど」


 父と一緒に王都まで出掛けることはあるが、それは年に一度のこと。年の暮れの寒い時期に、大聖堂の最高司祭のもとへ赴くのである。


 滞在中の観光はしない。父は他人の係わりを敬遠しているのか、少々遣り過ぎなほどによその者とのつながりを警戒する。


 けれど、この漁村マイナムでの父は全く違っていた。相談ごとを率先して引き受け、診療を担い、皆から頼りにされている中心的な人物なのだ。朗らかで礼儀正しく、いつでも優しい。


 少女は父を心から尊敬している。たとえ質素な生活であっても、不満に思うことはひとつもなかった。


「マイナ、戻ったのかい?」


「はい。ただいま戻りました、おとうさん」


「おかえり、朝早くから出掛けていたのだね。……ところで、外で黒い服を着たひとを見なかったかい?」


 父の言葉に、マイナと呼ばれた少女は目をぱちくりさせた。


「いいえ、見なかったわ。村のみんなも、そんな話はしていなかったみたいだけど」


「そうか。ならば、いいんだ」


 眉を寄せるように曇る、父の顔。だが、娘であるマイナの心配そうな表情に気づいたのだろう。すぐにいつも通りの微笑みを浮かべる。


「さぁ、マイナ。朝ごはんを食べておいで。今日は鐘の修理にザイルさんが来るはずだ。来たらおとうさんに知らせておくれ」


「うん、わかったわ。おとうさんは、何か用事があるの?」


「急いでやっておかなければならないことがあるから、マイナは早くごはんを食べておいで」


 落ち着いた口調だったが、やはりどこか違和感があった。父はそれ以上何も言わず、正面の扉から外へ出て行った。


 マイナは眉をひそめた。――父が手に持っていたのは『護りの石』ではなかっただろうか。魔除けの結界を張るための魔石は、いざというときのための品であった。それを持ち出すとは、尋常ではない気がした。


「どうしたんだろ……おとうさん?」


 このときマイナの胸に芽生えたザワザワとする怖ろしい予感は――そのあと、現実になるのだった。





 大河ラテーナがグリエフ海と繋がる広大な三角江エスチュアリーに、ソサリア王国の王都ミストーナはある。


 『千年王宮』とも呼ばれる白亜のソサリア王宮があり、大陸のなかでも三本の指に入るほどの規模の港を有する大都市だが、『神の召喚(サモンゴッド)』でこの現生界に脅威をもたらした邪神ハーデロスの直接攻撃を受けたことがあった。


 『障壁シールド』という古代魔法王国の遺した結界のおかげで壊滅は免れたものの、衝撃や火災で崩れた建物が多く、少なからず打撃を受けていたのである。


 ――あれから一年。復興が進んでいる王都は今、祭りの準備でどこも活気に溢れていた。


「建物の修復も建設もほとんど完了したし、あとは心が元気になったらなぁって思って」


 白い王衣を身にまとい、片手を腰に当てて真っ直ぐに立ったクルーガーの目の前に、ひとりの娘が空からふわりと舞い降りた。


 薄桃色の衣がひるがえり、やわらかそうな金の髪がゆるやかに肩に落ちる。太陽のようなオレンジ色の瞳が、にこにこと楽しそうな輝きを宿して陽光の中できらめいた。


「まぁ、名称はぶっちゃけ何でもいいのよ。お祭りにはとにかく、大義名分が必要なんだもの。楽しんでもらうことが最優先!」


 言いながらルシカは木箱の中にある飾りのひとつを箱から取り、また空中にふわりと飛び上がっていった。その手の中で、金粉を貼った飾り玉が陽光を受けてキラリと光る。


「それで建国三百年祭ってわけか」


「そうよ。盛大にお祝いして、みんなに心ゆくまで遊んでもらわなくちゃ。それにクルーガーも即位一周年だし、ね」


「そういうルシカとテロンだって、結婚一周年だろ」


 クルーガーは白のマントを肩に放るようにして腕を出し、袖まくりをしながら言った。


「祝うことだらけってわけだ。――よし、手伝うぜ、俺も。いつもいつも公務で書類ばっか相手にしてちゃ、体がなまっちまう。ちっとは動かないとなァ」


「あら、ありがとう」


 空中にいったん静止したルシカは、クルーガーに笑顔を向けた。彼女は広場の中央にあるシンボル塔のてっぺんまで昇り、その先端から広場の端に繋げてある色とりどりのリボンに飾り玉を結わえていた。


