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17 大きな壁


「まだドキドキしてる……!」



 シャワーを終わらせ、寝間着を着てもまだレティーシャの心臓の鼓動は落ち着きをみせない。

 レティーシャは気持ちを引き締める意味も込めて髪を頂で軽く丸くまとめて、深呼吸を繰り返した。


 だが、まったく改善されない。

 すぐに視界いっぱいのグレンの顔と、腰を支えた彼の大きな手のひらの感触が蘇り、心臓が激しく踊り出す。



「~~~っ!」



 偶然とはいえ、好きな人に抱き締めてもらえるなんて幸運すぎる。

 これはしばらく忘れられそうにない。早々に諦めて、残ったハーブティーでも飲もうと脱衣室を出ることにしたのだが……レティーシャは目を丸くした。



「――ぁ」



 もう二階の部屋にあがったと思っていたグレンが、珍しくリビングに残っているではないか。

 彼はレティーシャに気付くことなく、ぼんやりとした様子で天井を見つめていた。

 空になっているティーカップの様子から、用意したハーブティーは飲んでくれたらしい。



(リラックスしていただいている状態なら良いのだけれど)



 レティーシャはそっと近づき、飲みやすいよう二杯目のハーブティーを注ぐ。



「なぁ、レティ」



 天井を見つめたままグレンは、感情の乗らない声色で問いかけた。



「なんでしょうか?」

「今夜の料理もそのお茶も、全部俺のためだよな? 今の俺はやっぱり酷く見えるか?」

「……っ」



 レティーシャは、ほんの少し言葉に迷う。

 ときに心配する気持ちは、相手の精神的な負担になる。他人に迷惑をかけて申し訳ない、心配をかけた自分が情けないなど、罪悪感の芽になる場合もあった。


 でもグレンの場合は、本人に無理をしている自覚がある。『心配していない』という明らかに嘘だとバレてしまう言葉は、心配以上に負担になってしまうような気もする。

 わずかに逡巡してから、レティーシャは本音を伝えることを選んだ。



「最近はグレン様が倒れてしまわないか、毎日が不安です。どうしてグレン様が追い込まれているのか。どうしてこんな状態なっても仕事が休めないのか……気になって仕方ありません」

「――っ」

「でも、安心してください。グレン様から話したくなるまで、仕事のことは約束通り詮索いたしません。その代わり、心配することだけは許してください」



 レティーシャはグレンの隣に腰掛け、ポケットに忍ばせていたものを見えるように手のひらに載せた。


 小さな緑色の小袋に、白色のフェルトで『シルバーレース』の模様が刺繍されている。『シルバーレース』とは名の通り、レースのような繊細な銀白色の葉を持つ植物だ。


 花言葉は『あなたを支える』 


 ちなみに白色のフェルト刺繍には、ブラッシングで採集させてもらったわたあめのモフモフを使っている。

 最後に神殿で買った護符を折りたたんで入れて完成させた小袋は、レティーシャ手作りのお守りだ。



「グレン様は私を救ってくれた大切な方です。あなた様には元気でいてほしいし、幸せに過ごしていただきたい。このお守りには、そんな願いを込めました」



 レティーシャはお守りをグレンの手のひらに載せ、もっと祈りを込めるようにまとめて両手で包み込んだ。


 仕事の内容は教えてもらっていないけれど、魔術の技量や上質なローブを見る限り、グレンが要職についていることは想像できている。公表できない重要な任務を任されている可能性が高い。

 グレンが悩みを打ち明けてくれることはないだろう。



(それでも、ひとりじゃないことを知ってほしい。孤独を募らせないでほしい。原因を打ち明けられなくても、無理に辛さを隠さないでほしい。グレン様のお心に少しだけで良いから寄り添うことを許してほしい)



 レティーシャにも『本物のメーダ王国の末姫』という明かせない秘密がある。

 だけど役立たずでも、大泣きしても、生まれを隠していても、今楽しい暮らしができているのは最初にグレンが丸ごと受け止めてくれた安心があるからだ。

 その事実にどれだけ救われたか。

 できるだけ柔らかい笑みを浮かべ、瞳を揺らすグレンを見上げる。



「どうか、グレン様に安寧が訪れますように」

「――!」



 グレンはぐしゃりと顔を歪めると、唐突に額をレティーシャの肩に載せた。

 思いもよらない体勢に、レティーシャの心臓は飛び跳ねる。好きな人が自分に甘えているような状況に、一瞬だけ舞い上がりそうになるが、普段弱さをみせないグレンの珍しい行動の方が気がかりだ。

 レティーシャは黙って受け入れた。



 それから一分くらい経っただろうか。グレンがゆっくりと顔を上げた。

 少しは落ち着いていたら良いなと、レティーシャはグレンの顔色を窺い――胸を詰まらせた。

 グレンの表情は先ほどよりも辛そうで、痛みに耐えるようなものだった。



「あの、グレ――」

「頼む。忘れてくれ」



 引き留める間もなく、グレンは遮るように一言だけ告げると、足早に階段を駆け上がってしまった。

 バタン、と扉が強く閉まる音が響く。



「忘れてくれ……って、できないよ」



 こんなにも心を乱しておいて、難しいことを言う。

 残されたレティーシャの呟きは、リビングで静かに消えた。




 ***




 部屋に戻ったグレンは崩れるように床に両膝をつき、レティーシャに貰ったばかりのお守りを見つめた。

 フェルトの細やかな模様を見るに、丁寧に作ってくれたのだろうと分かる。

 そのことを思うだけで胸の奥から熱いものが込み上げ、視界が滲みそうになった。

 けれどグレンは、お守りを強く握って耐える。



「すまない。俺ではレティを幸せにしてやれない」



 絞り出すような声のあと、部屋はしばらく静寂が支配した。

 森に住むフクロウの鳴き声が遠くから聞こえる。

 グレンはゆっくりと立ち上ると、机に向かい手紙を書き始めた。

 先ほどの苦渋に満ちた表情が嘘のように、彼の顔はどこか達観したように冷静なものだった。


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