7章 真実を見るもの 4-20
「ドゥルガー、この卑怯者!」
金色の長い髪、ぴったりと体に沿った衣服。手にしているのは、リューナやハイラプラスと同じ『魔導の剣』だ。
魔法の集中を乱され、赤い魔法陣が消える。ディアンの体が糸の切れた人形のように崩折れた。
「あんたの魔力の強さは、その右目があるからじゃないのッ! ハイラプラスの瞳が無ければ、あんたは弱い。他人の力で思いあがるんじゃないわよ!」
髪を振り乱し、手にした魔法の刃を男の顔に突き立てようとしている女性の顔を見て、リューナは驚いた。
「あんた――ルエインか!」
トルテを刺した犯人! こぶしを握りしめたリューナが怒声をあげる前に、トルテの声が響いた。
「ルエインさんっ。危ないです!」
その声に含まれているのは、ただただ心配している感情のみ。
言葉を失ったリューナは首を巡らせ、トルテの姿を探した。
スマイリーがザルバスの『砂蛇王』と激しい戦いを繰り広げている。トルテは必死でその背に掴まっていた。スマイリーの背からずり落ちそうになりながらもルエインの身を案じているのだった。
そして虚空で腕を振るい、トルテはディアンとリューナに『治癒』の魔法を行使した。
スマイリーは背のトルテを気にしつつ戦っているので、動きが幾分にぶい。目まぐるしく変わる視界に飛び降りるタイミングを見定められず、トルテも降りるに降りられないようだった。
「――トルテ、受け止めるから、跳べ!」
声を張りあげ、リューナは幻獣たちの動きを予想しつつ駆け出した。トルテの回復魔法で体の痛みは軽くなっている。
トルテはすぐに反応し、手を離した。地面に叩きつけられる前に、リューナがしっかりと受け止める。
気遣う必要のなくなった『月狼王』は『砂蛇王』と激しくもつれ合った。お互いに牙を剥き、相手の油断を誘いながらぐるぐると動き回りはじめる。
リューナとトルテは地面に倒れ伏していたディアンに駆け寄った。
「ディアンっ」
リューナが友人を助け起こし、トルテがその手を握って魔力を流し込む。ディアンはすぐに目を開いた。状況を把握しようと周囲を見回す。
「……あの女性が戻っているのか。トルテを殺そうとしたくせに――やっつけてやりたいくらいだ!」
「おまえと同じ気持ちだ。俺も自分を抑えるのに苦労している。でも敵に寝返っていたなら何故、奴と戦っているんだ?」
「それはわからない」
「――あのひとは」
トルテが喉に何かつかえでもしているかのような声で言った。
「あのひとは、方法を間違えているだけなんです。本当はとても純粋なひとなの」
「おまっ……、トルテを殺そうとしたやつなんだぞ。どうしてそんなに許せるんだよ!」
リューナは思わず声を荒げた。自分は、あのとき血に濡れた手の感触が今でも忘れられないというのに。
トルテは心配そうにルエインとドゥルガーの戦いに目を向けている。
当のルエインはドゥルガーに手首を掴まれ、ぐいと捻られていた。だが、ルエインは剣を逆手にくるりと持ち替え、負けじと相手の眉間に刃先を突き刺そうと力を込め続けている。
「ハッ、莫迦な女だ……ハイラプラスがおまえを許すはずが無かろうに!」
「――ルエイン、お退きなさい!」
低い声が響いた。
同時にルエインがぐいと自分の身をドゥルガーから引き離すように動く。体が反射的に声に従ったのだ。
声の主を振り返ろうとしたルエインの鼻先を、白い光が掠め過ぎた。それは魔法で生み出された矢だった。貫いたのは、ドゥルガーの右の瞳――。
ザンッ……!
