37.タイアンの独白②
『この子は……』の続きを記さなかったのは、書いたらそれが現実になってしまうと思ったのかもしれない――言霊のように。
どんなに苦しかっただろう。我が子を腕に抱く度に、愛する人の子か、それとも暴漢の子か、と考えてしまうのだ。
彼女の気持ちを思うと胸が苦しくなる。
「一歳を過ぎた頃には『私に似ているのが救い、もし違う所が出たら殺してしまうかも……』と乱れた文字で綴っていた。あの子が喋るようになった頃は『どうかあの声に似ないで……』と狂ったように繰り返していました」
タイアンは落ち着いた口調で話しているけれど、きつく握りしめた両手には血管が浮き出ていた。彼もまた苦しんでいるのだ。
ふと、私は日記の内容に微かな違和感を覚える。
彼女は子供の父親が暴漢である可能性を恐れてたのではなく確信していた、と感じたのだ。
そう言えば、タイアンもルークライに初めて会ったとき『この子はセリーヌの子だと思った』という表現をしていた。
もし心当たりがあるなら『セリーヌと私の子』と言うのではないだろうか。それに歓喜よりも先に戸惑いがあって然るべきでは……。
私はアクセル・タイアンを尊敬していた。それは、彼が誰に対しても公平で仲間を大切にする人だと知っているからだ。
……そんな人が恋人を大切に思わないわけはない。
彼は臆病だから追わなかったと言っていたけど、本当は彼女の幸せを願ってではないだろうか。
身分ゆえに虐げられる彼女を知って、彼は心を痛めていたはずだ。別れを望んだ彼女を自分に縛り付けたくないと、彼なら思うのではないだろうか。
……そう、彼はそう思った。
そして、愛する人は自分ではない相手とも幸せになる人生があると信じていた。貴族令嬢は婚姻まで純潔を保つのが常識。それは、幸せになる条件に欠かせないもの。
つまり、彼女は……。
目を見開きタイアンを見ていると、彼は車椅子に私を座らせた。私が深呼吸していると、大丈夫ですかと聞いてきた。コクリと頷くと、彼は続きを話し始める。
「最後のページにはこう書いてありました。『あなたの子供だと思うことで、私はあの子を最期まで愛せることができました。ありがとう、アクセル』とね。だから、私がルークライの父親です。誰がなんと言おうと」
タイアンの声音に迷いはなかった。
親子鑑定をしなかったのは、親子でないと証明されてしまうからだったのだ。
彼が父親になったのは、セリーヌへの贖罪か、それとも愛する人の子供を見捨てて置けなかったのか。何がきっかけにしろ、彼は今、ルークライを心から愛しんでくる。
――血が繋がってなくとも、正真正銘の父親。
私の表情を確認すると、タイアンは顔を和らげる。私が思っていることが伝わったのだろう。
「日記は焼き捨てました。ですが、この過去を知る者はどこかで生きているでしょう。もし、ルークライがこの事実を知って苦しんだら支えてあげてください。私は嫌われてますから」
「はい、支えます。でも……」
自分から言い掛けておいて口籠ってしまう。でもの後は「そんなに嫌われていないと思います」と続けようとした。しかし、勝手にルークライの気持ちを推測して伝えるべきではないと思い直した。
私は事実を伝えるだけでいい。
「でも、なんでしょうか? リディア」
「ひとつだけ伝えたいことがあります」
「どうぞ、言ってください」
「もの凄く不敬なことですけど構いませんか?」
「構いませんよ。何を言われても笑顔でいる自信があります」
笑みを絶やさない彼らしい返事だった。
私は眠ったままのルークライを見て『止めるなら今よ?』と心の中で聞いてみる。
……返事がないから言うね。
目覚めたあとに怒られたら、その時はその時である。
私はコホンッと小さく咳払いしてから、あの時のルークライのように叫んだ。
「肩にとまって嫌がらせしろ。くそ親父の毛を毟って来い。行けー、白!――とあなたの息子が言ってました」
タイアンは一瞬呆けた顔をして、それから口元を歪ませ、そして両手で顔を覆った。
「口が悪いですね、私の息子は。ですが、初めて……親父と呼んでもらいま……し、た……っ……」
彼は肩を震わせながら嗚咽する。
ルークライは真実を知らない。彼にとってタイアンは一生、母を見捨てた最低な父親。
でも、タイアンの深い愛情はじわりじわりとルークライの心に浸透している。本人は気づいていないと思うけど。
だからあの時、ルークライからあの言葉が出た。
彼がタイアンを心から受け入れる日が来るかは分からない。それでもタイアンは息子を愛し続ける。こんな親子がいてもいい。
「いつか、父上と言ってくれるでしょうか?」
暫くすると、タイアンはいつもの笑みを浮かべてそう聞いてきた。嘘は吐きたくないから、思ったまま応える。
「ちょっと難しいかもしれません。そもそも親父の前にあった言葉を無くすのが先かと……」
「はっはは、そうですね。先は長いですね」
私とタイアンはベッドに横たわるルークライを見つめる。起きて『くそ親父!』と言うのではないかと期待しながら。
でも、彼は固く目を閉じたまま。そんな息子を目に映すタイアンの横顔は辛そうだった。
私は立ち上がってベッドの側に行くと、ルークライの顔に自分の顔を近づける。
「ルーク、タイアン魔法士長に挨拶していいかな? ん? 分かった、良いのね」
ひとりで怪しげな会話をする私を、タイアンは不思議そうに見ている。
そんな彼に向かって、私は余所行きの顔を見せる。だって、第一印象は大切だから。
「義理の娘になる予定のリディア・マーコックです。どうそよろしくお願いします、《《お義父様》》」
「……この子は本当に見る目がありま……すね」
「はい、あなたにそっくりです」
何を言われても笑顔でいる自信があると言っていたのに、タイアンはまた顔を手で覆っている。
その時、廊下からこちらに向かって来る足音が聞こえた。たぶん、看護師が私を迎えに来てくれたのだ。私は自分で車椅子を押してそっと病室をあとにした。
タイアンはひとりでずっと耐えていた。これで誰に遠慮することなく息子の前で泣けるはずだ。




