26 告白
青白かった神木が、まるで命を吹き込まれたように黄金に輝いた。
グレンを死に誘おうとしていた禍々しかった穢れの実も浄化され、光を放つ。
目の前に太陽があるのかと錯覚してしまうほど神木は眩く、温かな空気で神殿を満たしていった。
(俺は、まだ生きられるのか……!)
奇跡を前にしたグレンはオレンジ色の瞳を潤ませ、胸を震わせた。
約十年もの間ずっと足に絡みついていた重々しい鎖の幻影が消え、呪縛から解き放たれていくのを感じる。
常に背後で聞こえていた死の足音はもう聞こえない。
長く心の大半を占めていた絶望が、希望で塗り替わっていく。
「なんて美しいのだろう」
自分にだけ聞こえる声量で呟いた。
世界が鮮やかに色付き、輝いて見える。その中心にいるのは、神託の乙女レティーシャだ。
両手を胸の前で組み、真摯に祈る姿は清雅で美しい。彼女が女神本人だと錯覚しそうなほどで、グレンはただただ魅入った。
祈りのあと、嫉妬を巻き散らす偽りの神託の乙女リズの姿と比べて、よりレティーシャが神聖な存在だと実感する。
三か月間一緒に暮らし、あんなに近くにいた女の子が遠くなってしまったように感じた。このままもう他人になってしまうのかと、漠然とした考えが頭を過る。
ズキッ、とグレンは胸が酷く痛むのを感じた。
「帝城に戻ろうか」
そう言って手を差し出す麗しいフィリップと、彼を見上げる可憐なレティーシャ。
ふたりの姿は絵になり、グレンの胸はますます痛みを増していく。
(フィリップ殿下は責任感が強いお方だから、レティーシャ殿下を幸せにしようと必ず大切になさる。レティーシャ殿下も、すでにフィリップ殿下の素晴らしさに気付いている。支え合える関係になるだろう……そんなことは分かっているが)
その手を取らないでくれ――と願う気持ちは消えてくれない。抱いている自分の想いに翻弄される。
だがレティーシャに切なげな視線を向けられた瞬間、葛藤など簡単に吹っ切れた。
考えるよりも先に、グレンの足は前へと出ていた。
***
エデルトリア帝国の重鎮や神殿関係者たちの前で、皇太子に提言など普通ではあり得ない。
ただならぬ雰囲気にレティーシャをはじめ、みな緊張した面持ちを浮かべた。
一方でフィリップは微笑みを保ったまま。エスコートのために出していた手を下げ、興味深そうな眼差しでグレンを見下ろした。
「いつもより怖い顔して。ふっ、聞いてみようか。グレン、言ってごらん」
「神託の乙女は、エデルトリア帝国を慈しむ心を持つことで、神木を浄化する力を発揮すると言われております。この度の神託の乙女は、他国の王女。最高の条件で迎え入れるために、皇太子であられるフィリップ殿下が娶ることになったと記憶しております」
「そうだね。我々エデルトリア帝国は、国救いの乙女を幸せにし、国を慈しんでもらえるよう環境を整える義務がある。だから最上の富も名声も与えられる皇太子妃の座を用意したのだけれど……グレンは、納得していないようだ」
「はい。我々は本物の神託の乙女が望んでいることなのか確認しておりませんし、他の選択肢を用意してもよろしいかと」
「へぇ? 皇太子妃よりもいい条件があると?」
フィリップは笑みを消し、声をぐっと低くした。
グレンの発言は、皇家の判断に不服があると同義。神殿内にピリッとした緊張感が強まっていく。
しかしグレンの真っすぐな眼差しは揺らぐことなく、フィリップを見上げていた。
「皇太子妃の座より魅力的な選択かどうかは、本人のお気持ちにお任せできればと思います。今からレティーシャ殿下に、俺から直接申し上げてもよろしいでしょうか?」
「今、ここで? 随分と大胆だね」
「どうか、お許しを」
