32.鴉の決断
私の盾は消えていた。狼竜がぶつかったのではなくもう限界だったのだ。
ルークライの盾に四方を塞がれた狼竜はなかで藻掻いている。彼は動いているものを囲める魔法士のひとりだった。
「どうして……。あっ、白が案内してくれたのね?」
そう言えば、母との食事の時も白が飛んできたあと、ルークライが現れたのだ。
「この茂みに隠れている岩洞は上空からでは気づけない。彼だ」
彼は一歩横にずれて後ろを見る。そこには兄の姿があった。危険を顧みずに、助けを連れて戻って来てくれたのだ。あの時、聞こえた言葉を思い出し胸が熱くなる。
「シャロン、」
「お兄様、ありが――」
「ノアお兄様、ご無事で。心配したんですよ……っう、う……」
私の言葉を遮って、シャロンが兄の胸に飛び込んでいく。泣きじゃくる義妹を優しく受け止める兄。でも、その目には私も映してくれている。ともに育ってないから甘えられる関係ではない。でも、兄にとって妹はひとりではなく、ちゃんとふたりいる。私は穏やかな気持ちで、抱き合うふたりを見られた。
「リディ、よく頑張ったな」
ルークライはポンポンと軽く私の頭に触れる。王女がここにいるから配慮しているのだろうけど……その態度は少し寂しい。
そんなことを思っていると、王女がつかつかとこちらにやって来た。
「ルークライ、私のためによく来てくれました。あなたに《《特別な》》褒賞を与えるように父に進言いたしますわ」
彼の配慮は適切だったと痛感する。
王女は『特別な』と言いながら恥じらうように目を伏せてみせた。高貴な自分を差し出すと匂わせているのだ。
本当に勝手な王女様。この混乱の責任を追及されることを都合よく忘れている。
侍女が口を噤んだとしても、私は聞いたままを上に報告する。
ルークライは迫ってくる王女から距離を置き、後ろ手で私の手に触れてくる。誤解してくれるなと伝えているのだ。私はそっと握り返してから手を離す。
今この森で何が起きているのか、ルークライが説明を始めた。
「ほとんどの狼竜達の様子がおかしいです。襲ってくるというよりも人に対して発情しているような状態で。あの見た目と大きさなので参加者達は阿鼻叫喚で。狼竜の被害というより逃げ惑った挙げ句に怪我人が出ています」
一呼吸置いたあと、彼は外で囲っている狼竜に目をやる。
「あの狼竜は異常です。護衛騎士殿に聞いていた以上で、正直驚いています」
「あの騎士様はご無事なの?」
護衛騎士という言葉に、思わず話の腰を折ってしまう。
「鍛えているのが幸いした。彼が言っていたぞ。魔法士殿が踏ん張ってくれたから耐えられたと」
「本当に良かった……」
「護衛のことよりも、話の続きを聞かせてくださいませ。ルークライ」
王女の言葉に、ルークライは左の口元を僅かに上げる。これは嫌悪をしている時に彼がする仕草だ。彼は王女に謝罪することなく淡々と続ける。
「すぐにここからお連れするつもりでしたが、応援が来るまでここで待機します。あれから離れると、防御の盾で囲むのが難しくなりますので」
王女は不承不承という感じで頷く。彼なら私達を囲ってここから離れることも出来る。でも、あの狼竜を野放しにするわけにはいかない。
岩洞は居心地が良いとは言えないけれど、先ほどとは打って変わって安堵の空気に包まれる。それほどルークライの存在は大きい。
シャロンは兄に、王女はルークライに、一方的に話していたその時、彼は囲っていた防御の盾を解いた。
――ドドンッ。
狼竜がまた体当たりをしてくるが、入口に張った新たな防御の盾に阻まれる。一体どうしたのかと、王女が金切り声で叫ぶ。
……一頭、いいえ、もう二頭いる。
答えないルークライの視線の先には錯乱した狼竜が三頭いた。その事実に気づいた王女達は、慌てて岩洞の奥まで下がる。
