29 帰郷
神木を浄化して一週間、予定通りメーダ王国に向けた出発の日を迎えた。
(この日が来ちゃった)
馬車に乗り込んだレティーシャは、不安のため息を小さく漏らした。
メーダ王国における楽しい記憶はほとんどない。
家族はみなレティーシャを忌み嫌っており、関係は冷え込んでいた。視線には常に蔑みが帯び、言葉には棘があった。
もちろん友達は誰もいないし、使用人も極力レティーシャにかかわらないよう働いていた。
罪人の証である痣をもっているから仕方ない――と当時はそれが当たり前で、寂しさを感じてもそれだけだった。
けれど今は、家族と顔を合わせるのが怖い。
(グレン様やフィリップ殿下の前で、前のように家族から蔑まれたりしたらどうしよう。冷遇されていたことも、そのときの私のことも、できれば知られたくない)
レティーシャは家族を刺激してしまわないよう、まるで機械仕掛けの人形のごとく従順に生きてきた。
グレンが好きと言ってくれた、生きるのに必死な明るい心の持ち主とは無縁の姿だ。
もしグレンに知られたとしても、寛容な彼が失望することはないだろう。
でも好きな人には、暗い部分は知られたくないのが本音だ。グレンのお陰で明るくなれた今の自分だけを見ていてほしい。
「レティ、大丈夫か?」
あとから馬車に乗り込んで来たグレンが、案ずるような眼差しを向けていた。
(暗いところ知られたくないと思ったばかりなのに――)
レティーシャはパッと表情を明るいものへと切り替えて、「少し緊張してしまっただけなので、大丈夫です!」と言ってみせる。
するとグレンは片眉を軽く上げて、馬車の扉をパタンと強く閉じた。そしてドカッと勢いよくレティーシャの隣に腰を下ろすと、彼女を持ち上げて膝の上に載せてしまった。
「グ、グレン様!?」
誰かの膝の上に乗るなんて人生初めてではないだろうか。
それが好きな人の膝の上となれば、嬉しさと恥ずかしさと驚きで心は軽くパニックだ。
レティーシャは慌てて降りようとするが、グレンの腕が力強すぎて叶わない。
「大丈夫だ。国王に反対されても、メーダ王国にレティを置いていくことはしない。絶対に諦めない」
「――っ」
「必要以上に心配するな」
緊張の理由までは見抜かれてはいないが、空元気なのは隠しきれなかったらしい。
不安を軽くしようとしてくれるグレンの気遣いにきゅんと胸が鳴る。抵抗を止め、素直に彼の腕の中に収まってみた。
「グレン様、好きです」
自然と口から思いが出てしまう。
言ってしまってから恥ずかしくなり、笑って誤魔化すために顔を上げようとして――気づいたときには、レティーシャの唇はグレンに奪われていた。
優しく重ねられた唇から、相手から高めの体温が伝わる。あまりにも幸せで甘美なひと時に酔ってしまいそうになる。
重ねて数秒、ゆっくりとグレンの顔が離れていった。
「はは、真っ赤」
「……だって、グレン様が急に!」
「嫌だったか?」
「幸せです!」
レティーシャが顔を真っ赤にして言い切れば、グレンは頼もしそうな笑みを向けた。
「いざとなったら無理やりでも攫うつもりだ。だから堂々としていろ」
「――!」
なんて恐れ知らずな発言だろうか。忌み姫といえど、一国の王女を誘拐なんてしたら大問題に発展するというのに、グレンは本気のトーンだ。
これほど頼れる存在はいない。
「グレン様を信じています」
レティーシャはグレンの胸元に寄り添った。
先ほどまで渦巻いていた不安は、すっかり消えてしまっていた。
***
国境手前のエデルトリア帝国内の街に泊まって翌日、フィリップ率いる訪問団はメーダ王国の王宮に到着した。
帝城ほどの大きさはなくとも、メーダ王国の庭園では美しい花が咲き誇り、華やかな雰囲気で馬車を出迎えてくれる。
王城前へと進めば、多くのメーダ王国の重鎮らが出迎えた。
エデルトリア帝国の皇太子――未来の大陸の支配者フィリップの初訪問とあって、メーダ王国の国王や王妃、王太子ダリウスといった王族の顔もある。
彼らは一様に緊張した面持ちで馬車を注視し、フィリップが姿を現すとともに彼の麗しさに息を呑んだ。
