06 家政婦はじめました
家政婦としての初日。
すっかり仲良くなったわたあめを引き連れたレティーシャは、勢いよく部屋を出た。
「わふ!」
「応援ありがとうございます!」
「わふぅー♪」
ちなみにわたあめは、気付いたら家に住み着いていた森の野犬で、もうグレンとは十年近くの仲らしい。
昼間はグレンの家で過ごし、夜になると森に帰る不思議な犬とのこと。好きなものはトマトだそうだ。
そんなわたあめに見守られ、レティーシャは最初に掃除に取り掛かったのだけれど――
「ぐぬぬぬ、バケツがこんなに重いなんてっ」
拭き掃除のために水を用意しようとしたのだが、持ち上げるので精一杯でなかなか前に進めない。階段の一段目に足をかけた状態で動けなくなってしまった。
すると、金髪の青年グレンにバケツを奪われる。
「そんな細い腕で、水を入れすぎだ。肩や腰まで痛めるだろうが。病み上がりで筋力が落ちた自分を労りながらやれ、阿呆。貸せ」
「あ、ありがとうございます!」
「勘違いするな。水を零されたら拭くのが面倒なだけだ」
そう言ってグレンはバケツを二階の廊下まで運んでくれた。
(零したとき、拭くのを手伝ってくれる前提? まさか、そこまで優しくはないよね)
そう内心苦笑していたら、すぐに否定された。
レティーシャがびしょびしょの雑巾で拭こうとしたら、グレンはガミガミしながらも毎回絞ってくれたのだった。
しかも「こう拭くんだ!」と彼の華麗なる見本付き。
そして夕方には、初心者向けの掃除の心得の本をくれた。
翌日、次こそは役に立とうと、洗濯物に挑戦したところ――。
「うぅ、冷たいぃーっ」
石鹸水が冷たくて、まともに洗濯物の揉み洗いができない。
「お湯を足せ、お湯を! 面倒くさがるのは良くないぞ。お湯の沸かし方が分からないなら、俺を呼べ」
「グレン様のお手を煩わすわけにもいきませんし、お時間も取りますし」
「うるせぇ! 手に負担かけて、余計な手荒れでもしたらどうするんだ。まずは弱っちぃ自分の心配をしろ馬鹿が。ったく仕方ないな」
そう言ってグレンは、魔術で冷たかった石鹸水を温めてくれた。
そのあとも、もたもたしているレティーシャに我慢できなかったのか、「干すのが遅くなって生乾きになるのは勘弁だ」と彼も一緒になって洗濯をした。
もはや、グレンがほぼ終わらせたに等しい。
そして夕方には、洗濯の心得の本とハンドクリームが与えられた。
しばらく掃除と洗濯は、レティーシャひとりに任せられそうにない。
それでも、もしかしたら、運よく奇跡が……と淡い期待を胸に料理をしようとしたのだが。
「レティ、その顔と包丁の持ち方は人を殺すときのだ。今日の食材はなんだ? 俺か?」
「わふぅぅっ」
包丁を握ったものの、肉の塊をどう切れば分からずグレンに視線で助けを求めた結果、彼から呆れたように言われてしまった。
わたあめは、ぷるぷると小刻みに震えている。
確かに包丁の持ち方が分からず柄を両手で握り、その手が震えている状況は非常に不気味だ。レティーシャの表情が強張っているのも悪い。
今回はわたあめも庇ってくれない。怯える眼差しをもらってしまった。
「ち、違いますっ! ちょっと、刃物に慣れなくて緊張しているだけで」
「とりあえず、料理は論外ということはわかった。お前は黙って俺の作った飯を食うんだな。いいか? ゆっくり包丁をまな板の上に戻すんだ。そうだ……ゆっくり。そう、そうだ。そのまま台所から後退して、そこで見てろ」
危険な珍獣を宥めるようにレティーシャの手から包丁を離すよう促すと、入れ替わるようにグレンが台所に立った。そしてため息を吐きながら彼は、慣れた手付きで料理をはじめていく。
実力は雲泥の差があった。
「わふ!」
催促するわたあめを抱っこしたレティーシャは端に寄って、グレンの手元を観察することにする。
(学のない平民でもできる仕事だと、私が王宮で読んだ本では書いてあったのに、掃除も洗濯も料理も、どの家事も奥が深い仕事じゃないの。小説に出てくる主人公の女の子なら、貴族の令嬢でも当たり前に菓子作りくらいできていたのに……甘く見ていたわ)
日陰者だったが、一応王女。掃除や洗濯はもちろん、料理もメイドがやってくれていたため未経験。
その上、出歩けるのは人目につかない決められた範囲と時間帯のみ。使用人や料理人たちの働く姿は、直接見たことがなかった。
本の内容を鵜呑みにし、何でも任せてと豪語した先日の自分が恥ずかしい。
一方でグレンは、何でもひとりでできる人だ。今も食材を切る手元に危なっかしさはなく、食材も綺麗に切れていく。
(二十六歳の独身で、何年もひとりで暮らしているだけあってスムーズね。お仕事は魔術師だと聞いているけれど、使用人を雇わないで自分でやるなんてどうしてかしら?)
