08 不思議なできごと
グレンと森の中で暮らし始めて一か月。
すっかり買い物に慣れたレティーシャは、生活雑貨を求めて市場の隣エリアに足を運んでいた。
石鹸にハンドクリーム、新しいレース生地を安く手に入れられてご満悦だ。
「レース生地は端を処理すれば羽織るのにピッタリ。春でも、やっぱり森の朝は肌寒いですからね。ちょうどタイムセールでラッキーでした。わたあめ様のお陰です」
「わふわふ」
ひとりでの買い物の許可が出た二回目以降、レティーシャが出かけるたびにわたあめが付いてくるようになった。
まるで護衛だと言わんばかりのキリっとしたわたあめの顔にはグレンも止められず、むしろ「わたあめ、レティを頼んだ」とレティーシャ本人よりも信頼した様子で送り出している。
実際にレティーシャが川に流されたときにグレンを誘導した実績があり、先日はスリに遭いそうなところを吠えて助けてもらった。
そして今日はタイムセールまで知らせてくれた。
わたあめには頭が上がらない。
「帰ったら、トマトをサービスで一個追加しますね。グレン様には内緒ですよ」
「わふ♡ わふ♡」
わたあめが、元気よく尻尾を振った。
努力の甲斐あって料理もだいぶ上達し、食材を収納する保冷庫はすっかりレティーシャの管理下に置かれている。トマト一個くらい減っても、気付かれないだろう。
掃除も一通りレティーシャに一任されるようになり、グレンがガミガミと怒ることはめっきり減った。
でも彼の場合、キツイ物言いは強い心配の表れ。今となってはその不器用な優しさに、少し恋しさすら感じてしまう。
長く冷遇されてきたレティーシャにとって、どんなに不器用でも優しさというものが嬉しくて仕方ないのだ。
(あぁ、でも駄目よ駄目! 優しさを求めて「教えて欲しい」とグレン様に甘えたら、つい最近も大変なことになったじゃない)
数日前、りんごの皮むきが上手くいかずグレンに手本を見せて欲しいと頼んだときのことだ。
『最後の一個? そのりんごを使ったら、レティが剥く分までなくなるな。一緒にやるか』
そう言ってグレンはレティーシャの背後に立った。
そしてりんごと包丁を持つレティーシャの手に彼はそれぞれ手を重ねて「こうやって動かせばいい。感覚を忘れるな」と、耳元で囁きながらりんごと包丁を動かし始めたのだった。
皮は、するすると綺麗に剥けていく。
だが、後ろから抱きしめられているかのような姿勢に、レティーシャの心臓は爆発しそうなほど強く脈打ち、りんごどころではなかった。
異性どころか、誰かに抱き締められた記憶がない彼女にとって衝撃の体験。
結局、忘れられなくなった感覚は、包丁よりも背中から感じるグレンの温もりと香り。
(同じ石鹸や香油を使っているはずなのに、私とは違う香りがしたわ。柑橘系の香りに混ざって、落ち着いた別の……って、わわ)
思い出すだけで再び鼓動は速まり、体温まで上がってしまう。平常心でいられない。
最近はグレンが近くに立っただけで、妙にレティーシャの心臓が騒がしくなって大変なのだ。
「やっぱり、ひとりでできるように頑張らないと」
挙動不審は今に始まったことではないが、これ以上変な女と思われるのはなんとなく避けたいところ。
レティーシャは熱っぽくなった頬に手を当てて、冷まそうと試みる。
ちょうどそのとき。
「わふ! わふ!」
わたあめが足を止め、レティーシャの気を引くように鳴いた。
「どうされました?」
「わふ〜」
「あれは――神殿?」
わたあめの視線の先を追いかけると、通りの向こう側に小さな神殿が見えた。
エデルトリア帝国は神託を重んじることから察せられるように、神への信仰心が厚い国。
建国の王に加護を与えたと言われている女神トゥーリは、今も帝国を見守っていると言い伝えられている。帝国が強国として栄え続けているのは、皇家を愛する女神が与えた加護の恩恵らしい。
だからエデルトリア皇家は、帝国民がいつでも女神トゥーリに感謝と祈りを捧げられるよう、首都内には小さな神殿をいくつも建てていた。
「そういえば帝国に来てから、一度も神様にご挨拶したことがなかったわね。死なずに暮らせていることも感謝しないと。わたあめ様、少しお付き合いいただいても?」
「わふ!」
わたあめに許しを得たレティーシャは、神殿の門の前に足を運んだ。
ただ一般開放している時間ではないのか、鉄柵の門は閉ざされている。残念ながら神殿の中には入れないらしい。
それでも感謝の気持ちは変わらない。レティーシャは胸元で手を組み、門の前で祈りを捧げることにした。
(エデルトリアを見守る女神トゥーリ様、私に生きるチャンスをくださりありがとうございます。この命を大切にすることを誓います。心より感謝を)
心を込めて祈りを捧げる。不思議と、胸の奥がふんわりと温まるのを感じた。すると――
「そこの君! 何をしたんだ?」
「え?」
慌てた様子の男性神官が、レティーシャの元へ駆け寄ってくる。怒っているというより驚いている様子だ。
神官は門の前に着くと、鉄柵越しに真剣な眼差しを彼女に向けた。
ただ祈っていただけのレティーシャには状況が理解できない。きょとんとした態度で「何、とは?」と返した。
「ほら、こちらに飾られているものです。灰色に汚れていたのに白色に戻っているではありませんか」
神官は、門の上に飾られているリースを指さした。細い枝を絡ませて輪になるよう作られたもので、白く美しい物だった。日に照らされて、輝く光の輪が浮いているようにも見える。
飛び跳ねても手の届かない高い位置に飾られているというのに、非常に目を引く存在感があった。
(こんなに目立つのに気付かなかったわ。じゃあ、本当に最初は灰色だったのね)
灰色に汚れていたということから、鉄製の門の色と馴染んでしまって存在感が消えていたのだろう。
「この飾りは何なのですか?」
「これは皇室からいただいた魔除けの聖物で、それはもう大切なものなのです! どう手入れしても黒ずんでいき……だからといって飾らないわけにもいかず。悩んでおりましたが……いただいた当初と変わらぬ白さになっているではありませんか!」
「そ、それは良かったですね」
「えぇ! で、あなた様はどんな魔術をお使いになったのですか? とても素晴らしいことですよ」
「いえいえ! 私は祈っていただけで何も――」
「ご謙遜を。密かに魔術を使ったのでしょう? そうでなければ触れることもなく綺麗にすることなんてできないはずです。一般的に知られていない特別な魔術だと思いますが、どうか他の神殿のためにお力をお貸しくださいませんか?」
期待を膨らます神官には悪いが、レティーシャには本当にリースに手を加えた自覚がない。
さらに言えば、魔力もまったく持っていないのだ。
どう誤解を解けば良いのか、レティーシャは困惑するばかり。
(神殿と皇室は密な関係。リズの耳に入らないようにするためにも、神様に感謝はしても神殿とはあまりかかわりたくないのに――あら?)
そのとき、近くの通りが急に賑やかさを見せた。
引き寄せられるように振り返ると、神殿から少し離れた場所にある高級ブティック店から見覚えのある女性が出てきた。
「――‼」
その女性は帝国で話題の花嫁――レティーシャに成り代わっているリズ。
彼女は桃色の髪を靡かせ、翠の瞳を人懐っこく輝かせていた。







