侯爵家の孫娘(2)
アンネリーゼ視点です。
「リナリア先生、ご招待いただきありがとうございます」
お茶会当日。アンネリーゼははじめてのお茶会に緊張しながら習ったカーテシーを披露した。いつもほっとするような優しい笑顔を浮かべているリナリア先生は、今日も笑顔でお茶会の席へ招き入れてくれた。
「ようこそおいでくださいました、アンネリーゼお嬢様。さあ、こちらへどうぞ」
案内された席に座ったアンネリーゼは、目の前のテーブルに目を輝かせた。アンネリーゼが好きなオレンジ色の花が配色良く生けられ、好物である林檎のお菓子もたくさんの種類が並べられている。美味しそうな香りのするクッキーには林檎のジャムがのっていて、宝石のようにキラキラ輝いていた。
「お飲み物はこちらをどうぞ」
見惚れる様な所作でリナリア先生から差し出されたカップに、アンネリーゼは目を見開く。
「わあぁ!な、なんですか?これは紅茶なのですか?」
目の前のカップの中には、薔薇の花が咲いていた。
いや、よく見るとカップの中に薄くスライスされた林檎が薔薇の花びらのように何枚も重ねて巻かれている。そこに紅茶が注がれているのだ。
「こんなに綺麗なもの、はじめて見ました」
飲んでしまうのがもったいないくらい、それはアンネリーゼにとって宝石の様にキラキラして見えた。
「喜んでもらえて良かったです。これはアップルローズティーですよ。お嬢様は林檎がお好きと聞いたので、色々と作ってみたんです」
「お菓子も先生がお作りになったのですか⁈」
アンネリーゼは驚きで淑女にあるまじき大きな声をあげてしまう。並んでいるお菓子はどれも本当に可愛らしくて、王宮で供されても問題ないくらいに思える。それを同じ侯爵令嬢であるリナリア先生が作れるというのが、ただただ信じられなかった。貴族令嬢は、普通自分で料理などしないものなのに。
アンネリーゼはまじまじと目の前で微笑むリナリア先生を見つめ、それでも先生なら出来てしまうのかもしれないと考える自分を認めていた。
2週間前、レイト侯爵家にやって来たリナリア先生は本当に不思議な人だった。
大きな眼鏡で顔を隠してしまっているが、形の良い輪郭に優しく微笑む唇、スッと背筋の伸びた美しい佇まいに見惚れる様な所作。“淑女”とは、まさにこんな人なんだろうなと初対面で思えてしまった。
高位貴族の令嬢は、幼い頃から母親や親族の女性から淑女教育を受け、デビュタント前に後ろ盾となる貴族家の婦人や令嬢から家庭教師としてデビュタントの為の教えを受ける。アンネリーゼも母から教育は受けていたが、アンネリーゼが生まれてすぐに祖父であるワーグナーが倒れたため跡取り娘である母が当主代理として立つことになりとても忙しかったのだ。その為母から教えを受ける時間は随分と少なく、更に母はその時間を使ってアンネリーゼに領主としての勉強を優先して教えるようになった。
今思えば、母は自分が長くは生きられない事を知っていたのかもしれない。父は優しくて、そして決定的に政には向かない気の弱い人だ。だからお祖父様が伏せっている今、もしも母に何かあった時にレイト侯爵家を背負うのはまだ幼いアンネリーゼとなる。それを危惧した母は時間の許す限りアンネリーゼに領主としての心得を教えていたのだが、アンネリーゼが9歳の時に病で亡くなってしまった。その後アンネリーゼと父は財産狙いの権力欲の強い叔父から侯爵家を守るのに手一杯で、社交界からは見放されていった。決して他言してはいけないと言われているが、親交のあった王族派のいくつかの家門でも当主が伏せっており、家への支援も後ろ盾も望めない状態だ。いくつか伝手を頼って可能性のある家門に家庭教師の打診をお願いしたけれど、全て断られた時には父と共に絶望感に打ちひしがれた。
そんな時、交易で多少の関わりのあった知人から隣国の侯爵家の令嬢がこの国で家庭教師の働き口を探しているとの話を聞いたのだ。
侯爵家の令嬢が働きに、しかも隣国までやってくるなど普通では考えられない。まさか問題のある人物なのではないかとも思われたが、もはやこちらに選り好みする余裕などなく名前だけでも借りるつもりで来てもらったのがリナリア先生だった。
初めて先生が家にやって来た日。失礼を承知で父が先生の技量を見せて欲しいと言えば、先生は文句のつけようもない完璧な礼儀作法を披露し、目の前で美しい刺繍を紡ぎ、宮廷音楽家にもひけを取らないピアノの腕を披露したばかりか政治にも詳しくオルティス法を誦じてみせた。私や父が驚きで目を丸くしたのは言うまでもなくない。どうしてこれほど完璧な令嬢が国を出て働くのか意味が分からなかった。何か裏があるのかとも思ったけれど、この落ち目のレイト侯爵家に取り入っても何の利益もないだろう。むしろ、こんなに素晴らしい家庭教師に教わる事が出来るのを感謝しなければと思う様になったのは教わりだしてすぐのことだった。
リナリア先生の知識は政治、経済、法律全てを網羅しており、次期当主としての勉強さえも見てもらえた。母が死んでからずっと母の残した資料で勉強して来たけれど、これで良いのかとずっと不安の中にいた。しかし先生が来てからは、その不安が少しずつ薄れて来ているのが分かる。まるで真っ暗闇の中で迷子になっているところを、手を引いて導いてもらっている様な安心感があった。
(先生の笑顔が、とても優しいからかな……)
ぼうっと紅茶を淹れる先生の横顔を眺めていたら、アンネリーゼの視線に気づいたのか先生がふわりと笑う。
