12 皇太子の責任
エデルトリア帝国皇太子フィリップは、三年前に打ち出した政策で貿易をさらに発展させた立役者。
生活が潤ったことと、柔らかい雰囲気もあって、フィリップは帝国民から絶大な支持を得ていた。
しかし、優しいだけの皇太子ではない。
皇帝の地位は、即位とともに大陸の覇者とも言えるほど強大な権力を有する。
皇太子の座にすでにフィリップが収まっていようとも、彼を引きずり落とし、自分の傀儡にできそうな幼い弟王子たちを担ぎあげようとする貴族は当然のように存在していた。
フィリップは、そのような貴族が自滅して没落するように先に手を回したり、帝国に搾取されるしかない立場に追い込んだ。
また弟本人から反旗の意思を察すれば、皇位継承権の順位を落とすよう仕向けてきた。
たとえフィリップ自身に多少の損が出ようとも、帝国のためならと割りきって……。
そうして彼は、次期皇帝としての立場を盤石なものにしてきたのだ。
フィリップは誰よりもエデルトリア帝国の未来を考えていると、側近はみな敬意と畏怖を抱いて仕えている。
それは宮廷魔術師の筆頭グレンも同じ。
他の貴族には冷たい態度を取っても、グレンはフィリップにだけには従順に振る舞う。
「まぁ、座ってよ。グレン」
「はい。失礼いたします」
グレンがソファに腰かけると、フィリップも向かい合うように座った。
「グレンが遅れてきた理由は屋敷の火事の件かな? 状況は?」
「俺が到着した時点で一階に火が回り、令嬢と使用人が三階に取り残されている状態でした。魔術で消火し、取り残されていた者は全員庭に救出。逃げ遅れた被害者がいるかは、俺のほうでは把握しておりませんが、そう多くはないかと。ちなみに建物はもう使い物にならないでしょうね」
「それなら、伯爵家には何か見舞いの品を贈らないとね。君、今日中に用意して」
フィリップは紙にメモ書きを走らせると、秘書官に渡した。きっと誰よりも早い贈り物になるだろう。
伯爵が愚かでない限り、皇太子に忠誠を誓わずにはいられないはずだ。少なくとも伯爵夫人と娘アニーは、現時点でグレンを通してフィリップに感謝しているに違いない。
「グレンも対応ありがとう。助かったよ。褒美を用意するね」
「では、いつも通り実家のほうに送っていただければ」
そう遠慮すると、フィリップは何かを言いたそうな顔をしつつ微笑んだ。
どうして主がそんな顔をするか分かっていても、グレンは考えを改める気はない。
それを眼差しに宿せば、フィリップは肩を軽くすくめた。
「分かったよ。それはそうと、保護したお嬢さんとの同居生活はどうなの? そろそろ二か月経つと思うけど、うまくやってる?」
「……そう、ですね」
突然の一週間の休暇を申し出たときに、怪我をした女性を保護したことはフィリップに報告済みだ。回復した今は、家政婦として雇っていることも伝えてある。
ただ、最近の生活についてどう説明すれば良いものか……。
グレンはレティについて振り返る。
レティを一言で表すとすれば、『変な女』だ。
憧れていた王女の姿を見るためにメーダ王国から追いかけてきた、という普通では考えられない理由でエデルトリア帝国にやってきた年下の女の子。
桃色の髪に翠の瞳という組み合わせは花のようで、グレンから見ても可愛らしい顔立ちだと思う。華奢な体躯もあって、いかにもか弱い見た目をしている。
しかし可憐な外見とは裏腹に、活発な性格で行動はいつも大胆だ。
恩返しとはいえ年若い男に「何でもする!」と言い出し、さすがに逃げるだろうと住み込みの話をしてみると、警戒するどころか泣いて喜んだ。
実際に家事を任せてみれば、何もできない箱入り娘だと判明。言葉遣いも、妙に整っている。メーダ王国の没落貴族の令嬢か――とも疑ったが、一般的な令嬢のように家事を任されて嫌がる素振りは微塵もない。
本当に、得体のしれない女。それがレティに対するグレンの認識だ。
でも、悪い子ではないということは確信できる。
教えた家事に対しては真面目に取り組み、いつも向上心に満ちている。
グレンとの約束も守り、仕事について詮索しない。
実は警戒心が強く、グレン以外に近づかないわたあめもレティにはよく懐いている。
正直に言ってしまうと、快適な生活が送れていた。
(家事の負担がなくなって楽になったのはもちろんだが……レティの明るさは、あの家を照らしてくれているようだ)
レティの姿を思い浮かべれば、自然と彼女の笑顔ばかり。
グレンとしては、本当は馴れ合うつもりはなかったというのに――
「へぇ、グレンが口元を緩めるなんてね」
気が付いたときには、フィリップがニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。
グレンはハッとして表情を引き締めると、いつものように眉間に皺を寄せる。もちろん威圧効果はほとんどない。
興味を隠さないフィリップの視線に、気恥ずかしさを感じてしまう。
それを隠すように、グレンはサッと視線を逸らした。
「はは、良かった。グレンが困っていないなら何よりだ」
「……」
本当はまったく困っていないわけではないが、あえて口にしないでおく。言葉にするには、まだ早い。
話題を切り替えるように、グレンは咳払いをした。
「それより殿下が俺を呼び出した用件をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もっと楽しい話を続けたかったのに」
たちまち、フィリップの表情から甘さが消えた。いつも自信に満ちた彼の表情が陰る話はひとつしかない。
グレンも表情を硬くする。
「まだ、あれに変化はないのですね」
「残念ながら……こんなはずではなかったんだけど」
「兆しもゼロと?」
「困ったことにね。もう少し辛抱強く待つ必要があるらしい」
フィリップはソファの背もたれに体を預けて天を仰いだ。よく見れば、彼の目元には隠しきれない疲れが滲んでいる。
エデルトリア帝国の未来を背負うフィリップの肩に載る責務が、ますます重くなっていくのが目に映った。
簡単に「大丈夫ですよ」と言えない身のグレンは、こういうとき相手にかける言葉に迷う。
出された紅茶の水面には、グレンの渋面が映っていた。
執務室を沈黙が支配しようとする。
そのとき、来訪者を知らせるノックが鳴らされた。
そしてフィリップが許可を出すと現れたのは、二か月前にメーダ王国からやってきた末姫だった。
「フィリップ様、お疲れ様です。急に申し訳ありません。早めにお渡ししたい物がございまして」
そう言った末姫レティーシャの手には、小箱が抱えられていた。