 足場は、ない。彼女は魔導という魔法の力『浮遊レビテーション』を行使して空中に浮いているのだ。


「気をつけろよ、ルシカ。君の実力はわかっていても、見ているだけでヒヤヒヤする」


「大丈夫よ。飾りつけをやっているだけだもん。魔法に対する集中が途切れなければ、落っこちることもないし」


 十リール(メートル)はある高さから、『万色』の魔導士であるルシカがこたえた。


「――ルシカさま、やはりそこは我々にお任せください」


 広場には何十人もの市民が準備作業をしていた。国王であるクルーガーと宮廷魔導士ルシカとの遣り取りを聞いて、周辺にいた男たちの何人かが声を掛けたのである。


「心配するな。おまえたちが無理に頼んでいるなんて思ってはおらんよ」


 クルーガーは周囲に集まってきた男たちに向かって言った。


「はい、陛下もそうおっしゃるのはわかっているんですが……やっぱり俺たちも心配なんで」


「誰がやっても危ないから、自分がちょちょいとやっちゃうから、とルシカ様はおっしゃって」


 口々に語る男たちの言葉に、うんうんわかるわかる、とクルーガーは何度も頷いた。


「まぁ、ルシカの性格だからな。それに、俺も手伝おうと思ってるところだし」


 袖まくりした王衣を見せるように腕を回しながらクルーガーがにこやかに言い放つと、周囲の男たちは内心ため息をついた。


 国王陛下といい、宮廷魔導士といい、王弟殿下といい、どうしてこんなにも気さくで自分たちから率先して動こうとするのか――だからこそ、国民に好かれる王たちなのだけれど。それはその場にいる国民たちの共通の思いだった。


「いい祭りにしようぜ」


 クルーガー国王の言葉に、周囲の人々は一転、顔を輝かせた。


 中央広場は、子どもたちが遊べる会場にするつもりなのだ。今回の『建国三百年祭』の発案者であるルシカとテロンが、特に手間とアイディアを注いでいる場所でもある。


 かくして広場の入り口には『ごめんね、今日一日だけは我慢してね。それから当日はうんと楽しみにしててね!』という子どもたち向けの張り紙が貼られ、遊び場の代わりとして『千年王宮』の一角を開放しているのだった。


 クルーガーは、そのドタバタ騒ぎに乗じて、王宮を抜け出してきたのだ。


「今頃ルーファスのやつは子どもたちに囲まれて苦労してるかな」


 苦手な子どもたちに囲まれて狼狽していたルーファスの顔を思い出して、クルーガーは「ククッ」と意地の悪い笑いを洩らした。


「さて、と。どこから手伝おうかな」


 クルーガーが周囲を見回したときだった。広場の噴水からすこしはなれた場所にある幌つきの荷馬車に、六、七歳くらいの少年ふたりが忍び込むのが見えた。幌には『危険・火気厳禁』と赤い文字で書いてある。


 気になったクルーガーは、傍を通りがかった男に訊いた。


「あの荷馬車には、何が入っているんだ?」


「え、は、はい。あそこには当日使う花火が入っているんでさ。もうすぐ場所を移動させますので心配なさらず――」


 男がそこまで言いかけたとき、ちょうど中から少年たちが出てきた。


「お、おい。それはあぶねぇ……」


 見咎めた男が近づこうとして一歩を踏み出すと、それに気づいた少年たちがパッと駆け出した。腕に、いくつか花火を抱えている。棒のついた一抱えもあるもの――打ち上げ花火だ。


「む!?」


 それに気づいたクルーガーも、危険を感じて走り出そうとした、その時――。


 ひとりの少年が、立ち止まったもうひとりにぶつかり、ふたりはもつれ合うようにして派手に転んだ。弾みで、その手から石のようなものがいくつか落ちる。


 それは『発火石』という魔法の品だった。花火と一緒に入れてある訳がないだろうから、少年たちがどこかから調達したのだろうが――。


 パン、パンッとそれは砕け、火を吹いた。火をおこすのに使う小さな火種だ。だが、落ちた場所が悪かった。


 少年の目の前で、花火に炎が引火する――。


 ドゥンッ!!!