「おかわりもお注ぎするので言ってくださいね。そうだ、せっかくですから、少しお茶会についてお勉強もしましょうか」
優雅な仕草でカップを置いたリナリア先生が口を開く。
「お茶会は、令嬢同士の交流の場というだけではありません。家同士の親睦を深め、穏やかな会話の中から必要な情報を入手する事が求められます。その為、相手が快く過ごせる様に事前の情報収集を怠ってはなりません。相手の嗜好、家の現状、人間関係を知り、話題を振らなければいけませんから」
「とても、難しそうです……。私、先生の様に出来るでしょうか……」
「ふふ、心配いりません。いくつかのお茶会に出席しているうちに、慣れてくるものですよ。何より大切なのは、相手を歓待する気持ちです」
そう言って目の前に林檎のお菓子を綺麗に取り分けて置いてくれる。私の好きなものが並べられたこのお茶会の席には、暗い顔をしていた自分を元気づけようとしてくれている先生の心遣いが伝わってきた。
「それに偉そうな事を言ってしまいましたが、実は私もお茶会を主催したのはこれがはじめてなんです」
「そうなのですか?」
「ええ。私は、実家では政略結婚の為の駒でしかありませんでしたから。婚約者が必要ないと言えば、お茶会に出る事も、ましてや主催する事なんてできません。婚約者にとっても、私は親に押し付けられた憎い女と思われて見下されていましたから……。彼の代わりにお茶会の準備をさせられた事は何度もありますから、お教えする知識は十分にあると自負しておりますけれど」
「そんなことが……」
こんなに優しい先生にそんな事をする婚約者が信じられなかった。悔しくて唇を噛むと、先生が宥めるように笑う。
「そんな顔をなさらないで下さい。実はその婚約者とは婚約を破棄して、私はこの国へ逃げて来た様なものなのですよ。……幸せになる事を諦めては駄目だと言って、私の手をとり助けてくれた方がいるのです」
リナリア先生がこの国に来た理由が分かって、アンネリーゼは目を見開いた。
「初めから人生を諦めてしまっていた私に、その人が言ってくれたのです。自分は貴族社会にはなんの関係もない人間だ。君が何を話したって誰にも漏れない。だから、一人で悩まず話して欲しいと。……それから、私の世界は変わりました」
そう言った先生は、とても綺麗な笑顔を浮かべている。何も聞かずとも、その人が先生にとってとても大切な人なのだということが分かった。
「ずっと一人で抱え込んでいると、悪い想像ばかりが積み重なって身動きが取れなくなってしまうんですよ。その人に話せたことで、私は諦めきった未来とは違った道を歩めるようになりました。
お嬢様、私もこの国とは関係のない隣国の人間です。アンネリーゼお嬢様が何を話しても、この国の社交界に漏れる事はありません。だからもし、悩みをひとりで抱えているのが辛くなったなら、いつでも私に話してくださいね」
どこまでも優しい沁み込むような声音に、アンネリーゼは手の中のカップをギュッと握って目を伏せる。
「どうして、先生はそんなに親身になって下さるのですか?」
くすりと笑ったリナリア先生に顔を上げれば、先生は女の自分でも見惚れるほど綺麗な笑みを浮かべていた。
「アンネリーゼお嬢様に、笑顔になってほしいからですよ」
まるで宝物の言葉を紡ぐようにそう言った先生に、私は胸が熱くなる。
母が死んでから、誰も頼れる人なんていなかった。社交界でも孤立し、弱みを見せないように屋敷に引きこもることしかできなかった。
こんな風に寄り添ってくれた人は、初めてだった――。
「私は……」
気が付けば、アンネリーゼはボロボロと弱音を吐きだしていた。レイト侯爵家を背負わなければいけない重圧、社交界で孤立する不安、叔父の横暴、祖父の体調が思わしくないこと……。
社交界では、絶対にこんな弱みは曝せない。どんなに不安でも、私はレイト侯爵家を背負っているから。
……でも、今だけはいいのだと、先生が言ってくれたから。背を撫でてくれるその手が、涙がでるほど優しかったから。
不安を吐きだしたアンネリーゼは、ややあってから恥ずかしそうに顔を上げた。
「先生、聞いてくださってありがとうございました。少し、心が軽くなったように思います」
「良いのですよ。話してくださって、ありがとうございます」
優しく笑う先生は、そっとアンネリーゼの頬にハンカチを当ててくれる。
「こんなに情けない話をしてしまって、お恥ずかしいです」
「情けなくなんかありません。辛い中でも、アンネリーゼお嬢様はしっかりと責任を果たそうとしています。それは、とても凄いことです」
「……でも、私、これから学園や社交界でやっていけるのか、自信がなくて……」
いつまでもうじうじとしてしまう自分を情けなく思っていると、先生が立ち上がって手を差し出した。
「アンネリーゼお嬢様、初めての社交界に不安を覚えるのは皆一緒ですよ。ですが、なにか一つでも、誰にも負けないと言えるものがあれば……きっとそれはお嬢様の自信となります。
私はお嬢様の家庭教師として、誰にも負けない礼儀作法と知識をお嬢様にお渡ししますわ」
先生の言葉に、胸に微かな希望が灯る。
(先生のような淑女になれれば、冷たい社交界の中でも、一人でも立っていられるかもしれない。ううん、そんな自分になりたい。お祖父様やお母様が守ってきたこのレイト侯爵家を、私も守りたいのだから)
「はい!」
希望を灯す明るい先生の笑顔に、アンネリーゼもいつの間にか笑顔を浮かべてその手をとって立ち上がったのだった。




