序章一節
少年は森が好きだった。森に住み、森と生き、森に育てられた少年はこの場所が何よりも大切だった。
そう思ったが、少年はその言葉が偽りだと気付く。
「グリン、貴方またこんなに汚れて」
グリンと呼ばれた少年は撫でられている頭がくすぐったくなって笑った。
そう、グリンに取っては何よりも大切なのはこの人だった。どんな時でも側に居てくれて、優しい言葉や心をくれる。暖かい人。
「えへへ、だってセフィが言ったんだ。一杯体を動かして、一杯食べて、一杯寝ろって、それで大きくなれって! だから次は食べるんだ」
「もう、この子は………なら体を洗ってらっしゃいな。そしたらご飯にしましょ」
「はーい」
セフィ、グリンの大切な人、グリンは知っていた。グリンが幾等泥んこに汚れてもセフィは笑って許してくれる。むしろ、体を動かさないと心配そうな顔をする。だから、グリンは毎日森を駆け回る。
セフィは笑っていた。自分でも頬が緩んでるのは分かっていた。でも、幸せな一時に無粋な顔をする気もなかった。
グリンは自分の横で寝息を立てている。セフィはただその頭を慈しむように撫でているだけ、この静かな一時がとても嬉しかった。
グリンを拾って何年になるだろうか。少し思い出す、今でも鮮明に匂いや感触すら思い出せる記憶、あれはある朝の事だ。
森を歩いてセフィはいつもの通りの散歩をしていた。でも森の様相が違っていた。鳥達が妙に騒がしい、それと朝霧に紛れて血の匂いがする。
嫌な感触を受けたセフィは小走りで慣れた道を突き進む。一本の木の前で鳥達が群がっている。なにか食糧になるような肉があることは明白だが、嫌な感触は拭えない。
セフィは鳥達を退け、ソレに近付いた。考えていた通りにやはり人であった。既に事切れている。セフィは心中で魂の冥福を祈り、責めて体を土の中で休ませる事にした。
ローブのような、汚れた布を纏っている、どうやら女性のようだった。
「まだこんなに若いのに………」
死後そこまで経っていないのだろう。温かみすら感じるその顔には火傷、体には切傷が見受けられる。
「なにかから逃げていた? それとも…………?」
その時ローブの中で何かが動いた。胸の辺りをもぞもぞと動いている。鼠でも入ったのだろうと思って、失礼してローブを開いた。
「こんな、こんな事って………」
赤子がいた。随分衰弱しているようで、今にも小さな火は消えてしまいそうだった。
「貴方、この子を守っていたのね。少し我慢していてね」
セフィは赤子を抱き上げ、走り出した。赤子に出来るだけ衝撃を与えないように、更に出来るだけ急ぐ。
途中先程の鳥達が、恨めしそうにこちらを見ていたので、一睨みきかせて、
「あの人に手を出したら承知しないからね! 焼いて食っちゃうよ!」
そう言葉にして先を急いだ。
走る。
駆ける。
森の木々の間をすり抜けていく。
頑張れ、頑張れ、と呟きながら赤子をしっかりと抱く。
やるだけの事はやった。後はこの子の力が何れ程の物か。それでもセフィには自信があった。セフィが自然のマナを借りた回復魔術に自信があるからではない。この子の母が、この子を死なせる事はないと思ったからだ。
赤子をベッドに寝かし、セフィは急いで女性の元へと戻る。
「どうやら言いつけを守っていたらしいわね。偉い偉い」
先程の鳥達は女性を囲む様にセフィを待っていた。どうやら守っていてくれたらしい。
セフィはこの世界と対話が出来る。特にこの森とは深く繋がっていて、この森に生きる者とは意思の疎通さえ出来る。
「貴方達も手伝ってくれるの…………」
その時、何やら気配が近付いてくるのを感じた。一人ではない、複数の足音と金属が擦れるようにぶつかる音も聞こえてくる。
鳥が一羽その方へ飛んで行く。様子を見てきてくれるそうだ。
セフィは女性を抱き締め、小さくなりながら息を殺した。
足音が近い、金属音が鮮明に聞こえてくる。
「しかし、参るよなぁ。こんな森の中まで来なきゃならんなんて」
「そうぼやくなよ。これも仕事だ。こう考えろ、こんな森を歩くだけで帰りに一杯引っ掛けられるんだ。安いもんだろ?」
「旦那は楽天家でいけねぇや」
二人、男、金属の音は恐らく帯剣してるのだろう。
セフィは悩んだ。あの男達に問いつめてやりたいと思っている。しかし、狙いはきっとこの女性とあの赤子だろう。なら、これは隠れやり過ごすのが得策か。
そう考えていると、足音が不幸にもこちらに来ている。これでは間違いなく見付かる。
その時静まっていた鳥達が急に騒ぎだし、飛んでいった。驚いたセフィは木の陰からその鳥を目で追った。なんと、鳥達は男達に襲いかかったではないか。
セフィが呆気に取られていると、一人が剣を抜き適当に振り回した。
鳥達には当たらず、男達は堪らず逃げていった。
その内の一羽はこっちに飛んできて、目の前の木の根に止まり、小首を傾げた。残りは男達を追って、騒がしく鳴きながら飛んでいった。
「そう、彼女に謝りたかったのね。後で家にいらっしゃいな。なにか御馳走するわ」
鳥の嬉しそうな感情が伝わってくる。最後に一鳴きすると鳥は翼を広げ羽ばたいていった。
「さて、と、貴方もよく頑張ったわね。ゆっくり休みましょう」
女性が小さく静かに微笑んだ気がした。
そして現在に至る、と。今では元気に山を駆け回り、池で泳ぎ、動物達とケンカをするくらいになった少年、グリンと名付け、これまで側にいた。
計算すると十年位になるか、そう思うと老け込んだ気がして、セフィは頬を確認するように触った。
この女性、セフィは十年前と全く姿は変わっていない。ちょっと変わった事情があるから、説明は機会があれば、ということで。
自慢の長い髪の手入れをしながら、お茶をすする。
これもまた至福の一時なり、グリンを育て始めてから、子供の力に振り回され、可愛く寝息を立てるその時に安らぎを感じてしまっている。やはり老け込んだ気がして、少々気持ちが沈んだ。
それでもグリンが居てくれて、温かい言葉しか出てこない。幸せで嬉しくて、充実している。一人で居ない事がこんなにも温かいなんて、考えたこともなかった。
愛しい愛しい大事な我が子、母親には悪いが、私も自信を持ってグリンの母だと言える。グリンは母とは呼んでくれないが。
「お母さん、母上、ママ、母。うーん、何が良いかな、何て呼んでくれたら嬉しいだろう?」
そんな幸せな一時をセフィは過ごした。