彫刻のような完璧な美貌に浮かべた微笑み、シンプルなデザインながらも洗練された一級品の礼服、緻密な細工が美しい装飾品。まるで芸術品が動いているようだ。
国王と王妃を除いてフィリップの姿を間近で見るのは初めて。王太子ダリウスさえも目を見張った。
こんな素晴らしい人の婚約者に選ばれたレティーシャは、なんて幸運なのだろう。みなはそう思いながら、次に馬車から降りてくるであろう妹王女の登場に期待を高めた。
しかし次に降りたのは、金髪の青年魔術師だった。フィリップほどではないものの、非常に精悍な容姿をしている。
加えて纏うローブは、魔術師でも限られた実力者しか着用が許されない帝国魔術師を示すもの。
エデルトリア帝国外では、外交で国外に足を運ぶ皇太子よりも目にする確率は低いかもしれない。そんな魔術師をもフィリップは連れてきてくれた。
メーダ王国を重要視してくれている――と、国王は優越感で気分を良くしようとした直後、顔を強張らせた。
それは末姫レティーシャをエスコートしたのが、金髪の魔術師だったから。
婚約者であるフィリップは一切手を差し出そうともせず、穏やかな表情でレティーシャと魔術師をただ見守っている。
夫や婚約者がそばにいながらエスコートをしないなど、伝統を重んじるメーダ王国では考えられない。
フィリップがエスコートできない怪我や病気を?と思い観察するが、不自然な動作は見当たらない。
ではレティーシャの方に問題が?と思っても、やはり特別な補助が必要そうには見えない。
彼女はメーダ王国では与えたことがない、肩が隠れる帝国式の豪奢なドレスを優雅に着こなしていた。
それよりも一番気になるのは、レティーシャと魔術師の表情だ。
レティーシャは緊張を帯びつつも魔術師に信頼を寄せるように視線を向け、魔術師は涼やかな無表情でありながら降車を手助けする仕草は丁寧を超えて過保護に見える。
その状態をフィリップが当然のように受け入れていることもおかしい。
皇太子と王女の間になにか問題が生じた。
そう予感した国王をはじめ、メーダ王国側で高まっていた興奮は一気に張りつめたものへと変わっていく。
国王はフィリップの存在感に及び腰になっていた威厳を立て直し、一国の主の風格を漂わせて前に出たのだった。
***
「フィリップ殿、ようこそいらっしゃいました。皇太子の任命式の式典以来ですな」
「急な訪問にもかかわらず、陛下直々の出迎えありがとうございます」
「貴殿ならば、いつでも歓迎しますぞ。帝国とは良い関係を築きたいものですからな」
レティーシャは父である国王から一瞬刺さるような視線を感じたが、気のせいだっただろうか。
国王は朗らかな態度でフィリップに挨拶を続ける。
「もしよければ、メーダ王国にとって珍しい客人の姿もあるようですが、紹介していただいても?」
国王はそう言って、探るような視線でグレンを見た。
フィリップの許可を得て前に出たグレンは丁寧に腰を折り、恭しく頭を垂れた。
「アシュバートン侯爵家の嫡男グレンと申します。エデルトリア帝国所属の筆頭魔術師としてフィリップ殿下にお仕えし、本日も同行させていただきました。どうぞお見知りおきを」
「ほう! 次期侯爵であり、その若さで筆頭魔術師とは……! このような才能あふれる若者がいる帝国が実に羨ましい。滞在中、魔術を見せてもらうことは可能か?」
「フィリップ殿下の許しがあればいつでも。俺の魔術は、殿下に捧げると誓ったためご理解くださいませ」
「皇太子殿に忠実な魔術師……か。では、楽しみにしている。どうか貴殿もくつろいでくれ――侍従長、帝国の方々を客室に案内せよ」
レティーシャに言葉がかけられることはなく……国王の指示で、使用人が一斉に動き出す。
帝国の訪問団には国賓専用のエリアが用意されていたが、途中レティーシャだけは別エリアに案内された。
メーダ王国の王女なので、家族と近い場所に――という理由だったが。
「レティーシャ殿下のお部屋はこちらになります」
「……っ」
付いて行った先は、レティーシャを長く隠していた王城の一番奥の部屋だった。







