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09 暮らしの差


 お忍びだったのだろうか。リズがこんなに近くにいたのに、気が付かなかった。

 周囲にいた民も突然現れた次期皇太子妃に驚きを見せている。

 それも一瞬で、メーダ王国から来た花嫁をそばで一目見ようと駆け寄っていった。


 熱狂した雰囲気とは逆に、レティーシャの脳裏には裏切られた夜の光景が蘇り、彼女の体温は冷たくなっていく。

 目を丸くして、棒立ちになってリズを見つめた。



「わふ!」

「――っ! ごめんなさい。失礼します」



 わたあめの声で我に返ったレティーシャは、神官に頭を下げてその場を駆け出した。「待ってください」と引き留める神官は、閉ざされた門が隔たりとなって追いかけられない。

 レティーシャは人だかりを壁にして身を隠すように裏路地に飛び込んだ。



(リズに見つかるわけにはいかないのに、危なく突っ立ったままでいるところだった。わたあめ様、ありがとうございます)



 足元でへっへっと舌を出している白い小犬の頭を撫でる。ふわふわした撫で心地もあって、少しだけ落ち着きが戻ってくる。

 だがレティーシャの足は未だ、縫い留められたようにその場から動かない。



(リズに私が生きているって知られたら危険だわ。もっとリズから離れて、隠れないといけないのは分かっているけれど……どうしても気になる。新聞では上手く成りすましているようだけれど、今のリズはどう過ごしているのかしら? 横暴に振舞っていたりしていないでしょうね?)



 わずかに残っている王女としての責任がうずく。

 豪華な暮らしに目が眩んだリズのことだ。上手く騙せたことを良いことに、わがまま放題をして帝国に迷惑をかけていないか心配になる。

 新聞だけではなく自分の目で確かめたい。



(レティーシャの名を放棄したけれど、穢されるのは嫌っ)



 危険を感じつつ、興味が勝る。桃色の髪を隠すように今日買ったばかりのレース生地をショールのようにして頭に被ると、こっそり人だかりに溶け込んだ。



「レティーシャ様ぁ~」

「ご婚約おめでとうございます!」

「きゃー♡」



 偽物の次期皇太子妃だと知らない民たちは、護衛騎士の壁越しにリズに向かって手を振っている。



「ふふ、皆様ありがとう」



 それに対して、リズも笑顔で応えていく。目尻を柔らかく下げ、口元には理想的な弧が描かれていた。

 また、表情だけでなく身なりにも気配りが行き届いていた。

 長い桃色の髪は結い上げられ、ポニーテールが優雅に揺れる。煌めくプラチナの髪留めと大粒の宝石でできたイヤリングが目を引き、上品なデイドレスも相まって、誰が見ても美しい姫がそこにいた。


 取り囲まれることに慣れているのか、リズは慌てる様子もなく分け隔てなく民に手まで振っている。

 その手は馬車の前に着くと、恭しく補助する護衛騎士の手に重ねられた。



「それでは、ごきげんよう」



 リズがいっそう笑みを深めると、民は一気に盛り上がりを見せた。

 すぐ後ろに、本物のレティーシャ・ルイ・メーダがいることなど知らずに⋯⋯。



(――あ)



 ぼーっと見すぎてしまった。

 バチっとリズと視線がぶつかってしまった、ような気がした。

 レティーシャは慌てて顔を俯かせて、前に立つ人の背に隠れる。ドキドキと心臓がうるさくて、リズにまで聞こえてしまいそうな不安が襲う。


 だがバタンとすぐに扉が閉められ、馬車は走り出していった。

 あっという間に人々は散り、何事もなかったように時間が動き出す。

 その場には、レティーシャだけがポツンと取り残された。



「⋯⋯わたあめ様、私たちも帰りましょうか」

「わふ」



 どこか呆然とした気持ちを抱え、レティーシャは街をあとにした。

 馬車に乗っている間も、森の入口で馬車を降りても、先ほど見たリズの姿がぐるぐると頭の中を巡る。



(リズ、すっかり立派な皇太子妃の顔をしていたわ。裏切りがなければ、あそこにいたのは私だったのよね? 綺麗なドレスと宝石で着飾り、民にも笑顔で受け入れてもらえて――⋯⋯)



 夢のような世界だった。明るい微笑みを浮かべるだけでたくさんの人に愛される世界。

 しかし、リズの姿を自分に置き換えて想像してみたものの、本当に夢を見ているかのようにイメージが掴めない。手の届かない、遠い別の世界に感じてしまう。

 気付いたら、家に着いていた。

 鍵を開けて中に入り、買い物かごを下ろす。その途端、体から力が抜けた。



「はぁぁぁぁぁ~~~~落ち着くぅ♡」

「わふわふ!」

「ふふ。豪華な生活を見せつけられて、少し良いなぁって憧れちゃったけれど、やっぱり私には森暮らしの方が合うみたい。堅苦しいマナーも気にしなくて良いし、自由に外出できるし、空気も美味しいし! 今の暮らしって本当に素敵よね!」

「わふ♡」



 いちいち他人の顔色を窺う必要もなく、理不尽に蔑まれることもない。これほどまで自分の気持ちに無理をせず生きてきたことはないと断言できる。

 重いものを運ぶのは大変だけれど、それ以上に今まで知らなった景色を見るのが楽しい。

 市場の活気があれほど熱いとは知らなかったし、庶民の生活も知恵がいっぱい詰まっている。

 家事は、ハンドクリームを塗ってもどうしても手が荒れるし、肉体的に疲れやすい重労働だ。

 でも王女時代とは違い、できるようになった分だけ認めてもらえることがとても嬉しい。

 先日はグレンからボーナスとして、契約外のお小遣いまでもらってしまった。大金ではないけれど、成果が形になることの喜びを知った。

 元王族としては落ちぶれた状況だとしても、悪意に晒されず、存在を尊重してもらえる生活は素晴らしいものだ。むしろ毎日体を動かし働いているせいか、王女時代のときよりも逞しく健康的になりつつある。



「働くって素敵♡ さて、約束通りトマトをお出ししますね」

「わふわふ! わふわふ!」



 保冷庫から出したトマトをわたあめに差し出し、食べている姿にふと疑問を抱く。



「あれ? わたあめ様が白くなった? ううん、銀色になっている?」



 トマトに夢中なわたあめの返事はない。

 それでもレティーシャの目にはどう見ても白色の純度と艶が増しているように見えた。試しに撫でてみると、手触りまで滑らかになっているではないか。

 路地裏のときはリズに気を取られて分からなかったが、気のせいと片付けるには、明らかにわたあめの毛質が変化している。



(一体どうして?)



 蘇るのは、特別な魔術だと思い込んでいた神官の言葉。裏を読めば、普通の魔術では今までリースを綺麗にできなかったということだ。



「神託の乙女だから、何か力に目覚めたのかしら?」



 確認するために胸元で手を組んで祈ってみるが、今は周囲の様子もわたあめの毛色の輝きも特に変化は起きない。

 代わりに気付いたことと言えば時間だ。



「わ! もうお昼の時間になっちゃうじゃない! 今日の夕食は早く仕込もうと思っていたのに」



 レティーシャは買ったものを仕舞うと、急いで料理に取り掛かった。


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