「うがあああぁぁぁぁ!!」
ドゥルガーが絶叫し、片手で右目を押さえて身悶えた。
「先生、なんでッ!」
掴まれていた手首を振りほどき、ルエインが悲鳴混じりの声をあげた。
凛とした表情を変えず、ハイラプラスは声を張り上げた。
「ディアン、今です!」
呼び掛けられたとき、すでにディアンは魔法陣を完成させていた。『魔法封印』の魔法陣だ。
ハイラプラスから奪った瞳を失ったドゥルガーの抵抗は脆弱だった。強大な魔力のほとんどをその瞳に頼っていたのである。
ギクシャクと動き続けていた飛翔族の兵士たちが、一斉に動きを止め、地面に崩れ落ちた。ディアンの魔法が、彼の禁じられた魔法の力を完全に封印したのだ。
「――よっしゃ!」
リューナはガッツポーズで歓声を上げた。
スマイリーもまた『砂蛇王』を組み伏せ、その喉に牙を埋めてその動きを封じている。
「あきらめなさい、ドゥルガー」
ハイラプラスの声に、ドゥルガーはよろめき後退った。地面に描かれた魔法陣まで引き下がる。
ルエインは呆けたように地面に座り込んでいた。ハイラプラスが彼女のもとに静かに歩み寄っていた。膝をついてかがみこむ。
「……あたしは、あなたの為だったら何だってやるつもりだった――。あいつから瞳を奪い返して、あなたを元通りにするつもりだったのに……!」
激昂して髪を振り乱す女性の肩を、ハイラプラスはそっと掴み、自分の胸に引き寄せた。
「親友が作ってくれて、愛する恋人が移植してくれた瞳ですよ。私はとても気に入っているんです。これ以外は欲しくありませんよ、今ではね」
ルエインはぽぅっと呆けたように目の前の青年の顔を見つめ、ワッと泣き出して相手の胸に顔を埋めた。
「歯が浮きそうだ……」
「……同感」
少年ふたりは吐きそうな表情を見合わせた。トルテはホッと胸を撫で下ろしたが、その表情が強張った。
「リューナ、何だか変です」
トルテが緊迫した声でリューナの袖を引っ張った。指差す先を見て、ギクッとする。
ドゥルガーはこちらに背を向けたまま突っ立っていた。地面に穿たれた『穴』の手前だ。そこから、紫とも赤ともつかぬ細い光が天に向かって放出されていた。
その光を目にした瞬間から、リューナは胸が落ち着かなかった。畏怖なのか恐怖なのか、――本能が危険を知らせている。あの光に触れれば存在すら消えてなくなる、そんな気がするのだ。
「あれは、何?」
ディアンの問いに、ふたりは答えられなかった。
「……『極』の時だ。いよいよ来たのだ、この瞬間が――」
ドゥルガーはうっそりと微笑んだ。
「この世界が浮かんでいる次元の揺らぎが最大になる『時』――。様々なチカラや存在、魔法、全てがうたかたの夢のように不安定になる、刹那とも永劫とも呼べる『時』が――」
ドゥルガーはよろけながら言葉続けた。夢見心地に。
「次元の再構築に必要なのは魔力ではない。知識だ。我は決して呑まれはしない――そのための『契約』を今こそ結ばねばならない」
足元の魔法陣に膝をつき、ドゥルガーは右手を顔から離した。ボタボタッ、と音を立てて赤黒い液体が地面を濡らした。
「ザルバス!!」
ドゥルガーは立ち上がった。にゃっと嗤いながら、ただひとり残った臣下に向き直る。ザルバスは地面に倒れ伏すように蹲っていた。スマイリーに破れた幻獣の上位種『砂蛇王』を呼び出すために魔力のほとんどを使ったのだ。
だが、ザルバスは立ち上がった。荒い息のなかにあってもドゥルガーに向かって頭を垂れ、苦しげに胸に当てていた両腕を左右に大きく開いた。
「はい……仰せのとおりに……我が主よ」
「駄目ッ――いけないです!」
声が、意外なところからあがった。トルテだ。
「あなたはさっきの上位種の召喚で魔力をほとんど使い果たしているわ。……それ以上魔法を使うと、生命を維持することができなくなってしまいます!」
ザルバスは一瞬驚いたような、呆然としたような目で自分を気遣ってくれた少女を見つめた。だが、自虐的な笑みに唇を歪めると、天を振り仰いだ。
「――――!!」
声にならない音が響き渡り、空間が震えた。
神界に向けられた言葉は、現生界の存在の耳には聞き取れない。だが、圧倒的な気配がその声に応えたのが感じられた。
ザルバスが血の涙を一筋流した。その体が、まるで火の中に放り込まれた紙人形のように崩れ去る。
幾分か白み始めていたはずの空が、周囲が、赤い海の底に沈んだように深く昏く染まってゆく。
世界の『へそ』と呼ばれる裂け目、大地に穿たれた『穴』から立ち昇る光は、太くなり、柱となった。そこから轟くのは空間が軋むような、魂消える者の叫びのような不気味で不可思議な音の集合体だ。
柱は増え、枝分かれし、前衛的な、重力に縛られない造りの神殿のようなものを創りあげた。ドゥルガーの姿もすでに光の柱に呑み込まれている。
それは礎であった。神界から現生界へ渡る神の降り立つ足場。
実行したのだ、『神の召喚』を――!
