潜入(2)
(ちゃんと、ウィルと話をしなくちゃ……)
なんとなく、ウィルはもう家にいるような気がしたリリティアは、家に帰って真っ直ぐに彼の部屋へ向かった。
ノックの後でそっと顔を覗かせれば、ウルティオは明かりもつけていない室内で静かに窓辺の椅子に座っていた。
月明かりがウルティオの横顔を冷たく照らしている。
「ウィル……」
「おかえり、リリィ」
何事もなかったかのようにいつもの笑顔で返されるも、リリティアにはそれが作られた笑顔である事が分かる。
「ウィル、レイト侯爵家の事、聞きました」
「そう……」
そっけないほどの反応に、リリティアは胸元でギュッと手を握りしめる。そして、次に発する言葉がどう受け止められるのか知りながらも、自分の考えを口に出した。
「ウィル、……私は、侯爵家の家庭教師を引き受けたいです」
リリティアの言葉に、ウルティオの顔から表情が抜け落ちる。温度の下がった部屋の中でリリティアが口を噤むと、ウルティオが静かに口を開いた。
「……リリィなら、そう言うと思ったよ。……でも、これ以上は聞きたくない」
がたりと席を立ったウルティオは会話を拒むように窓を向いてリリティアに背を向ける。拒絶を表すその背中に、リリティアは怖気付きそうな心を奮い立たせて声をかけた。
「ウィル、私が潜入して当主を診る事が出来れば、病の原因も特定出来るかもしれません」
現在王族派の力が著しく低下しているのは、冤罪でいくつもの家が没落しているのに加え、有力な家門の当主が表に出てこない事が原因だ。政を決める貴族院での発言権は家門の当主にしか許されていない。王族派の当主が出てこない現状、貴族院は貴族派の思うがままにされてしまっている。今までは貴族派の圧力に屈した為と思われていたが、もしもそれが病気や何らかの毒物の影響とするのならば……。
「もし、私が当主を回復させる事が出来れば、王族派の力を取り戻せるのではないですか?」
貴族派の力を削ぎ王族派の力を取り戻すことは組織にとって大きな追い風となる。もしも王族派の当主達を治療できる事が出来れば、それが実現できるかもしれない。しかし……。
「そんな危険なこと、許可できるはずないだろう!」
怒鳴りつけるような声に、リリティアはビクリと肩を震わせた。リリティアに向き直ったウルティオの真夜中色の瞳が、怖いくらいの鋭さでリリティアを貫く。
「リリィは、潜入の危険性を全然分かっていない。潜入がバレた工作員がどんな目にあうか分かっている?」
正面にやってきたウルティオは、痛いくらいの力でリリティアの腕を掴んだ。
「侯爵家にリリィの顔を知る貴族がやってきたらどうする?そいつがブランザ公爵に密告したら?」
無意識のうちに後ろに下がっていたリリティアの足に、ベッドの縁が当たる。あっと思った時には視界はくるりと天井を捉え、リリティアはウルティオによってベッドへ押し倒されていた。ウルティオがリリティアの上に乗り上げ、ベッドが二人分の重みにギシリと音をあげる。
「例え変装していったとしても、リリィは若い女性で、さらにはこんなに綺麗なんだよ。カスティオン侯爵令嬢だとバレなくとも、危険な目に会う可能性なんてたくさんあるんだ。男にこんな風に押し倒されたら、逃げる事も出来ないだろう?」
押さえつけられた腕は力を入れてもびくともしない。真上から見つめてくる瞳に暗い光がよぎり、リリティアは息をのんだ。
「言ったよね?リリィの望みをなんだって叶えてあげる代わりに、絶対にその身を大切にして欲しいって。その約束を違えるのなら、……俺は、君を閉じ込めてしまうかもしれない」
脅すような事を言いながらも、ウルティオの表情は苦しそうに歪んでいた。その表情に、リリティアの胸がズキリと締め付けられるように痛んだ。
リリティアの肩に、ウルティオが頭をうずめる。その重みがじわりと心に沁み込んでいく。
「お願いだから……。俺の為だと言うのなら、ここにいて」
心から搾り出されたような声に、リリティアは思わずウルティオの頭を抱きしめた。
腕の中のこの人への愛しさで胸がいっぱいになる。大好きで、何より大切な人。ウィルの為なら、私は何だってできるのだ。そんな人を苦しめていることが、辛かった。
ウルティオもまた、搔き抱くように強くリリティアを抱きしめた。
「こんな事をさせるために、リリィを助けた訳じゃない」
「……はい。分かっています」
ウィルがどれだけ私のことを大切に想ってくれているか、痛いほどに分かっている。
(それでも、私はウィルの隣に相応しくありたい。あなたと一緒に、戦いたいの……)
リリティアはウルティオの頬に両手で触れると、そっと頭を起こして目の前の冷たい唇に自身の唇を合わせた。
初めてのリリティアからの口付けに目を見開くウルティオに目を合わせ、リリティアは愛しさを込めて微笑んだ。
