31.濡れ鴉
ザラ王女は答えなかった。シャロンの声のほうに反応したのだ。けれども、そんな王女の足元に侍女がしがみつく。
「池に行かせたのはただの嫌がらせではなかったのですか? 私にはそう言っていたではないですか。 そのせいって、今こうして狼竜に襲われていることですよね? 池に行ったとか行かなかったとか、凶暴な狼竜とどう繋がるんですか? まさか、こうなることを知っていたんですか!」
「何を言ってるの、不敬だわ!」
「ザラ様、なにか知っているなら教えてくださ……ぃ、もう嫌なんです。あっは、は……怖くて。私、耐えられません……」
侍女は泣きながら笑っている。恐怖から逃れようと必死なのだろう。王女は友人であるはずの侍女を容赦なく振り払った。こういう時こそ友人なら労るべきなのに。
その一方で、シャロンは這いつくばって泣く侍女に優しく寄り添った。
「大丈夫よ、きっと助けが来るわ。だから、その唇を閉じましょうね。せっかく助かったのに不敬罪で地下牢行きなんてご両親が悲しむわよ。ね?」
侍女は一瞬目を見開き、それから口元を引き攣らせる。
「……わ、私、どうかしてました。ただ怖くて……」
「ザラ様だって分かっているわ。友人が正気を失って吐いた言葉なんて、忘れてくださるわよ」
シャロンがそう言うと、ザラ王女は鷹揚に頷いてみせた。
なんて歪な友人関係なのだろうか。
シャロンは侍女に優しく語りかけ、遠回しに脅したのだ。皮肉なことだけど、脅されたことで侍女は我に返り口を噤んだ。
大人しい狼竜の錯乱におそらく王女は関わっている。たぶん、シャロンはその経緯を知っている。侍女だけは何も知らなかったのだ。どんなふうに操作したのか私では想像もできない。でも、それが失敗した結果が今の状況なのだろう。
なんて浅はかな人達なのっ……。
護衛騎士は怪我をした、他にも怪我人は出ているだろう。……騎士様はまだ生きているだろうか。あの夥しい出血が脳裏から離れない。
彼の名を私は知らない。でも、王女なんかよりもずっと良い人だった。生きていて欲しい。
――ドドンッ!
突然の地響きとともに岩洞の入口がパラパラと崩れてしまう。狼竜が体当たりをして来たのだ。
私は慌てて崩れて広がった箇所へ防御の盾を広げようとする。でも、上手くいかない。
王女のあまりの愚かさとシャロンの裏の顔――私が動揺するには十分過ぎる理由だった。
落ち着け、落ち着くのよ、リディア。目の前のことに集中しなさい!
必死に集中しようとしているのに、牙を剥き出しにして体当たりを繰り返す狼竜に意識を持っていかれてしまう。
錯乱した狼竜は自身の身が傷つくことを恐れない。このまま続けられたら、岩洞自体は大丈夫でも私の防御の盾は保たない。
「奥まで行ってしゃがんでください。たぶん、保ちません」
「「「ヒィッ……」」」
彼女達は初めて大人しく私の指示に従った。誰だって命は惜しい。本当なら私だって、彼女達のように耳を塞いでしまいたい。
でも、私は王宮の鴉だから、彼女達のような最低の人間でも守る――生きて罪を償わせるために。
死に得なんて許さないから……。
自分を鼓舞するために、体当たりをする狼竜を防御の盾越しに睨みつける。
こんなところでは死ねない、死にたくない、ルークライを悲しませたくない。大好きな彼に笑っていて欲しいなら、こんなところでひとりで死んでは駄目だ。
限界まで魔力を高めて盾に注ぐ。でも、すでに見えない亀裂が入っているのを感じていた。
後ろに下がった狼竜がまた突進してくる。
もうすぐ私の体は盾ごと粉々に吹き飛ばされるだろう。生まれて初めて死というものを意識する。
よく死の間際には走馬灯がよぎると聞くけど、私の頭に浮かんだのは鴉達――私にとっての家族。そして、これから家族になるはずの愛しい人――ルークライ。
ごめんね、家族になれないみたい……。
彼を想って涙が溢れる目をそっと閉じる。ドスドスッという足音が近づいてきて、私の盾が粉々に砕け散る感触が伝わってくる。
「ルークライ、ごめんね。ひとりぼっちにしてしまって……」
「俺をひとりにするなんて許さない」
「……走馬灯が返事?」
「馬じゃなくて鴉だ、リディ」
目を開けると、肩に一本足の鴉を乗せたルークライが私の前に立っていた。彼の手には血がついた剣があって、その体には返り血を浴びている――まさに二つ名の由来となった濡れ烏だった。




