16 葛藤
(目が霞む……)
夕方、仕事を終えたグレンは指先で目頭を揉みながら森を歩いていた。
原因は最近の不眠によるものだとは分かっているが、自分では制御できずにいる。
どれだけ眠たくても眠れない体は疲れを溜め、足は鉄製の枷をつけられたように重い。
逃げるのは不可能だと、主張するかのように太い鎖の幻影がグレンの目に映る。
その鎖は黒色の大蛇に姿を変えて、グレンの脚に絡んだ。
歩みを止めて忌々しく睨んでも、あざ笑うかのように先が割れた赤い舌をチロチロと見せるだけ。
「はっ……元に戻っただけなのに」
抵抗が馬鹿馬鹿しくなり、乾いた笑いが零しながら再び重々しい足を前に出す。
すると足もとに光が差し込み、鎖の幻影が消えた。
ハッとして顔を上げた先には、窓から温かな光が漏れる自宅があった。
思ったより近くまで来ていたらしい。
引き寄せられるように玄関の扉を開けた。
「グレン様、お帰りなさいませ!」
満面の笑みを浮かべたレティーシャがグレンを出迎えた。
今朝は心配をかけ、曇らせてしまった彼女の表情が明るいもので安堵する。
「ただいま」
「夕食盛りつけますね」
「……あぁ」
家の中は、料理の良い香りが広がっている。
今日も頑張って作ったのだろう。最近のレティーシャはまた腕を上げ、冗談抜きで美味しいものばかりだ。
だというのに、また残してしまうかもしれない。
罪悪感を抱きつつ席に着く。
そんなグレンの前に並べられたのは、少量ずつ盛りつけられた料理の小皿七枚だった。
「これは……」
「先に食べたい料理を選んでください。残りは私がいただきますので!」
「そうか」
戸惑いながらグレンは三枚選び、残りの四枚はレティーシャの方に寄せた。
自分が取った皿の数はレティーシャよりも少ないのに、彼女は特に追及することなく受け取ると食べ始めた。
グレンも料理を口に運ぶ。
(旨い……それに選べなかったが、どの皿も俺の好きな料理ばかりじゃないか)
量が少なかったおかげで、今日は完食することもできた。罪悪感を抱かなくても良い配慮に感謝する。
しかし同時に、グレンの胸は締め付けられていく。
気持ちを落ち着かせるために、夕食後すぐにシャワーを浴びることにした。
もちろん、そんな簡単に胸の痛みは消えない。
「きゃっ」
「レティ!」
ぼーっとしたまま脱衣室を出たため、グレンはレティーシャに気付かずぶつかってしまった。彼女を支えるために、慌てて手を伸ばす。
レティーシャの細い腰に手を回し、足を踏ん張ったことで転倒は免れた。ホッと胸を撫で下ろす。
だが、すぐに心臓は飛び跳ねた。
「……っ」
吐息が届くほど近くに、レティーシャの顔があった。
可愛らしい顔を髪色に負けないくらい桃色に染めて、大きな翠の瞳を驚きで揺らしてグレンを見上げている。
唇を寄せたら本当に甘そうだ――と、毎日見ている顔なのに魅入ってしまう。
視線を交わらせて数秒、ゴクリ……と、グレンは鳴った己の唾を飲む音で我に返る。
「すまない。痛くなかったか?」
レティーシャの腰から手を離し、距離を取った。手のひらが涼しくなったことを虚しく感じてしまいそうになるが、無理やり気付かないふりをした。
「い、いえ。大丈夫です」
「なら良かった。次、風呂使っていいぞ」
「では使わせていただきます。それと、テーブルのはお好みでどうぞ」
ペコリと小さく頭を下げたレティーシャは勢いよく脱衣室に入っていった。
(テーブルの?)
お腹は空いていないが、勧められたので一応確認する。
テーブルの上にはティーセットが用意されていた。保温カバーを外せばティーポットが姿を現し、蓋を外して中を覗いたら萌黄色のお湯で満たされている。茶葉はすでに取り除かれ、飲み頃のものが用意されていたのだった。
(ハーブティー? 俺がシャワーを浴びている間に準備してくれたのか)
ふわりと漂う優しい香りは、リラックス効果の高いものだと記憶している。
ティーカップに注いで口にすれば、体の力が抜けた。シャワーを浴びて体を温めたはずなのに、まだ強張っていたのだと実感する。
グレンはソファの背もたれに体重をかけて天を仰いだ。
「参ったな……」
いつもはリビングで長居することなく部屋に戻るところだが、今は動く気が起きない。
グレンはそのまま腰を深くソファに沈めて思いに耽った。