「ウィル、私は、自分の身を犠牲にしてもウィルの役に立ちたいとか、そんな思いだけで言っている訳ではないんです。ここで生活して、たくさんの人と関わって、私にも目指したい目標ができたんです」
「目標……?」
「はい。いつか、貴族派の罪を暴いて平和な世が戻ったなら、この国の医療制度を変えたいんです。貴族も平民も、十分な医療を受けられるようにしたい。お母さんのように辛い思いをする人を、一人でも減らしたいと思っているんです。
ーーその未来のために、私もウィル達と一緒に戦いたいんです」
真っ直ぐな眼差しで未来を見つめるリリティアの言葉にグッと唇を噛み締めたウルティオは、あがくように声を出す。
「それはリリィがしなければいけないことなのか?リリィが危険を冒す必要はない。それは俺が叶えてあげるから……」
「ウィル、今、国王様の病状も悪化していると聞きます。もしもこのまま国王様がお亡くなりになってしまった場合、後ろ盾の乏しいジョルジュ殿下に危険が及ぶ可能性もあります」
その前に貴族派の悪事を断罪できるよう、ウィルたちが寝る間を惜しんで証拠を集めているのを知っている。それらの証拠を握りつぶされないためにも、王族派の力は必要なのだ。
「ウィル、医術の心得もある私がレイト侯爵家へ行くのが一番早く、確実な方法です」
苦しそうに顔をゆがめたウルティオは、大きな手でリリティアの頬を包み込む。
「……怖くはないの?」
「はい」
誤魔化しを許さないような真夜中色の瞳に、リリティアは心からの言葉を紡ぐ。
「だって、何があっても、絶対にウィルが助けてくれるって、知っているから」
何の疑いもないような、心からの信頼の言葉。再び目を見開いたウルティオにリリティアは太陽のような笑顔を浮かべる。
「ウィルがいてくれるなら、私は何も怖いことなんてありません。そうでしょう?」
宝石のように煌めくラベンダー色の瞳を魅入られたように見つめていたウルティオが、ふいに表情を隠すように片手で顔を覆った。しばらくして掠れたような声が響く。
「……いつの間に、そんなに強くなったんだい?」
手が外され、再び現れた瞳にはいつもの穏やかな光が戻っていた。リリティアを守り、甘やかして、そしてその意思を大切にしてくれる瞳。
「ウィルのおかげです。何があったって、ウィルが信じてくれるから。いつでも、味方でいてくれたから。大切にして、くれたから。だから、少しずつ、自分に自信が持てるようになったんです。ちゃんと、自分の意志を言えるようになろうって、思えたんです」
「……そんな風に言われたら、もう、反対できないじゃないか……」
力なく下ろされたウルティオの握りしめられた手を、リリティアは両手でそっとすくい上げる。
「ずっと、ウィルたちを見てきました。怪盗さんの技術も、知識も、たくさんウィルから教えてもらっています。私はきっと、目的を達成してきます。だって私は、大怪盗ウルティオの恋人ですから」
胸を張ってそう言ったリリティアをウルティオは眩しそうに見つめ、その頬を優しく包む。
「本当に、いつの間にこんなに魅力的になっちゃったんだろう」
「……惚れ直してくれましたか?」
照れ隠しに言ったリリティアの言葉に、ウルティオがははっと笑う。その瞳には、強い光が戻っていた。ウルティオは身を屈めてリリティアの耳に口を寄せる。
「知らなかったの?俺は毎日、会う度にリリィに惚れ直してるよ。可愛すぎて誰かに盗られやしないかといつも心配してる」
耳に吹き込まれた言葉に、リリティアの頬が赤く染まる。ぱっと耳を押さえてウルティオを見上げた途端、食べられるという表現がぴったりな口づけを受けた。息をあげたリリティアを、熱い熱を込めた瞳が貫く。
「でも、リリィは俺のものだよ。だからこの髪の一筋だって、絶対に傷つくことなんて許さないから」
ウルティオの言葉に「はい」と微笑んだリリティアに、再び熱い口づけが重ねられるのはこのすぐ後の事だった。
***
一週間後、レイト侯爵家に一台の馬車が止まった。その馬車から、一人の女性がゆったりと降り立つ。
ガイル国でよく見られる濃い藍色の髪を靡かせ、背筋を伸ばして歩く姿はそれだけで高貴な生まれを感じさせる。
落ち着いた色ながらも上質な生地の使われているのが分かる上品なワンピースに身を包んだその女性は、出迎えた侯爵家の人間にお手本のような優雅なカーテシーを披露した。
「初めまして。ガイル国バリュセル侯爵家が娘、リナリア・バリュセルと申します。お嬢様の家庭教師として、これからどうぞよろしくお願いいたします」
王族にも通用しそうな美しい所作に見惚れる人々に、顔を上げた女性は眼鏡の奥のラベンダー色の瞳を煌めかせ、ニコリと笑みを浮かべた。




