33.説得
ザラ王女はわなわなと唇を震えさせながら、私に向かって手を振り上げた。
「この泥棒猫っ!」
でも、その手が私の頬を打つことはなかった。前回、彼女の手が私に届いたのは、淑女の鑑であるべき王女が手をあげるとは思っていなかったから。
私がさっと避けると、王女は睨みつけながら金切り声をあげた。
「避けるなんて不敬だわ」
そもそも泥棒猫じゃありませんから……。
と心の中でまず呟いた。
これを口にしたら彼女が発狂しそうだと思ったから控えたのだ。でも、正しいことは言わせて貰う。
「不敬とは王族に対して敬意を欠いた言動に対して使う言葉です、ザラ王女様」
「だから、不敬だと言っているのよ」
彼女はふんっと鼻で笑う。
「では、お聞きします。敬意を払うとは、理不尽な暴力を受け入れることでしょうか?」
「はっ、理不尽ですって? 私の大切な人を奪っておきながら」
王女は憎々しげに私を見ながらそう言い放つ。全然彼女と話が噛み合わない。
彼女はルークライの言葉を聞いていた。なのに、どこまでも自分の気持ちが優先なのだ。周りが合わせる――この場合は私が身を引く――のが当然と思っている。
王女は少し我が儘と耳にしたことはあっても、悪評は聞いたことがない。上手く周りがフォローしていたのだろう。たぶん、彼女に何かを譲った人はたくさんいる。表に出てこないのは、王族の不興を買いたくないから。
彼女との会話に辟易していると、タイミングよく狼竜が防御の盾に突進してきた。「ヒィッ」と小さく叫んで、彼女は奥に戻って行く。良かった、もう相手にしたくない。
ザラ王女が入口付近からいなくなると、ルークライは兄に向かって指示を出す。
「入口の盾を解いたと同時に、俺は三頭を囲む。ノア殿は王女ともうひとりを連れて来た道を走れ。そして、ここの現状を正しく伝えて、対処出来る者達を寄越してくれ」
「承知した」
「それから、三頭がすでに放たれている可能性もあると警告してくれ」
兄はパッと振り返り、後ろに立っている私を凝視する。
私達の先ほどのやり取りを恋人同士の甘い言葉と受け取っていたのだろう。そこまで深刻だとは思っていなかった、そんな顔をしている。
兄は魔法士ではないから、囲うのがどれほど難しいか分からない。当然、耐えられる時間の予測などできない。だから、優秀な濡れ鴉なら応援を連れてくるまで保つと思い込んでいたのだ。
「私も残る。シャロンを置いてはいけない」
「ノア殿、足手まといは不要だ」
「それなら、シャロンも連れて行く!」
兄はルークライを睨みつける。こんな兄を見たのは初めてで、私は思わず口を開いた。
「私はここに残ります。私がいれば囲う時間を伸ばせますから。王宮の鴉として当然の選択です。そんな顔なさらないでください。死ぬと決まっているわけではありません、お兄様」
……そう、決まってない。ただ、生き残る可能性が限りなくゼロに近いだけ。
安心させるために私は笑おうとした。でも、兄と会うのはこれが最後かもしれないと思うと、上手く笑えない。
「シャロン、私は――」
兄が私に手を伸ばす。でも、その手が届く前にルークライが兄の胸元を掴み、その体を岩壁に容赦なく押し付けた。
「王女みたいになるな! 自分の想いを優先させるな、ノア・マーコック。残るだと? では、誰が正しい情報を伝える。あいつらは信用出来ない」
ルークライは岩洞の奥で怯えている王女達を見ながら、吐き捨てるように最後の台詞を告げた。それから、手を緩めることなく続ける。
「囲む時間が伸びるとは、あの狼竜が他の者を襲う確率が低くなるということだ。連れて行くだと? それは誰かが犠牲になっても構わないということかっ」
「そうじゃない! ただ、私は彼女を――」
「大切な妹だ。そうだろ? それなら彼女が誇れる兄で居続けろ、ノア・マーコック」
「し、知っていたのか……」
ルークライは兄の目を真っ直ぐに見ながら小さく頷いた。
大切な妹――その言葉を彼が出したのはきっと私のため。最後かもしれないから、兄の気持ちを聞き出した。
彼が投げかけた言葉に、兄は知っていたのかと答えた。つまり、私はただの妹ではなくて大切な妹。
マーコック公爵家を出た私を、そんなふうに思ってくれていたなんて……。
私がそっと目尻を拭っていると、ルークライから解放された兄は、三人がいる奥へと歩いていった。魔法士の判断を分かってくれたのだ。
空いたルークライの隣に私は並んだ。
「残らなくてもいいんだぞ、リディ。たぶん、そんなに長さは変わらない」
彼は優しい口調で先ほどとは真逆なことを告げてくる。そんなの分かっている。でも、その少しで結果は変わるかもしれない。私は強気に言い返す。
「私を侮らないで」
「侮ってなどいない。生きて幸せになって欲しいんだ」
……それも分かってるわ、ルーク。
私は彼の肩に頭をコトンッとつける。
「それなら余計に私はここにいないと。ふたりで幸せになるのだから」
彼は答える代わりに、私の手を強く握ってくれた。
私は手のひらを通して自分の魔力を彼の体に浸透させていく。魔力の受け渡しなんて、殆どの魔法士は座学でしか知らない。上手くできるか自信がなかったけど、呆気ないほどすんなり出来ている。それに、とても心地いい。
魔法士の教本には、互いの愛が深いほどスムーズだと記してあった。
……ということは、そういうことよね?
照れくさいけれど嬉しい。頬を緩ませながら彼を見上げれば、当然だという顔をしている。
「教本、合っていたね」
「ああ、みんなに会ったら教えてやろうな」
「……そうだね」
伝えることなんて……たぶん無理で、彼もそう思っているはず。でも、お互いそんなことは顔に出さずに、指を絡めて微笑んだ。
まだ生きているから、この一瞬を大切にしたい。




