薬師(1)
星が瞬く真夜中の時間帯。机の上の書類を険しい表情で捌いていたウルティオの部屋に、遠慮がちなノックの音が響く。
「ウィル、お茶を淹れたので、もし良かったら……」
お仕事の邪魔になってしまわないかと、おずおずと顔を出したリリティアに、ウルティオは直ぐに資料を置くと優しい笑顔を浮かべてリリティアを招き入れた。
「ありがとう。リリィもまだ起きていたんだね」
「はい、本を読んでいて……。もう寝るところだったんですが、ウィルの部屋の明かりがまだついていたから……。
これ、疲れがとれるハーブティーなんです」
リリティアから受け取ったハーブティーを一口飲んだウルティオは、幸せそうに目を細める。
「うん、凄く美味しい」
笑顔を浮かべるウルティオに、リリティアもまた心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「良かった。ウィル、いつも夕食の時間に帰って来てきてくれるけれど、無理をしてないか心配で……」
「無理なんてしてないよ。俺がリリィと少しでも一緒にいたくてしてることだから。それに、リリィが弁護士事務所の仕事を手伝ってくれてるお陰で別の事案に集中できて、すごく助かってるんだよ」
ウルティオの言葉に、リリティアは胸が温かくなる。少しでもウィルの役に立てているなら、それほど嬉しい事はないのだから。
ふと、ウルティオの手元の資料の文字がリリティアの目に入る。
「これ、貴族派の……」
「うん、リリィが調べてくれた資料にあった貴族派の家だよ。今はその証拠を押さえるために各家に潜入を開始してる」
資料の中には、当然のように侯爵家以上の貴族家が存在する。以前カスティオン侯爵家で怪我を負ったウルティオを思い出し、リリティアはウルティオの服の端をきゅっと掴んだ。
「ウィル、……どうか、気をつけて……」
不安を押し殺すように俯きながらかけられた小さな声に、ウルティオはその手を引き寄せて小さな体を包み込むように抱きしめた。
「大丈夫だよ。今はただの商人や使用人として潜入しているだけだから、危険はない。それにもし危険がある時は、ちゃんとリリィに伝えるって約束する。
ちゃんとリリィの元に帰ってくるから、その時はカミラと一緒に待っていて」
「はい」
真摯なウルティオの言葉に、リリティアもこれ以上心配をかけないようにと前を向く。
(私は、私に出来ることをしよう)
腕の中からウルティオを見上げ、リリティアは笑顔を浮かべた。
「ウィル、他にもお手伝いできる事があったら言って下さいね。私にできる事なら、なんでもしますから」
その言葉に、ウルティオは束の間顔を手で覆った後、リリティアの頬を大きな手で包む。
「……リリィ、なんでもするなんて、簡単に言っちゃ駄目だよ。悪い男につけ込まれちゃうからね」
「え?」
いつの間にか壁とウルティオに挟まれて逃げ場を失ってしまっていたリリティアは、恐る恐るウルティオを仰ぎ見る。すると熱い真夜中色の瞳にとらわれて、途端に頬が熱を帯びた。
近づいてくる瞳にとっさに目を瞑れば、唇に優しい感触が落とされる。啄むような口付けの後でそっと瞳を上げると、愛おしむような瞳で見つめられていた。
「うん、ご馳走様。凄く元気が出た」
どこまでも甘く優しい笑顔で言われた台詞に、リリティアは顔を真っ赤にさせるのだった。
***
「お嬢さん、これ、おまけだよ。ぜひ持って行っとくれ」
「あ、ありがとうございます。でも、こんなに……」
「いいんだよ、うちらはヴィート様にほんとに感謝してるんだ。その大事な人だってんだから、是非サービスしたいんだよ」
市場で買い物をするリリティアの腕は、すでに他のお店でもおまけしてもらった品々でいっぱいだった。
ヴィートがリリティアの後見だと公言したした日以来、リリティアが買い物をすれば色々なお店があれやこれやとサービスをしてくれるのだが、あまりにも色々とくれるためにリリティアは申し訳なくなるほどだった。