光の柱が広がる規模に耐え切れず、『穴』は広がろうとして周囲の大地にヒビを走らせた。
崩れた岩や土くれは、光に触れた端から粉々に分解されて視界から永遠に消え去った。
紫とも赤ともつかぬ光は、不気味な明滅を繰り返しながら周囲の空間に爪を伸ばし続け、空気が渦を巻きはじめた。圧倒的な存在感を持つものが近づいてくる――肌で、心で、耳で感じられるのだった。
「――くそっ! どうすればいいんだ!」
リューナたちは地面に伏せていた。すぐ傍の魔法陣が描かれていた地面まで、すでに崩れ去っている。
両腕を使い、じりじりと外側に向かって移動するが、ディアンとトルテが空気の流れに逆らいきれず、今にも体を持っていかれそうになっていた。リューナはふたりに手を伸ばしたが、自分自身の足が攫われるのに抗うことで精一杯で、なかなか近づけない。
「全軍、撤退ッ! 撤退――!!」
遠い上空でダルバトリエの声が響き渡るのがリューナの耳に届いた。渦巻く空気が、それすらも掻き消そうと音高くゴウと鳴っている。
ハイラプラスがトルテの腕を支え、いつの間にやら近づいていたフェリアがディアンの肩を支えた。ダルバトリエが空中から地面に突っ込むように降り立ちながら変化を解いた。赤い鱗と巨大な体躯は、真紅の装束と筋肉質の肉体に変わった。
「無事なものは環状山脈まで下がらせた。そこで、飛べる者はそうでない者を背に乗せ、この大陸を離れるように指示してきたぞ」
「ナイスですよ、ダルバトリエ。この大陸はもはや滝のなかの泡粒と同じ、簡単に消え去ってしまうでしょうから」
ハイラプラスが言い、皆にこちらへ集まるようにと手招いた。そこでは、ルエインが逆巻く風のなか真っ直ぐに立ち、両腕を広げている。
「ルエイン、――はじめますよ!」
「はい!」
もはや迷いの吹っ切れたルエインは澄んだ声で返事をし、瞳に力を込めて腕を空中に滑らせた。
ハイラプラスは、腕に抱えるように支えていたトルテをリューナに頼むと、自分も立ち上がった。両腕を大地に向けて目を閉じる。
バシュゥンッ! ハイラプラスを中心に巨大な緑の魔法陣が瞬時に地面に広がり、リューナたちは驚いて大地についていた手を離した。
キィンッ、キンッ、キンキンキン……!
次に、鋭い音が幾つも連続的に鳴り響き、青い魔法陣が一同を取り囲むように広がった。風が治まり空気が安定したが、今度は地面が激しく揺れはじめた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
大地が身震いするようにひときわ強く揺れたかと思うと、重力の理から外されて空中に浮かび上がった。その刹那、光の亀裂が見える大地に全てに奔り、ガァンと割れたのが視界いっぱいに見えた。
「あっぶねぇ……」
リューナは大地だった場所を見下ろして思わずつぶやき、嘆息した。あのまま地面に立っていたら、全員が割れ裂けた亀裂に落ち、光に呑まれて跡形もなく消え去っていただろう。
「――『浮揚島』じゃ」
ダルバトリエが畏敬の念を込めてつぶやいたのが、リューナの耳に入った。
ハイラプラスとルエイン、ふたりの術者は並んで立ち、大地を島として重力のくびきから解放し、空中に浮かせるという魔法を具現化しているのだった。
ミッドファルース大陸という名の大地は、『穴』だった場所にずるずると引き寄せられ、そこで消え去っていた。まるで、テーブルに開けた穴からテーブルクロスを引っ張り、下にそのまま引き抜いて、目の前から消してしまうように。
リューナたちは呆然と大地が消えゆくさまを眺めていた。――自分たちに一体何ができよう?




