19.鴉のお姫様
母はそれ以上何も言わなかった。……私もだけど。
ただならぬ雰囲気を察した侍女は、主である母を支えながら馬車へと乗り込んだ。そして、見送る私に向かって、「シャロン様、失礼いたします」と丁寧にお辞儀をしてから扉を閉めた。
「お母様、今日はご馳走様でした」
走り去っていく馬車に向かって私は頭を下げる。
言い忘れてしまっていたのを思い出したのだ。今更言っても聞こえないのは分かっているけど、これは私の気持ちの問題。どんなことがあろうとも、お礼は言うべきだから。
視界から完全に馬車の姿が消えると、私はその場で腕をうえに上げて伸びをする。身も心も短時間で凝ってしまっていたから。
今日は一歩だけ踏み出せた。……ううん、半歩かな。そうだとしても、私にとっては前進に違いない。
リディアと呼んで欲しい――私らしくいたいと伝えられた。
後悔はしていないけど、すっきりしたとも言えない。
私の言葉を歪曲して受け取った時の母の表情――私を責めているような顔――が脳裏に焼き付いて離れない。
嫌われちゃったかな……。
上を向いて大きく息を吐いた。そうしないと目尻から温かいものが溢れてしまいそうだから。上を向いた拍子に樹木にとまっていた白がいないことに気づく。
寝床にしているルークライの家に帰ったのかもしれない。
私はどうしようかな……。
まだ夕方にもなっておらず、ひとりで歩いても問題ない時間帯だ。でもひとりで街を散策する気分にはなれない。このまままっすぐ寮に帰ろうと、来た道を戻るために体の向きを変えた。
「きゃっ! どうしてここにいるの?!」
なぜか私の前に私服のルークライが立っていた。すると、彼は忘れたのかと笑う。
「王宮を出る前にこの店の地図を見せてくれただろ」
「確かにそうだけど、そういう意味ではなくて、」
午後の仕事はどうしたのか聞いたのだ。
彼は私の質問に答えることなく、いきなりその場で片膝をついた。そして、えっ?と呟く私に向かって右手を恭しく差し出してくる。
「もし時間が空いていたら、俺とデートしていただけませんか? お姫様」
微笑みながら彼は「今は、鴉のお姫様だな」と言い直す。
……そう、私は昔、彼にお姫様と呼ばれていた。
養い親の家は子供達にお使いをさせていた。遠い市場まで歩いていくのも大変だったけど、帰りは重い荷物があるのでもっと大変だった。幼かった私は体が小さく力もなかったので本当に辛かった。だから、当番の日になると、よく泣きべそをかいていた。そんな時、彼は決まってこう言った。
『よかったら僕とデートしていただけませんか? お姫様』
『……デート?』
『そうだよ。お使いに行くんじゃない。これはデートなんだ、お姫様』
『なら、ルーク兄さんは王子様なの?』
『僕はリディだけの王子様だよ』
彼は私の機嫌を直すのが上手だった。
彼と手を繋いだ私は、はしゃぎながら歩いたものだ。今思うと、本当に単純な子だったと思う。
あの時の彼は子供だったけど、私にとっては王子様に見えた。
そして、跪いた今の彼は本物の王子様そのもの。
分かっている、ルークライは昔の真似をしているだけ。たぶん、落ち込むことがあったのだろうと察したのだ。深い意味なんてない……けどドキドキしてしまう。
気づかれちゃうから鼓動よ、とまって!
そう願ってから、止まらないでと慌てて訂正する。心臓が止まったら死んでしまう。
どうしようかと一瞬悩んでから、昔のように振る舞うことにした。それが一番自然だから。
「ルーク兄さんは王子様なの?」
待ってましたという感じで、彼は口角を上げる。良かった、私の気持ちには気づいていない。
「俺はリディだけの王子様だ。可愛い妹に本物の王子様が現れるまでのだけどな。さあ、鴉のお姫様、お手をどうぞ」
「はい、鴉の王子様」
私が彼の手のひらに手を重ねると、彼はぎゅっと掴んで立ち上がった。
繋いだ手を私は慌ててパッと離す。照れくさかったのもあるけど、鼓動の動きが手のひらを通じて伝わっては大変だから。
そんな私の動きなど、彼は気にすることなく歩き始める。……意識したのは私だけ。淋しいけれどこれが現実。
「折角の休みなんだから楽しもう。リディ、行きたいところはあるか?」
「うーん、ないかな。そうだ、食べ歩きをしたいな」
食事は済ませていたけど、正直食べた気がしなかったのだ。
彼はこっちだとメイプル通りとは反対の方角へ進む。あちらにもお店はあるけれど、高級店ばかりなので食べ歩きなど出来ないからだろう。
並んで歩いていると、すれ違う女性達がルークライに熱い視線を投げてくる。珍しいことではない、彼の容姿は人目を引く。
確かに彼はとても素敵だけど、でもね、それ以上に中身が格好いいのよ。それを一番良く知っているのは私なんだから。……妹だからだけど。
自慢のようなことを心のなかで呟いてから、最後には勝手に落ち込むという完璧なオチをみせる。私ってある意味器用だ。
少し歩くと町の雰囲気が変わってきた。
メイプル通りからそんなに離れていないはずだけど、道端に露店もあって、気さくな呼び込みの声が飛び交っており活気に溢れている。
「まずは、ここだな。リディ、食べてみろ」
角を曲がったところにあったお店で、彼は串焼きを二本頼み、一本を渡してくる。邪魔にならないように近くの路地に入ると、私は大きな口を開けて齧り付く。
「ルーク兄さん、これ、なに?!」
「猪の肉に林檎を挟んである。意外な組み合わせだけど、美味しいだろ?」
私がうんうんと頷いている間に、彼は二口で平らげた。
「よく頑張ったな、リディ」
何も聞かずに彼は、私の頭を優しく撫でてきた。彼は私と母が平行線に終わると予想していたのだろう。だから、駆けつけて来てくれた。
ん? なにか大事なことを忘れているような……。
「ルーク兄さん、仕事はどうしたのっ!」
思わず叫んでしまう。
だって、今日の午後、彼は五件ほど警護を任されていた。急な用事があった場合は交代することもある。だが、彼の穴は五人だけでは埋められない。なぜなら、ルークライは並の魔法士三人以上の働きをするからだ。
魔法士は常に人手不足で、手が空いている暇な者なんていない。例外は私の隣に座っている老魔法士だけ……でも、彼は無理だろう。
そもそも、私を心配してなんて急な用事に該当しない。
「放棄してきた。俺にとってリディのほうが大切だからな」
「あの……ホウキって箒よね? ルーク兄さん」
「はっはは、面白いこと言うな。箒してきたってどういう意味だ?」
そんな質問には答えられない。だって、ただの現実逃避だもの。
私が涙目で「急いで王宮に戻って一緒に謝ろう」と言うと、彼は落ち着けと言わんばかりに私の肩に手を置く。そして、まっすぐに私の目を見ながら口を開いた。
「冗談だ。俺が放棄なんてするわけないだろ? リディ。警護対象者に腹下しを一服盛って仕事自体を潰したから問題ない」