「リリィ様、遠慮することはありません。ヴィート様がいなければこの町はとっくの昔に潰れていたのですから。ヴィート様に店の物を食べてもらえることは、この町の者にとっては光栄な事なのですよ」
カミラはリリティアの腕の荷物を引き受けながら、当然のようにそう言った。
「そうですよぉ。是非ヴィート様にもうちの自慢の魚を食べてもらって下さいな」
「は、はい。美味しく食べてもらえるように、お料理頑張ります。こんなにいただいて、本当にありがとうございます」
穏やかな笑顔で丁寧にお礼を言うリリティアに、市場の店主たちはほんわかとした笑顔を浮かべる。
「……ヴィート様の恩師の娘さんってことは、王都の大店のお嬢様とかなんだろうねぇ。やっぱり気品が違うよねぇ」
「それなのに私らみたいな物売りにも丁寧な言葉遣いで、本当に良いお嬢さんだよ。ヴィート様が大切にしていらっしゃる方だけあるねぇ」
リリティアの後ろ姿を見ながらそんな会話がなされていることに気づくことなく、リリティアはカミラと共に今日の献立について話し合っていた。
季節は春も半ばへと移り変わり、暖かな日差しに花々が咲き誇って街中に鮮やかな色彩を添えている。
海辺のこの町では春の漁が解禁され、その取引に多くの小舟が水路を行き交う。
リリティアはウルティオから贈られた春らしい淡い色のワンピースを纏い、カミラと共に家への帰り道を歩いていた。
しかし市場の開かれている広場から少し離れた所で、すぐ後方から大きな音が響いてきてリリティアは驚き振り返る。
そこは船の積み荷を一時的に置いておく場所で、ちょうど今の時期は多くの荷物が積み上げられている。その固定用のロープが切れてしまったのか、一部の荷が道に崩れ落ちてしまっていた。
「リリィ様、こちらへ。他の荷も崩れてくるかもしれません」
カミラに促されて道の端に寄ろうとしたリリティアの目に、荷物の下からはみ出す小さな手が見えた。
「カミラ!子供が下敷きになっているかもしれません!」
焦るリリティアの声に反応し、カミラが素早くその荷を退けると男の子が額から血を流して倒れていた。
集まってきていた人々もザワリと息をのむ。
「おい、大丈夫か」
子供の意識を確かめるためか、肩を揺さぶろうとした男性を見てリリティアは咄嗟に声を上げる。
「待ってください!頭を打っている時、揺さぶってはいけません!」
リリティアは子供にかけ寄り膝をつくと、頭部を動かさないように傷を確認する。
(どうしよう、私の光魔法で表面の傷だけなら治せるかもしれないけれど、気を失っているという事は脳損傷の可能性もある。その場合、下手に光魔法を使うとその後の治療に悪影響を及ぼすかもしれない)
ウィルが怪我をした時に役に立てたならといくつもの医学書を読み込んできたけれど、だからこそ下手に動かす事も出来ずリリティアは悔しさに手を握りしめた。
(こんなにも、何も出来ないなんて……)
「カミラ、治療のできる方を連れてきてもらう事は出来ますか?」
すぐにでも頭部の診察をしてもらわなければとリリティアはカミラに呼びかける。
「リリィ様をお一人にする訳にはまいりません。少々お待ちを」
カミラはクルリと雑踏の中を見回すと、ある一人の行商風の男性と目を合わせて小さく頷く。その男が背を向けてどこかに去るのを確認したカミラは、子供の横で座り込むリリティアに小さく報告する。
「今使いを出しましたので、すぐやって来るはずです。心配ございませんよ」
カミラの言葉に、リリティアはホッと息をはく。医師か薬師の方がやって来るまでにできる事をと、周りを見まわし声を上げた。
「あの、お医者様に見てもらった後でこの子を移動できるよう、大きな板のような物はありますか?」
リリティアの言葉に、顔見知りの店主が「うちの余っている商品棚の板を持ってくるよ」と走って行った。リリティアは他に外傷がない事を確認し、男の子に声をかけながら早く医師が到着するのを祈りながら待った。
どれくらいの時間が過ぎたのか。雑踏の道が割れ、白衣を着た男性がやって来る。白髪まじりのグレーの髪を緩く背中でくくる、がっしりとした体躯の壮年の男性だ。
