潜入(1)
その後リリティアは何度か診察に行っているが、デイジーは順調に回復していた。笑い合うコナーとデイジーは本当に幸せそうで、リリティアはこの光景が守れたことが嬉しかった。まだ療養は必要でありベッドの上の生活を続けてはいるが、診察に行くたびにお茶に誘われ一緒に木苺のケーキを食べながら話をする。笑顔を見せてくれるようになったデイジーは予想通りとても可愛く、同い年ながらも妹が出来たようだった。
そんな二人の様子を、時折コナーが穏やかな表情で眺めている。
コナーはその後きっぱりと女遊びは止め、定時で家に帰るために見違えるような真面目な態度で仕事にあたっていた。
「リリィ嬢、事務所の仕事は負担になってはいませんか?診療所での仕事もあるのですから、お辛いようならおっしゃってください」
リリティアに恩を感じているためか、コナーはまるでウルティオに仕えるのと同じようにリリティアへ接してくれるようになった。今までと同じ態度でと言っても、「けじめですから」と言って譲らない。まるで忠誠を誓った騎士のようだと笑ったのはガスパルだ。
リリティアを気遣うコナーの言葉に、リリティアは笑顔で首を振る。
「いいえ、負担だなんて思っていません。私は、ここで皆さんのお役に立てるのが嬉しいんです」
リリティアはそう言って、ここでの仕事を振り返る。今では、組織の多くの人たちとも関わる様になり、治療や教師役を行っていることもあり皆が仲間として接してくれる。自分が認めてもらえたようで嬉しくて、そんな彼らの為にできる事があるのが誇らしかった。
そんな日々を過ごしていたある日、事務所への入り口前でリリティアは聞き覚えのある声に呼びかけられて振り返る。そこには、嬉しそうにリリティアに駆け寄る女性がいた。
「お久しぶりです、リリィ様。私です、ミアです」
「ミアさん!髪色もお化粧も全然違ったので、すぐには気づかなかったです」
ミアはリリティアが初めて礼儀作法を教えた生徒だ。現在はレイト侯爵家とも繋がりのある元王族派の家門へ侍女として潜入している。
「はい、現在潜入中のため、簡単な変装をしております。今日は潜入中に得た情報の報告に参ったのです。リリィ様のお陰で、侍女として問題なくお勤めを果たすことが出来ました」
「それを聞いて安心しました。何より、ミアさんが無事で嬉しいです」
「リリィ様……!」
リリティアの言葉に、ミアは目を潤ませる。しかしハッと思い出したかのように眉を下げ、不安げな様子で切り出した。
「ところで、リリィ様がレイト侯爵家へ潜入されるというのは本当なのですか?このような事、私のような下っ端が口を出せる事ではないと分かってはいるのですが……私、心配で……」
レイト侯爵家は、12年前のルーベンス公爵の冤罪を調べるため、原因不明で臥せっているという当主の現状を探っている家だ。しかし組織の事務処理を手掛けており活動内容の多くを把握しているリリティアも全く聞いていない話に首を傾げる。
「え……?レイト侯爵家……ですか?」
「はい、レイト侯爵家が孫娘の家庭教師を探しているとの情報を得て組織へ報告しましたところ、そこへ潜り込む手はずを整えると聞いたのですが……」
声がしりすぼみになっていったミアは、驚いた様子のリリティアを見て次第に顔を青くさせた。そして真っ青な顔で首を振りながら自分の発言を否定しだした。
「お、お聞きになっていないのですか⁈も、申し訳ございません!私の勘違いだと思います!お忘れになって下さい!」
焦るミアの様子に、リリティアは何かに気づいたかのようにすっと表情を戻すとお礼を述べる。
「……いいえ。ミアさんに今お話を伺えて良かったです」
そう言うと、リリティアはミアの静止も聞かずに真っすぐに事務所へと向かった。ノックして部屋に入ると、中ではウルティオとコナーが書類に目を通しているところだった。
リリティアが入ってきたことに気がつきウルティオは笑顔を浮かべたが、彼女の硬い表情を見てすぐさま側に駆け寄った。