魔術師は魔力を使って奇跡を起こす、世界でも貴重な存在。
川に流されたレティーシャを助けられたのも、すぐに家に運び込んで手当てができたのも、グレンに魔術の才能があったからだ。
そんな貴重な存在は国や貴族に重用され、高給取りが当然。使用人を何人も雇っても懐が痛まないくらい稼げる職業だ。
でも『仕事については詮索しない』という約束もあるため、グレンがレティーシャより以前に家政婦を雇っていない理由は聞けていない。
ただ、仕事先は教えてくれなかったが、出勤は自由とのこと。レティーシャを保護してから、グレンは休んでいるようだ。
(保護して、手当てして、雇ってくれて……グレン様ったら心配になるほど面倒見が良いお人好しだわ。口調は常に怒っている感じだけれど、結局私を心配してのことだってひしひし伝わる態度だし。恩返し頑張らないと!)
グレンがどれだけ不機嫌そうな表情を浮かべていても、口が悪くてもレティーシャは一切怖くない。
彼への好感度と尊敬の念は上がるばかりだ。
「胃腸はもう大丈夫だな? 今日から肉をしっかり食えよ。栄養失調で倒れられたら、また看病が面倒だからな」
ため息を吐きながらも、倒れたら看病してくれる前提のグレンの言葉にレティーシャはほっこりしてしまう。
テーブルに出されたランチも、パンとお肉と野菜のバランスが良く、健康を気遣ったバランスメニュー。優しさが大盛だ。
「本当に、グレン様に拾ってもらえて良かったです!」
「俺はとんでもない人間を拾ったと呆れているところだ……お前、何もできなくて今までどうやって生きてきたんだ?」
「それは……」
王女として、王宮の奥でひっそり生きてきました!なんて言えるわけもなく……レティーシャは目を泳がせて口ごもる。
(今さら私が本物の皇太子殿下の婚約者レティーシャです! と言ったところで信じてもらえるわけがない。王女を追いかけてきたって嘘ついちゃっているし、ファン思考が行き過ぎて頭がおかしくなったと思われそう……でも実際に家事は何もできないし、養ってくれる家族もいない……どう言い訳すれば!?)
八方ふさがりで良い言い訳が浮かばずにいると、グレンの鋭い視線が緩んだ。
「俺のことを詮索するなって言っておいて、レティのことを詮索するのは公平じゃないな。言わなくていい」
「え?」
「ただ、元気になってしっかり働けるようになれば問題ない」
グレンはどこまで良い人なのだろうか、と思わずにはいられない。
レティーシャの尊敬ポイントはどんどん貯まっていく。
「グレン様……私、全力で家事炊事を習得してみせます! お役に立ってみせます!」
「その意気で頼むぞ。今のままでは、他の働き場所にも紹介できないからな。では、そのやる気を信じて、明後日は街に出るか。この国での買い物について教える。良いな?」
「――はい!」
王宮とこの森の家の世界しか知らないレティーシャにとって、街は憧れの場所だ。
目を輝かせて頷いた。