朝焼けのようなオレンジ色の眼差しと、夕焼けのような紫色の眼差しが正面からぶつかり合う。
レティーシャはふたりの間で視線を揺らし、周囲は固唾を飲んで見守る。
睨み合って数秒、フィリップは顎をクイっと上げて「やってみろ」と無言で促し、一歩後ろに引いてグレンに場を譲った。
「フィリップ殿下、ありがとうございます」
グレンは一礼すると、片膝をついたままレティーシャに体を向けた。
いつも高いところにあるグレンの瞳がよく見える。彼女に送る彼の眼差しの温度は高く、どこまでも真っすぐだ。
「レティーシャ殿下」
だからか、名前を呼ばれただけでレティーシャの心臓はドキンと甘く反応してしまう。強くなった鼓動が胸を揺すり、「はい」と応えた声は少し震えていた。
思ったよりも情けない声に、レティーシャの頬は恥じらいでほんのり染まる。
グレンはそれを見て、目元をわずかに緩めた。
「先ほどの祈りは、魅入ってしまうほど素晴らしいものでした。一度の祈りで、すべて浄化しきってしまうなんて、誰が想像したでしょうか」
「私も大変驚きました。していただいた説明では、数回祈る必要があると聞いておりましたから。無事に成功して、心より安堵しております」
グレンからのよそよそしい話し方はやはり違和感が強い。
つられてレティーシャも固い言葉で返してしまう。
「それだけ殿下の祈りが、心からのものだったということでしょう。感謝いたします。エデルトリア帝国はあなた様に救われました。もちろん、俺も――」
グレンは言葉を区切ると、一度深呼吸してから言葉を続けた。
「穢れの実の生贄に選ばれた十年前から、俺は世界に必要とされた魔術師であり、未来には必要のない人間だと思って生きてきました。俺がいなくなって悲しむ人や家族はいても、それ以上に平和が守れる方法があって良かったと喜ぶ人のほうが多いと……俺は、世界から死を望まれた人間だと感じていました。だから、あなたが言ってくれた言葉が凄く嬉しかった」
「私の、言葉?」
「初めて、牛の煮込みを作ってくれたときのです」
「――あ」
勢いで言ってしまった「今の私はグレン様なしでは生きていけないんですから!」という言葉を指しているのだろう。グレンが初めて笑みを見せてくれて、レティーシャが恋を自覚したきっかけの言葉。
幸せな時間が蘇るようで、レティーシャの胸が高鳴っていく。
「事情を知らなくても俺を必要としてくれる人がまだいたことを知って、どれだけ嬉しかったか」
「グレン様……っ」
「それだけではありません。俺が命綱だと言わざるを得ない状況なのに悲観的になることなく、強く明るく生きようとするあなた様の胆力に心打たれてしまいました。媚びを売るのではなく、弱っているところに付け込むのでもなく、純粋に向けられる明るい笑みに俺は何度も救われて――」
「だって、グレン様との生活は本当に楽しかったから……!」
レティーシャの人生はまだ二十年ぽっちだけれど、グレンと暮らしていたときが一番楽しい時間だったと断言できる。
メーダ王国で浮かべる笑みは作りものがほとんどだった。それこそ家族からこれ以上蔑まれないよう機嫌を取るためだったり、少しでも同情を引こうと健気に見えるようにするためだったり。
自然の笑みを浮かべられるようになったのは、グレンと出会ってからだ。
「感謝しているのは私のほうです。夢心地の時間でした」
するとグレンが眩しいものを見るかのように目を細め、口元に弧を描いた。
「なら、これからも俺と一緒に過ごしませんか?」
「え?」
「グレン・アシュフォードは、レティーシャ殿下を愛してしまいました。俺の妻として、一生隣にいてくださいませんか?」
グレンは跪いたまま、片手をレティーシャへと差し出した。







