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妹(2)


その後、数日おきにリリティアはデイジーの往診に行くようになった。その間、コナーが家にいることは一度もなかった。仕事が忙しいせいかと思ったけれど、使用人の話によると家にいる時間は以前から非常に少なく、使用人にデイジーの様子だけ報告を受けるとすぐに出て行ってしまう日も多いとのことだった。


(コナーさんは、いつもどんな思いでこの家に帰っていたのだろう……)


家でいくつもの心の病に関する文献に目を通しながら、リリティアはコナーの様子を思い出していた。


(……きっと、コナーさんは貴族派の貴族だった私の事も、ずっと嫌いだったんだろう。おどけた笑みに隠して悟られないようにしていたけれど、ずっと隔たりは感じていた。彼は、誰より貴族を憎んでいる……。でも、それも当然だ。家族をこんな目にあわされたのだから……)


リリティアが沈んだ瞳で医学書を見つめていると、コンコンと部屋の扉がノックされた。


「は、はい」


本を閉じ振り返れば、カップを片手に持ったウルティオが顔を覗かせていた。


「お疲れ様、リリィ。良かったら飲むかい?」


暖かな湯気が出るカップを両手で受け取ると、優しいミルクと蜂蜜の香りがする。リリティアはホッと瞳を緩めた。


「ありがとうございます」

「うん。今日は、紅茶よりこっちの方が良いかと思ってね」


そう言って優しい笑みを浮かべるウルティオに見守られる中こくりとホットミルクに口をつけると、知らずに強張っていた体が温まっていくのを感じた。


「今日も、コナーの妹の診察に行ったんだね」

「……はい」


静かな問いかけに、リリティアもゆっくりと頷く。


「……私、他人事とは思えなかったんです……。ウィルに助けられなかったら、私もきっと、公爵家で心を壊していた……」


勝手に自分と重ねるなんて失礼な事だと分かっていたけれど、それでもデイジーの無機質な瞳を見ると過去の自分を思い出す。カスティオン侯爵家で、そしてブランザ公爵家で、心を殺して殺して、殺しながら生きてきた。じゃなければ、耐えられなかったから。たった一人侯爵邸の中で心が死んでいく様が、容易に想像できてしまう。きっとデイジーは、それ以上に辛い思いをしてきたはずだ。だから少しでも、力になりたいと思った。


「古い文献で、光魔法によって精神疾患が改善されたとの記述を見つけたんです。全く科学的根拠のない御伽話のようなものなんですが、少しでも可能性があるならと……」


ブレダとも相談し、往診の度に様子を見ながら少しずつ光魔法による治癒をかけているが今のところ何の変化もない状態だ。


「……でも、コナーさんには、迷惑な話ですよね。光魔法で回復する保証なんてないですし、きっと私がデイジーさんに会うのも嫌だったのだと思います」


ギュッと両手で抱え込んだカップに視線を落としながら沈んだ声を漏らすリリティアの前に、ゆっくりとウルティオが膝をつく。


「リリィ。リリィが誰かを助けたいと思う気持ちは、何も間違ってなんかいないよ」


まっすぐな声に顔を上げれば、リリティアを見つめる真夜中色の優しい眼差しと視線が交わる。


「リリィは貴族派の連中とは全く違う。そんな事、コナーだってわかってる。ただ、あいつはもう期待することに疲れてしまったんだよ」

「期待……?」

「何年も、コナーは妹の治療の為に奔走してきたけど、改善させる事はできなかった。そのうち、家に帰る事も辛くなり、色々な女性と付き合っては相手の家に入り浸って……。まったく、馬鹿な奴だよ。ま、全員貴族派に関連ある女性たちで情報収集してくるのがあいつらしいけど」


苦笑を浮かべながらも、ウルティオの瞳はとても静かで、まるで自分自身を見つめているようだった。


「それでも……。あいつの気持ちも、よく分かるんだよ。もう、貴族派への憎しみを糧にしてしか進んでいけない気持ちも、大切だからこそ向き合えなくなってしまう気持ちも。……俺も、きっとリリィと出会えなければそうなっていたと思うから」

「ウィル……」


リリティアの手にあったカップをことりと机に置くと、ウルティオは大きな手でリリティアの手を包み込む。


「リリィは、俺がリリィの光だと言ってくれたけれど……俺にとってもそうだよ。リリィは、俺にとって何より大切な光だ。失ったら、きっともう立ち上がれない。……そしてコナーにとって、それは妹なんだ」


リリティアの小さな手を宝物のように包み込みながら、ウルティオは真摯な瞳を向ける。


「何度もリリィに傷を癒してもらった俺だから思うんだ。リリィの光魔法にはさ、人を、そして心を癒す力がある。無責任な事を言っているのは分かってるけど、リリィの光魔法で、何かが変わるんじゃないかと思えてしまうんだ。

――だからリリィ、あいつの光を、救ってくれるかい?」


ウルティオの言葉に、リリティアは目を見開いた。

自分のしている事は、コナーを無駄に期待させ苦しめるだけなのではないか――。そんな風に思い沈んでいた気持ちが、吹き飛ばされる。ウィルが頼ってくれた。それだけで、何でもできそうな気がした。