(この人、以前熱の時に診てもらった薬師の――)
見覚えのある薬師にリリティアが目を見開いていると、薬師の男性はさっさと男の子の横に膝をつき、状態を確認した。
「おい、誰かこの子を動かしたか?」
「いいえ、頭部損傷の恐れがあるため、動かしていません。外傷は頭部以外ありませんが、呼びかけに応答がありません」
薬師の問いにリリティアが答えると、薬師は一瞬目を見開いてリリティアを見た後、直ぐに診察を続けた。
「よし、後はうちで治療を続ける。頭を動かさんように注意して連れて行くしかないな……」
「今用意して下さっています」
リリティアの返答と同時に、店主がちょうど子供が乗れる大きさの板を手に戻ってきた。感謝を告げたリリティアは、皆で素早く子供を乗せると薬師の家へと連れていった。
町の中心からやや離れた場所に位置する薬師の家は入り口はこぢんまりとしており薄汚れた印象を受けるが、中は奥行きのある造りで患者用のベッドが4つ置かれており、たくさんの薬棚が壁を覆い尽くしている。そのせいか雑多な印象を受けるが、ベッドのシーツは清潔な物だった。
入り口に一番近いベッドに寝かされた男の子に、薬師はテキパキと処置を施していく。手伝いを申し出たリリティアはカミラと共にお湯を沸かしたり清潔な布の準備をしながらも、その処置の手早さに目を奪われていた。
(すごい。まるで、医師みたい……)
この国では国の認めた治療院以外での治療行為は禁止されている。しかしもちろん治療院は莫大な治療費がかかり、貴族と富豪の商人などしか利用できない。平民は薬の処方だけは見逃されている薬師に頼るしかないのだか、薬師には国の認定などないため詐欺師のような薬師もおり、胡散臭い職業とみなされがちなのだ。
(治療行為がいけない事は分かってる。でも……)
リリティアは自分の光魔法が簡単な外傷しか治す事ができない事はよく分かっていた。ブランザ公爵によって、目の前で平民の使用人をナイフで傷つけられて治してみせろと無理やり能力の検証をさせられたことがあるからだ。
ウィルが怪我をした時治してあげられるようになりたいと願っても、国に管理されている医師に師事する事は今の立場を考えれば不可能だ。だからこそ、せめて理論だけでもと医学書を読み漁ってきたのだ。
(でも、この人は医学の知識を持っている。ううん、もしかすると、治療院の医師以上に……)
母のお見舞いで何度も治療院に出入りしていたリリティアは、医師によって技術に大きな差がある事を理解していた。この薬師は、その中でもベテランと言われる人たちのような雰囲気があった。
リリティアは手伝いの手を止めることなく、その技術を目に焼き付けていた。
***
「あんた達、今日は助かった。礼を言う」
子供の意識も回復し、念の為一晩ここで様子を見てから家に帰れることになってから、ブレダと名乗った薬師は疲れたようにどかりと古びたソファに座りながらリリティアとカミラに礼を言った。
「いいえ、男の子が回復して良かったです。頭部の怪我でしたので、どうなるか怖かったので……」
リリティアの言葉に、ブレダはリリティアに向き直る。
「嬢ちゃん、あんた、医学の知識が?」
「いえ、私は本の知識しかありません。実際にはブレダ先生がいらっしゃるまで何も出来ませんでした……」
「いや、頭部を動かしてたら下手すりゃ危なかったかもしれん。嬢ちゃんの対応は正解だったよ。
さ、ここからはもう大丈夫だからあんた達は家に帰りな。遅くなっちまうからな」
ブレダの言葉に、リリティアは胸の前で手を握る。そしてそっと息を吐いてから、決意を込めた表情で顔を上げた。
「あの、ブレダ先生!」
リリティアの声に、もう帰ると思っていたのだろうブレダは訝しげに振り返り、リリティアの後ろで控えていたカミラも首を傾げた。
しかし次に放たれたリリティアの言葉に、二人は大きく目を見開く事になった。
「私に、医学を教えていただけませんか?」




