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侯爵家の孫娘(1)


髪を染め、化粧を変えることでその見た目の印象を5歳ほど年上に見せる。ラベンダー色の瞳を眼鏡で隠し、リナリア・バリュセルに扮してレイト侯爵家に潜入したリリティアは廊下の窓から美しく整えられた侯爵家の庭園を眺めていた。木々の間に藍色の翼の鳥が飛び立つ姿に目を細めたリリティアに、後ろから声がかかる。


「リナリア先生!」


可愛らしい声に、リリティアはにこりと微笑んで振り返った。


「おはようございます、アンネリーゼお嬢様。お早いお越しですね。まだ授業までお時間がございますよ」


リリティアの笑顔に、駆け寄って来た少女は頬を染めて見上げてきた。


「今日のピアノの授業、とても楽しみだったのです。また先生のピアノが聞けるのですもの」


そう言って瞳を輝かせるのはこのレイト侯爵家当主ワーグナー・レイトの唯一の孫娘であるアンネリーゼ・レイト侯爵令嬢だ。現在13歳で、来年には王立学園の入学が控えている。栗毛色の髪を緩く編んでいる少女は見た目通り大人しく引っ込み思案な性格であったけれど、この二週間ほどの授業を通して随分とリリティアに懐いてくれていた。


「そう言っていただけて嬉しいですわ。では、少し早いですが授業を始めましょう」

「はい!」


穏やかな日差しの入るサロンの一室で、リリティアとアンネリーゼはピアノのレッスンを始めた。

アンネリーゼは侯爵令嬢としてある程度の教養は修めてはいたが、ピアノや刺繍、礼儀作法などの淑女教育については爵位の割に進んでいないように見受けられる。これは、恐らく彼女の母親が早くに亡くなっているのが影響しているのだろう。しかしリリティアの授業を受ける姿勢は非常に真面目であり、習ったことはしっかりと吸収している。リリティアはアンネリーゼの学習プランを頭の中で上方修正しながら指導を行っていた。


「お疲れさまでした。アンネリーゼお嬢様はとてものみ込みが早いですから、次はもう一段高いレベルの楽曲を練習してまいりましょう」

「本当ですか?先生にそう言っていただけて嬉しいです」


恥ずかしそうに笑顔を浮かべたアンネリーゼは、もじもじとしながらリリティアを上目遣いで見上げる。


「あの、リナリア先生。授業も終わりましたし、また先生の演奏をお聞きしても良いですか?」

「もちろんです。今日は何の曲を弾きましょうか」

「あの、でしたら……」


嬉しそうにいくつかの曲名を出すアンネリーゼに、リリティアは笑顔で頷きピアノの前の椅子に腰かける。そして鍵盤にそっと指を滑らせると、美しい旋律を紡ぎ出した。

1階の開かれたホールから聞こえる旋律に、屋敷の使用人たちも仕事の手を止め聞き惚れる。2週間前から行われるようになったこの小さなコンサートは、陰鬱とした空気の漂っていたレイト侯爵邸に明るい息吹を運んでいた。


ポロン……と最後の音を奏でて演奏を終えたリリティアは、部屋の入口付近にやってきていた男性を視界の端に捉えると、椅子から立ち上がりカーテシーを行った。


「アーサー様までおいでになっているとは気付かず、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お耳汚し失礼いたしました」

「いやいや、とても素晴らしい演奏につい聴きに来てしまいました」


アーサー・レイト――アンネリーゼと同じ栗毛色の髪に気の弱そうな笑みを浮かべている彼はレイト侯爵の娘婿であり、アンネリーゼの父親だ。


「ピアノの腕から刺繍、礼儀作法に至るまでリナリア先生は本当に素晴らしい。あなたのような先生がアンネリーゼについてくださるなんて、本当に有難いことです。国内ではもう、うちに関わり合いたくないと家庭教師を探すのさえも困難でしたから。そうなっていれば、アンネリーゼのデビュタントはどうなっていたか……」