(やれるだけの事をやってみよう。デイジーさんを、そしてコナーさんを救いたい。その気持ちは間違ってなんかないって、ウィルが信じてくれているのだから)


リリティアはラベンダー色の瞳を煌めかせ、強く頷く。


「はい!私の、出来る限りの力を尽くします」


やる気を漲らせるリリティアを愛おしげに見つめるウルティオは、「でも、無理しないっていう約束は守ってもらうよ。ちゃんと睡眠は取らないと」と言ってひょいとリリティアを抱き上げてベッドに寝せてしまった。


「ウィル、でも、あの、あと少しだけ文献を……」


あわあわとリリティアが見上げると、ウルティオはベッドに浅く腰掛けてニコリと笑うと人差し指で優しくリリティアの額を抑えて動きを封じてしまう。


「だーめ。頑張ってくれるのは嬉しいけど、何よりリリィの体が大切なんだから」


そう言うと指が離れ、そっと前髪を払われる。そこに優しい口付けが落とされた。


「リリィ。俺の光を、何よりも大切にしてくれる?」


さらりと揺れる黒髪がリリティアの前髪をくすぐる。いつだってリリティアを何より大切にしてくれる真夜中色の瞳に見つめられれば、リリティアはもう頷くことしか出来ないのだ。


「は、はい……」

「ありがとう」


愛おしげに細められた瞳が、再び近づく。リリティアはそっと目を閉じると、優しい口付けを受け入れた。



***



「こんにちは、デイジーさん」


数日後、リリティアは市場でたまたま見つけた黄色いデイジーの花を持ってコナーの家を訪れていた。

花を枕元の花瓶に生けてから診察を済ませると、ぼんやりと虚空を見つめてベッドに寝ているデイジーの手をそっと握る。


「今日は、市場で素敵なデイジーの花を見つけたので持ってきてみたんです。ピンクや白いお花も綺麗でしたが、きっとデイジーさんは黄色のお花を喜んでくれると思ったので」


語りかけるように話しながら、そっと光の魔力を流していく。少しでも、デイジーの心が晴れるようにと願いながら。

緩やかにカーテンが靡く窓辺のベッドで、まるで陽だまりに抱かれているように優しい光が二人を包む。



「……今日も、来ていたんですね」

「!コナーさん」


いつの間にドアが開いたのか、リリティアが顔を上げると開いたドアに寄りかかる様にしてコナーが腕を組んでこちらを見ていた。

あの日以来、事務所で顔を合わせてもおちゃらけた笑顔を浮かべてまるで何事もなかったかのように接してきたけれど、今のコナーは猫を脱ぎ捨てたかのように表情も抜け落ち、口元に皮肉気な笑みだけ貼り付けている。


そっとデイジーの手を布団に戻して治療を終えると、リリティアはコナーに向き直り背筋を伸ばし、静かな声で尋ねた。


「私がデイジーさんを診るのは、反対ですか?」

「……別に。ただ、こんなに頻繁にいらっしゃる必要はないんです。発作の時だけ対応してくれればいいんですよ」

「しかし、ある文献で話しかけることで段々と反応が返ってきたとの例もあります。だから……」

「試していないとでも、思いました?」


荒々しさを内包するような冷たい声が、リリティアの声を遮る。


「何年も、回復させようと必死で話しかけてきましたよ。でも、結果は何も変わらなかった。分かります?毎日毎日反応の無い相手に話しかける虚しさが。もう、余計な希望を与えるのはやめてくれませんか?あなたを見ていると、イライラするんですよ」


グシャリと自らの前髪を握りしめ、コナーは俯きながら声を荒げる。


「俺はね、貴族派の貴族たちがどうしようもなく憎い。貴女は妹と同じ年、同じような境遇で。なのに、貴族として生きてきた貴女は助けられて、妹は助けられなかった」


吐き捨てられる台詞には、コナーのどこにも吐き出せない悲しみや怒りが込められているようだった。


「比べることに何の意味もない事は分かっていても、貴女を見ていると考えてしまうんですよ。なんで、妹はこんな状態なのに、貴女は笑ってるんだろうってね」


荒げた言葉を吐き出したコナーは、力無くずるりと壁に寄りかかる。


「……もう、俺にできるのは貴族派への復讐だけなんです。それだけを胸にやってきた。デイジーを見ることも辛くなってしまった俺には、それしかないんです。家に帰るのも嫌で、遊びで女性の元へ居座ってはヘラヘラ笑っている。酷い兄でしょう?軽蔑しました?」


まるで妹の代わりに罵って欲しいとでもいう態度のコナーに、リリティアは静かな声で告げた。


「分かりますよ。私も、私を見ない母にずっと話しかけ続けてきましたから」

「あ……」


リリティアが母を病気で失っている事を思い出したのか、コナーは咄嗟に口をつぐむ。そんなコナーに、リリティアは小さく口を開いた。


「……コナーさん、デイジーさんの好きなものは、なんですか?」


「は……?」


リリティアの問いに、不意をつかれたコナーは呆けたような顔を向けた。


「黄色いデイジーの花に、白いレース、それに、赤い木苺……ですか?」

「なんで……」

「すぐに分かります。だって、この部屋にはそれが溢れているから」


淡い黄色の壁紙には可愛らしいデイジーの花が咲きほこり、カーテンやテーブルのクロスなどには溢れるほどのレースが使われている。お茶菓子には、いつも木苺のお菓子が用意されていた。これらは、すべてコナーが買ってきているものだと聞いた。


