10 芽生え
「ただいま」
夕方、グレンが仕事から帰ってきた。格式が高そうな制服を纏った彼は、堂々とした態度もあっていつも以上に麗しい雰囲気を漂わせている。
一瞬見惚れそうになりつつも、レティーシャは普段と変わらない笑みを浮かべて出迎えた。
「おかえりなさいませ。今日は牛の煮込みですよ。昼から頑張ってみました」
「おいおい、随分と難易度の高い料理に手ぇ出したな。大丈夫か?」
グレンはローブを脱ぎながら、眉間にぐっと深い溝を刻んだ。
普通の人であれば、料理の出来栄えを疑われたと気分を害するような言動と表情。
しかし、グレンの優しさは癖が強いだけ。先程の「大丈夫か?」という言葉に「頑張りすぎて、体無理してないか?」という意味も含まれていることをレティーシャは知っている。
気分は下がるどころか上向きだ。
胸を張って、ニッコリ笑みを浮かべた。
「レシピに忠実に作り、味見もバッチリです!」
「ほう? ではお手並み拝見といこうか」
グレンは一度私室に戻ってラフな服に着替えると、早速テーブルに着いた。スプーンで肉を崩し、口に入れると軽く瞠目する。
「旨いな。やるじゃないか。先月の腕前が嘘のような上達ぶりだな」
もう一口頬張ったグレンは、口元をわずかに緩めた。
レティーシャにできることが増えるようになってから、彼は不機嫌な表情以外も見せるようになってきた。
この顔を見るとレティーシャの胸は勝手にキュッと締まり、また次も見たくて仕事に精を出しているといっても過言ではない。
「ありがとうございます! これからも誠心誠意、グレン様のために尽くさせていただきます!」
「随分と必死だな」
「必死にもなりますよ! 私はグレン様なしで生きていけないんですから!」
「んんっ」
吹き出しそうになったグレンはなんとか耐える。そして口元を整えて頬杖をつくと、眉を寄せながらレティーシャを無言で見つめた。
何か言いたそうにしているが、彼はなかなか口を開かない。
耐えかねたレティーシャから問いかける。
「あの……私、何か変なこと言いました!? グレン様が保護してくださらなければ死んでいたわけですし、こうやって屋根あり三食付きの生活もできてないですし、家事を身に着ける機会もなかったですし、グレン様ほど面倒見がいい人はいないと思っただけなのですが」
「つまり、俺は必要な存在と」
「はい! なにがなんでも、しがみついていたいお方です! 命綱です!」
無意識にレティーシャは立ち上がり、熱く力説してしまっていた。ハッとしたときには、グレンは目を見開いて彼女を見上げていた。
けれどその表情は数秒だけで、グレンは破顔する。
「はははは! そこは恩返しのために頑張っているって、健気な雰囲気で言うところだろう。あまりにも明け透けな言い方だな。でも、そうか⋯⋯くくっ、ここまで必要とされるのは悪くないな」
少し悪戯っぽい、満面の笑みがレティーシャに向けられた。
初めて見るグレンのハッキリとした笑顔は、彼女の瞳には特別キラキラしたように映っていて魅入ってしまう。
こんなにも表情が豊かな人だったのかとか、笑うと少し幼く見えるとか⋯⋯グレンの新たな一面から目が離せない。
まるで彼にだけ光が当たっているかのように、輝きが際立っていた。
レティーシャの心臓の鼓動はいつになく速まり、息も浅くなって胸も苦しい。
「じゃあ、これからも励めよ。ほら、突っ立ってないで食べるぞ」
「は、い」
返事とともにレティーシャは椅子に腰を下ろすが、胸の中は一向に落ち着きをみせない。
グレンがそばにいる。テーブルを一緒にしている。いつものことなのに、この事実に舞い上がりそうになっている。
(こういう症状、本で読んだことがあるわ。胸が高鳴って、無性に相手が眩しく見えるようになって、近くにいるだけで嬉しい。でも、もっと近づきたいと思ってしまう症状。これは――)
一度、密かに深呼吸してから答えを出す。
(私はグレン様のことが好きになってしまったのだわ!)
『恋』以外の相応しい表現はない。そう言い切れるほどにレティーシャは自分の気持ちを自覚してしまった。
前から、なんとなく惹かれているような気はしていたが、やはりと納得する。
もちろん、グレンの笑みはもともと素敵だ。けれど、くしゃりと表情を崩したような笑みはもっと素敵だ。
ただ、それ以上に彼の人柄が好きで仕方ないと改めて実感する。
心配になるほどの優しいところはもちろん、それを素直に表せない不器用な面まで好き。
素直に、これからもそばで享受したいと思ってしまった。
(困ったわ)
初めて抱く感情を大人しくさせる方法などレティーシャは知らない。
どんどん膨らもうとするから困る。すぐに欲が芽を出した。
(どうしたら、グレン様にも好きになっていただけるかしら?)
家政婦の立場ではなく、もっと特別な立場に進みたいと願う。
グレンにとって、魅力的な女性になりたいと思った。
恋心でいっぱいになってしまえば、もう渾身の料理の味が分からない。レティーシャは、ただ黙々と牛の煮込みを頬張るだけだった。
そんな彼女を、眩しそうに見るグレンの様子など気付かずに。