「リリィ、何かあったのか?」
「……ウィル、聞きたいことがあるんです」
心配そうに覗き込む真夜中色の瞳を、リリティアは真剣な表情で見つめる。
「……レイト侯爵家へ家庭教師を潜入させる計画があったというのは、本当ですか?」
リリティアの言葉に、ウルティオは一瞬瞳を険しくさせた後で何事もなかったかのように笑みを作った。
「……そんな話はないよ」
「ウィル!」
明らかに嘘をついている事が分かりリリティアはウルティオに呼びかけるけれど、彼はもう話は無いとばかりに背を向ける。いつも真っ直ぐにリリティアを見つめて真摯に話を聞いてくれるウルティオの初めてリリティアを拒絶するような態度に、リリティアは胸の痛みを覚えた。
「リリィ、その件に関して、話すことはないよ。俺は別件で用事があるから少し出てくるね」
そう言って目も合わすことなく出ていってしまったウルティオを、リリティアは引き止めることが出来ずにその場に立ち尽くす事しかできなかった。
「も、申し訳ありません!私が余計な事を言ったばかりに……」
部屋の隅で息を殺していたミアが、真っ青な顔で頭を下げた。リリティアは大丈夫だと頭を振ると、奥の机でこちらも顔色をなくしているコナーに顔を向ける。
「コナーさん。レイト侯爵家へ家庭教師として潜入する伝手が手に入ったのですね?」
「……」
レイト侯爵家の思惑と当主の現状を探ることは、現状組織内でも優先順位の高い内容だ。そこへ潜入するカードを手に入れられたのなら、ためらうことなく実行すべきものだった。
苦しそうな表情で押し黙るコナーに、リリティアは懇願するように問いかけた。
「コナーさん、お願いします。教えてください」
「……申し訳ございません。以前の私が、勝手に計画していただけの話なのです。当然、ボスは却下されてその話はなくなっています」
以前の、とは、リリティアがデイジーの治療を行う前の、という事だろう。ウルティオもそうだが、コナーも冷酷なまでに効率重視の人間だ。リリティアの潜入をウルティオが反対するのは分かっていても、レイト侯爵家を探るのに非常に有効なこのカードを惜しみ、準備だけは進めていたのだろう。
(今のコナーさんは、きっと私の潜入工作を進めようとはしないから)
ウルティオはもちろんのこと、マチルダもガスパルも過保護なくらいにリリティアの安全を考えてくれている。コナーも今では同じようにリリティアの安全を最重要視してくれているのは分かっている。でも……。
「当時コナーさんは、私が適任だと考えられたのですよね?」
リリティアの問いかけに、コナーはグッと唇を噛み締めた後で諦めたように口を割った。
「……はい。ご令嬢の、特に高位貴族の家庭教師となれば、礼儀作法のみならず様々な分野への深い知識に加え刺繍、詩歌、楽器の技量まで求められます。そのような人材は、リリィ嬢しか考えられませんでした。貴族出身のマチルダでも、子爵家出身では高位貴族の家庭教師としては全く教養が足りない。高位貴族のご令嬢のデビュタントに備えた家庭教師は、本来同じく高位貴族の者が引き受けるものなのですから。
現在レイト家は当主の原因不明の病気に加え、貴族派、王族派両方から倦厭されており孫娘のデビュタント前でありながら家庭教師を引き受けてくれる高位貴族の夫人がいない状況なのです。そこで、ガイル国の貴族と偽装して潜入する事が出来るように工作を行いました」
後悔を滲ませた様子のコナーは、しかし、とリリティアを見つめ口を開く。
「ボスは当然リリィ嬢に潜入などさせられないと聞くまでもなく却下されましたし、俺も今は同じ気持ちです。貴女に危険な真似などさせられません!」
「コナーさん……」
コナーの様子から、心から心配してくれているのが分かる。リリティアがたまたまミアから話を聞かなければ、きっとウルティオとコナーの間でこの話は初めからなかったこととしてリリティアの耳に入ることもなく処理されていたのだろう。
リリティアはぎゅっと両手を握りしめた。