 地面を揺るがすような大音響がした。


 だが――まばゆく白熱した火の玉は、少年には届かなかった。驚くべきことに、それは魔法で作り出した幾重もの障壁に阻まれ、一リール(メートル)大の範囲で一瞬にして燃え尽きたのだ。


 呆然となった少年たちが、ヒィッと今更ながら慌てたように尻をつけたまま後退あとじささる。


「な――これはッ」


 クルーガーは咄嗟に塔の上を振り仰いだ。瞬時にこんなことができるのは、ルシカの魔導の力をおいて他にないと思ったからだ。


「……ルシカッ!!」


 ――やはりだった。ルシカは行使した魔導に全身全霊を注ぎ込み、一瞬で複数の障壁を作り出し、爆発する花火を囲ったのである。自分自身を空中に浮かせていた魔法に対する集中が途切れ、ふらりと地面目掛けて落下する瞬間だった。


 クルーガーは地面を蹴り、落下地点に跳んだ。


 間一髪、伸ばした腕にドサリと細い体が落ちてきた。危なかった……。クルーガーは止めていた息を吐き、安堵のあまり腕に抱えたルシカを胸に引き寄せた。


「……ありがとう……クルーガー」


 どきどきと鳴るルシカの鼓動が、クルーガーの胸にまで響いてくる。よほどこたえたのだろう、その声は細く、指先までもが震えていた。


「ご、ごめんなさいっ」


 幼い声に顔を上げると、クルーガーの前にふたりの少年が立っていた。


「――悪戯は過ぎると、怖ろしい結果になるぞ」


 クルーガーは少年たちの目を交互に見つめて、ゆっくりと言った。


「あそこに『危険』と書いてあるだろ? 読み書きできる年齢のようだし、読めるよな。書いてあるってことは、そういう意味だということだ。……わかったらいい、次からはよく考えるんだ」


「はい、本当にごめんなさいっ」


 国王陛下直々に諭され、すっかり意気消沈した様子で少年たちは広場から出て行った。


 ルシカはゆっくりと息を吐いてクルーガーに微笑んだ。


「もう平気――助かったわ、ありがとう。誰も怪我がなくてよかったぁ……」


 そしてルシカは、しょんぼりと歩いていく少年たちの後姿を見て、ふふっ、と微笑んだ。


「子どもって素直でいいね。クルーガーの諭し方も素適だったし、次からはきっと気をつけるようになると思うよ」


「どうしたんだ、子どもでも欲しくなったか?」


 クルーガーが冗談めかして茶化すように言うと、ルシカは目を伏せるようにうつむき、頬をほんのり染めながら囁くように言った。


「うん、そうなの……欲しいなぁ、って……」


 素直な返答に、クルーガーの鼓動がどくんと鳴った。


「そっ、そうか。もう一年だもんなァ……」


 ふと気づいて目を上げると、周囲に人だかりができていた。みな口々に、宮廷魔導士と国王陛下の安否を気遣う言葉をかけている。


「――ルシカ! 兄貴!」


 よく耳に馴染んだ声に気づいて振り向くと、クルーガーの双子の弟であるテロンが、ひとの間をすり抜けながら近づいてくるのが見えた。クルーガーと同じ金色の髪、青い瞳の丈高い青年だ。


「テロン」


 腕の中に抱いたままのルシカも気づいたので、クルーガーは彼女を立たせてやり、自分も立ち上がった。


「ありがとう、兄貴。俺がついていながら――」


 テロンは長身をかがめるようにしてルシカの腰と肩にその腕を回し、彼女を抱きしめた。いつもならテロンがルシカの傍についているのだが、何か別の荷を取りに行っていたのだろう。


 双子の弟の表情を見て、後悔と自責の念と、無事な妻の様子に心底ホッとしているのが手に取るようにわかった。


「……ごめんなさい、テロン。あたしが、みんなの止めるのを聞かなかったから。クルーガーがいなかったら骨の十か二十本くらい、砕いちゃってたかも」


「こら、冗談ごとじゃないぞ」


 テロンは体を離してようやく微笑み、彼女の額を優しく小突いた。ごめん、ともう一度繰り返して言ったルシカは、クルーガーを振り返った。


「本当にありがとう、クルーガー」


 陽光のなかで花がほころぶような笑顔で、ルシカが言った。


 クルーガーはまぶしそうに目を細め、ゆっくりと目を逸らした。周囲の人垣に向き直りながら口を開く。


「まあ、怪我はなかったし――気に病むな。ささッ、早いところ祭りの準備をやっちまおうぜ。日が暮れちまう前に!」


 声を張り上げたクルーガーに、集まっていた人々も各々の持ち場に戻ってゆく。


 ルシカは残りの飾りつけを再開しようと箱を抱え、その隣を歩くテロンが彼女の荷を当たり前のように持ち上げ、運ぶのを手伝いながらふたりで歩いていった。


「仲、むつまじいなァ」


 クルーガーは嘆息しかけたが、そんな自分に気づいて顔を上げた。


 そして、自分もできることを手伝おうと頭を掻きながら、山積みになっている荷に向けて歩き出したのである。



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