ルークライの盾なら二頭だろうが揺るがない。でも、これが三頭なら……保たないかもしれない。
「ザラ王女様。錯乱した狼竜はあと何頭いるんですか!」
ルークライは驚いた顔で私を見た。これが彼女の仕業だと知らないから当然だ。答えない王女に向かって、私は更に言葉を投げる。
「判断するためには正しい情報が必要です。狂った四頭目が出てからでは遅いん――」
「さ、三頭だけよ。特別な餌をあげたのは。でも、それを手に入れたのは私ではないわ」
王女はちらりとシャロンを見た。そういうことだったのか。
ルークライと兄は彼女達が関わっていると察したが、何も聞かない。今はそれよりも優先することがあるからだ。
「魔法士殿、ここを離れるべきでは?」
兄は防御の盾で自分達を囲って離れることを提案しているのだ。でも、ルークライは首を縦に振らなかった。
「それだとあの三頭を放ることになる。他の場所で対応している者達は、狼竜がここまで狂っているのを把握していない。他を襲いに行ったら悲惨な状況になる」
「それなら引き付け役をここに残しましょう」
「ヒィッ」
侍女が叫んだ。先ほど不興を買った事実を思い出したのだろう。……でも、王女が見たのは私だった。
「魔法士はふたり。でも私達を囲めるのはルークライだけ。それなら、当然引き付ける役はもうひとりの魔法士だわ。王宮の鴉の矜持を持っているシャロン様なら、立派に役目を果たせますわ。……きっとね」
私では引き付け役は無理だと分かっているはず。だって、一頭でも私の手に余っていたのだから。彼女の目が笑っている。他人のくせにルークライの妹として側にいるのが気に要らないのだ。
王女が望んでいるのは私の無駄死に。
この状況でも自分のことしか考えない――幼いのではなく傲慢。
「ノア殿、俺が三頭を足止めしているうちに逃げてくれ。リディも行け」
「ルークライ、なぜ無視するの? 私は王女よ」
「有事があった際は魔法士が臨機応変に対応します。リディをここに残しても意味はありません」
「餌にはなるわ」
「ザラ王女様、シャロンは――」
叫ぶ兄を手で制したのはルークライだった。
彼はくっくくと声を漏らしてから、王女に冷めた目を向ける。
「鴉は執着心が凄い生き物なんです。一度手に入れた宝物は決して離さない」
「それなら、私のそばにいてちょうだい、ルークライ。その権利をあなたに与えるわ」
嬉々として答えるザラ王女。ルークライが向ける軽蔑の眼差しにも気づいていない。
「誰が言ったんです? 俺の宝があなただと。違いますよ、俺の最愛はたったひとりです」
彼がそう告げたのは、己の死を覚悟したからだ。……魔法士として最善の選択をすると決めたのだ。
ルークライと言えども、ひとりで三頭を囲えるのはせいぜい十分ほど。私達がこの場を離れるのには十分な時間だけど、その間に応援が来るとは思えない。
彼は私の髪を優しく撫でてから、頭上にそっと口づけを落とす。
「ごめんな、リディ。一人ぼっちにさせてしまうかもしれない」
そんな別れの挨拶なんて聞きたくない。
「私もここに残るわ」
「駄目だ、行け」
「鴉は宝物から離れられない。そして、私はその鴉で宝物はルーク。知ってるでしょ?」
「……ああ」
「それにね、私がここに残ればふたりで助かる可能性が出てくる。ね? そうでしょ」
わずかでも可能性があるなら、それに賭けるのが王宮の鴉だ。
愛し合っている者同士なら魔力を分け与えることができる。囲えなくとも、十分を十五分に伸ばせるかもしれない。
そしたら、鴉が助けに来てくれる。もしくは看取ってくれるかな……。
「一緒に死ぬかもしれないぞ」
「最期まであなたのそばがいい」
笑みを浮かべながら告げたのは本心。彼は私の耳元に顔を寄せ、私にだけ聞こえる声で「嬉しいよ、リディ」と囁いた。