「コナーさんが守るこの場所は、とても暖かいと思います」

「っ……」


グッと息を呑んだコナーは、唇を噛みしめ俯いた。


「それが、どうしたって言うんです……?こんな事しても無駄なのに」

「無駄なんかじゃ、ありません」


リリティアは胸元のお守りをギュッと握りしめる。


「小さなお守りが、ずっと私を生かしてくれていたように……誰かが自分の事を思ってくれているというその想いは、何よりも心を支えてくれます」

「そんなこと……」


その時、小さなうめき声が聞こえて二人はパッとベッドの上のデイジーに顔を向けた。


「いやっ、うあ、ぁ……」

「発作がっ!」


髪を掻きむしり、さらには喉や頬を掻きむしろうとするデイジーの手をリリティアは庇うように押さえる。しかし、リリティアの力だけでは振りほどかれそうだった。デイジーの爪が当たり、リリティアの頬に薄い傷がつく。その赤に、やっとハッとしたようにコナーが使用人を呼ぼうと立ち上がった。

以前の様子からも、きっとコナーはデイジーに触れる事を恐れている。まるで、自分にはもう触れる資格などないとでもいうように。向き合うことを恐れるように。

リリティアにも気持ちが分かった。お母さんが苦しんでいる時、何も出来ない自分が苦しくて仕方なかった。もしも、お母さんが死んでしまったら……そんな想像に向き合うのが恐ろしくて仕方なかった。でも……。


「コナーさん、一度だけ、私のお願いを聞いてはいただけませんか?」

「は?こんな時になにを……」

「デイジーさんの手を、握ってあげてほしいんです」

「俺はっ……」

「デイジーさんの家族は、コナーさんだけです。手を握ってあげられるのも、貴方だけなんです」


母親という唯一の家族を亡くしているリリティアの必死の頼みに、コナーは恐る恐るとデイジーの手に触れる。その温もりを久々に感じたのか、グッと唇を噛み締めてコナーは両手でその手を握りしめた。


「デイジー。情けない兄で、ごめん……」


縋るようにデイジーの右手を握りしめるコナーの反対側で、リリティアはデイジーの左手を握りしめる。コナーの瞳に微かに光が宿ったのを見て、安堵の息をついた。


(どんなに向き合うことに辛くなったとしても、それでもコナーさんはデイジーさんを愛してる。

コナーさんの為にも、私に出来る精一杯を……!だって、まだちゃんと生きている。二人は、これからずっと、一緒にいられるのだから……)


リリティアはギュッと手を握りしめ、自らの魔力を解放する。デイジーの中の闇を祓うように、強く強く願う。

パァッと部屋に溢れ3人を包む光に、コナーが目を見張った。


(やっぱり、ブレダ先生の言っていた通り。怪我の治療と違って、明確な治療方法が分からない治癒魔法は漠然と体の状態を元の状態へと回復させる為に大きな魔力が持っていかれてしまう。

でも、今は魔法が発動している。それは、効果があるということ……!)


リリティアは魔力の急激な枯渇にふらつく体に鞭を打ち、祈るように握りしめる手に力をこめる。

いつもは心の奥底に沈んでいるデイジーの意識が、発作の今は表層に現れているのがわかる。絶望、恐怖、そして拒絶。その痛みごと抱きしめるように、リリティアは光で包む。


(デイジーさん、もう、一人で怖がらなくていいんです。あなたを心から大切に思っているお兄さんが、側にいますよ)



リリティアが最後の力を振り絞って魔力を解放すると、ふいに強い光がデイジーに吸い込まれてすぅっと消えていった。


光の残滓がカーテンの隙間からもれる日差しにちかちかと瞬く中ーーーまるで幻のように、ガラス玉のようだった瞳に光が宿った。





「……おにい、ちゃん……?」




……まるで夢から醒めたような、無垢な声が聞こえた。


夢でも見ているのかと、信じられない表情で、コナーの瞳がじわじわと見開かれる。


「……デイジー……?」


震える声が漏れる。その声に、デイジーの光の宿った緑の瞳がコナーを映す。


「うん……た、だいま……、おに、ちゃ……」


真っ直ぐに向けられた瞳が、小さく綻ぶ。そこから奇跡のように、ポロリと涙のひと粒が転がり落ちた。


「っ!あ、あぁぁっ」


コナーの見開かれた瞳から、ぼたぼたと涙が溢れ出る。それを拭う余裕もないのだろう、頬を濡らしながら、コナーは妹を力いっぱい抱きしめた。


(良かった……)


リリティアもまた瞳を潤ませ兄妹の抱擁を見つめながら、ゆっくりと意識を手放したのだった。



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