10.夢……
隣の席に誰かが座る音がして、嗅ぎなれた湿布の匂いが鼻腔に届く。老魔法士が出勤して来たのだ。
「今日はやけに早いんじゃな、リディア」
「おはようございます」
「その様子だと二日酔いじゃな。すまんの、二日酔いの薬はあいにく切らしておるんじゃ」
昨日私がルークライと一緒に食事に行ったのを彼は知っている。私の今の姿と、あの時間帯だから当然酒場だろうと推察しての言葉だろう。
「大丈夫です。二日酔いではありませんので」
心配してくれる老魔法士に対して、私は机に突っ伏しながら答えた。……全然説得力がない。
しかし、本当に二日酔いではないのだ。
昨日は確かにたくさん飲んで、お店で寝てしまうという醜態を晒した。挙げ句にルークライに背負われて寮に運んでもらい――管理人さんが教えてくれた――多大な迷惑を掛けた。
にもかかわらず、目覚めはすっきりだった。
それなら何も問題はないはず……なのに、王宮の仕事場に一番乗りした私は二日酔いもどきになっている。
これには深い理由があるのだ。
数時間前。寮の部屋で目覚めた私はまず叫んだ。
『きゃー、なんて夢!!』
忘れるのよ、リディア・マーコック。本気なのっ?! 忘れるなんて勿体ないでしょ。今なら、続きを見られるかもしれないわ。ほら、さっさと寝てみなさい。いいえ、駄目よ、あなたは大切な妹でしょ? …………もう一度寝よう。
枕を抱えて悶え、それから理性と欲望が揉めに揉め、理性が負けて二度寝にチャレンジした。けれども、興奮して眠れずいつもよりも一時間も早くに出勤したのである。
昨夜私が見た夢とは、ルークライが『愛している』と私に囁く夢。聞いたこともない甘い声音で、それから私の髪を愛おしそうに掬うのだ。現実から遠く離れた、まさに欲望の塊。…………。そんなに私は飢えているのだろうか。
「たぶんね」
いつもの癖で自分で答えてしまう。でも、全然安心できない。完全に答えを間違えてしまった。
仕事場に着いてから私は必死に心を落ち着かせようとしていた。でも、あの声色、あの手の艶めかしい動きが頭から離れてくれない。
あと少しでルークライも出勤してくるはず。彼を前にして平常心を保てる自信はない。
絶対ににやにやしてしまうわ……。
困った私は顔を隠すために、突っ伏しているというわけだ。言うなれば緊急避難である。
「やっぱり腰痛じゃったんだな? ほれ、今日こそ心の扉を開くのじゃ」
老魔法士はまた私の机の上に湿布を置いてくる。
心の扉を開くって何だろう? ……意味が分からない。でも、問い返す気力はない。
ズズッと押し返すと、彼はズズッと押し戻す。お互いに一歩も譲らず膠着状態が続いていると、頭の上からルークライの声が降ってきた。
「リディ、どうした? 二日酔いか?」
ああ、心の準備がまだ出来てないのに……。
いつも通りの声で夢のように甘くない。それなのに、私の心臓は勝手に早鐘を打ち始める。これは非常にまずい。よしっ、このまま顔をあげないでいよう。
「昨日は迷惑を掛けてごめんなさい」
まずは言うべきことを伝えた。
その後に、私の胸が絶対にときめかない人の名前を心のなかで唱える。
ケイレブ様、ケイレブ様、ケイレブ様……。
これでなんとか始業前には落ち着くだろう、と思っていたのに無情にも始業を知らせる鐘が鳴り始める。
仮病を使ってこの場を去るなんて、王宮の鴉としての矜持が許さない。
「やっぱりいただきます」
私は押し返していた湿布をさっと引き寄せ、素早く貼った。スースーする以外は問題はない。私は平然と顔を上げる。
「やっと素直になったんじゃな。ん? リディア、貼る場所を間違っておるぞ」
「いいえ、間違っていません。顔が腰痛なんで」