「お父様!」


アンネリーゼがアーサーの言葉を遮る。娘の表情に、アーサーはへにょりと眉を下げた。


「すまないね、こんな暗い話をしてしまって。先生、授業を中断してしまいすみませんでした。この後も、どうぞ娘をよろしくお願いします」

「かしこまりました」


アーサーが出ていくと、アンネリーゼは顔を俯け膝の上でギュッと拳を握っていた。


「申し訳ありません、先生。お恥ずかしい話を……」

「アンネリーゼお嬢様が謝られることなど、何もございませんよ」


暗い表情を見せるアンネリーゼに、リリティアは無理に話を聞こうとはせずにそっと立ち上がると、壁際に用意されていた茶道具の中のいくつかの茶葉の缶から一つを手に取った。


「少し休憩にいたしましょう。ハーブティーをお淹れしますので、どうぞソファにお座りになってください」


ちょこんとソファ座ったアンネリーゼの前に、リリティアは丁寧に淹れたハーブティーを置いた。おずおずと口にしたアンネリーゼは目を丸くする。


「わあ、美味しいです。それに、とても良い香り」

「お口にあって良かったです。気持ちを落ち着かせるラベンダーが入っているのですよ」


リリティアの優しい微笑みに、アンネリーゼはカップを握りしめる。


「……こんなふうに私を気遣ってくださるのは、先生だけです」


沈んだ声に、リリティアはその原因が何となく推測できた。


レイト侯爵家潜入前に、リリティアはレイト侯爵家の現状を出来うる限り頭に入れて来た。

12年前、ウルティオの父であるルーベンス公爵が冤罪で投獄された直後、レイト侯爵は司法院の実権が貴族派に渡るのをギリギリまで防いでいた。レイト侯爵家は、ルーベンス公爵家に次ぐ王族派の中でも力のある家だったのだ。

しかしその後、ある時からレイト侯爵は表に現れなくなり、ついには貴族派に権限を譲渡する書類にサインを行なってしまう。それ以降、レイト侯爵家は王族派からは裏切り者とされ、貴族派からも権限移行を妨害していた邪魔者と見做されたままどちらの派閥からも見放されている状態なのだ。


本来高位貴族の令嬢の家庭教師が、同じく高位貴族の婦人達から選ばれるのはその夫人の家がその令嬢の後ろ盾であると示す意味合いもある。それは今後社交界での立ち位置を確固たるものとする重要なものであるにも関わらず、国外の令嬢を家庭教師とするのはそれだけ社交界での立場が脆い事に他ならない。アンネリーゼは大人しいが聡明な少女だ。自分の、そしてレイト侯爵家の危うさに気がついているのだろう。

淑女教育で頼りとなる母親もおらず、後ろ盾もいない。そんな現状でも、アンネリーゼは将来このレイト侯爵家を背負わなければならない立場だ。それはどれだけの不安だろう。


「……アンネリーゼお嬢様、お茶会の経験は?」

「え?お茶会……ですか?……いいえ、誰も、招待状など送ってくれませんから」


突然の質問に驚いたように目を上げたアンネリーゼは、再び暗い表情で目を伏せてしまう。


「では、私がアンネリーゼお嬢様をはじめてお茶会にご招待する栄誉をいただいてもよろしいですか?」

「先生が?」

「はい。場所は侯爵家の私がお借りしている部屋になりますが、精一杯のおもてなしをさせていただきますわ。美味しいお茶とお菓子をご用意しますから、二人だけでたくさんお話をしましょう?」


リリティアの言葉に、暗かったアンネリーゼの頬に赤みがさす。


「よ、よろしいのですか?」

「もちろんです。家庭教師として、お茶会の経験も積んでいただがなければなりませんからね」


戯けたようなリリティアの言葉に、アンネリーゼは嬉しそうに何度も頷いたのだった。



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