ヴィート
「コナーさん、処理済みの書類こちらに置いておきますね」
リリティアは頼まれていた分の書類をコナーの机に置いた後、おずおずと別の資料を取り出した。
「あと、こちらはマーク中の伯爵家の専属商会の先日の債権回収関連の資料です。契約時の書類に不透明な部分があり、回収には裏の人員を動かしている可能性があって……。間違っているかもしれませんが、確認をお願いします」
「……もしかして、裏でマーク中の貴族家と関連している商会とか、全て把握してます?」
「あ、はい。ウィルが教えてくれた貴族家の周辺情報は、ここにある資料分だけならすべて記憶してます」
「……ほんっっとにお二人揃って優秀ですね……。助かります。後で探りを入れときましょう」
きょとんと何でもない事のように返答するリリティアに、コナーはなぜか疲れたような表情でしみじみとため息をつき、ちょうど書き終わったのであろう書類をまとめるとグッと伸びをした。
「いやー、それにしてもリリィ嬢のお陰でこの部屋もやっと綺麗になりました」
コナーの言葉に部屋の中を振り返れば、初日と比べてだいぶすっきりとした部屋の中が見渡せた。
法律事務所の臨時職員として働き始めて三週間、リリティアは仕事にもだいぶ慣れることができていた。組織の方とも何度か会ったことはあるが、皆丁寧にリリティアに挨拶をしてくれる。今では表の仕事の多くをリリティアが回し、対人交渉と裏の取りまとめをコナーがこなす体制が整いスムーズに仕事が回っている。
今までそのほとんどをコナーがこなしていたと聞いた時は驚いたけれど、ボスはこの倍以上の仕事を抱えてますよとコナーは呆れたように肩をすくめていた。
「リリィ様、少し休憩されてはどうですか?」
声と共に、紅茶の載ったトレイを持ったカミラが扉から顔を出す。
ウルティオが別件で来ない日は、いつもカミラが護衛として共に来てくれていた。念のため外でリリティアの名を呼ぶのは避けた方が良いと、カミラもリリィと名を呼んでくれるようになった。
「お、ちょうど一休みしたいと思ってたんだよ」
「私はリリィ様にお淹れしたんです!」
さっそく茶菓子に手をだそうとするコナーに、カミラはぴしゃりと言い切る。
「いつもありがとう、カミラ」
「とんでもありません!むしろもっとリリィ様のお手伝いが出来ればよかったのですが……」
「あはは、カミラは書類仕事ダメダメだからね~。ここじゃ役に立たないよね~」
コナーの言葉に、カミラは悔しそうにギッとコナーを睨みつける。しかしコナーはどこ吹く風だ。
「さて。リリィ嬢のお陰で書類も片付きそうだし、今日は午前中で店じまいしましょう。午後は大切な仕事があるんでね」
「大切な仕事ですか……?」
リリティアが首を傾げれば、コナーはふぁさぁっと自身の金髪を片手でかき上げる。
「今日はミラー商会のルル嬢とデートがあるんですよ」
いや~、先週町で出会った時言い寄られちゃって~とぺらぺらとしゃべりだすコナーにカミラは冷たい視線を向ける。
「先月は別のご令嬢とお付き合いしていらっしゃいましたよね」
「あっはっは、いつの話かなカミラ。僕は綺麗な花々に惹かれる蝶と一緒さ。美しい花を愛でるのは僕の使命なんだよ。いや~、リリィ嬢もボスがいなければ真っ先にデートに誘うんですけど」
「リリィ様への無礼な発言は許しませんよ!誰が貴方みたいな女ったらしとリリィ様を二人っきりにさせるものですか!」
「おっと怖い怖い」
ケラケラ笑うコナーは、よくこのような発言をしてはカミラに威嚇されている。
(本気で言っていない事は分かるけれど……)
いつも軽い言動で誤魔化されそうだけれど、コナーはとても優秀だ。表の仕事と共に、裏の情報系統を取りまとめている。そんな多忙の中で女性との時間をひねり出していることこそが凄いことだと思う。
(でも、以前町で見たコナーさんが女性と歩いていたときの瞳は――)
なんとなくだが、リリティアにはコナーのその女好きの言動は作られた仮面のような印象を受けたのだった。
***
「リリィ様、帰りは市場に寄って行かれますか?」
「はい」
家への帰り道、リリティアはカミラとともに町の中央で開かれている市場にやってきた。市場はとても活気があり、隣国から輸入されてきた珍しい食材が並ぶことも多く、見ているだけでも楽しかった。リリティアは仕事終わりにこの市場に寄って夕食の材料を買うのが日課になっていた。
「お、別嬪のお嬢さん、今日も来たんだね。仕事帰りかい?今日は新鮮な魚が入ってるよ」
「ありがとうございます、見せていただいても良いですか?」
いつも立ち寄る店の店主とも顔見知りになり世間話もできるようになっている。
(さっきパン屋のおばさんがサービスしてくれた焼きたての胡桃パン、ウィルも好きかな?もし好きそうだったら、今度家でも焼いてみよう)
リリティアは先ほど買ったパンの袋を抱きしめ、笑顔を浮かべてカミラと市場を回っていく。そんなリリティアの横顔を見て、何人かの男性が頬を染めて振り返っているのだが、リリティアは気づくことはなかった。
しかしリリティアとカミラが買い物を終え市場を出ようとした時、数人の男たちが二人の前に立ち塞がった。
「やあ、お嬢さん。この後時間あるかい?是非一緒にお茶をしたいと思ってね」
リリティアに近づき自信満々に声を上げたのは、ジャラジャラと高価そうな宝石をつけた赤髪の男だった。近くにいる屈強そうな二人はこの男の護衛だろう。カミラが無言ですっとリリティアを庇うように前に出るが、男は意に介さずにしゃべり続ける。
「僕はあのグラン商会の跡取りのグラーシュというんだ。綺麗なお嬢さんがいるって噂になってたけど、これは想像以上だったな。僕の隣にふさわしい」
グラン商会は、ここの町では比較的大きな商会だ。自分の誘いを断られるなど微塵も考えていなそうなグラーシュに対し、リリティアは困ったような表情で断りを告げる。
「あの、申し訳ありません。夕飯の支度もありますので、もう家に帰るところなので……」
「おいおい、そんなのそこの使用人に任せればいいじゃないか。それに夕飯なら僕がご馳走してあげよう」
リリティアの腕を掴もうとしたグラーシュの腕を、カミラが軽々と止める。
「カミラ!」
「お嬢様、ご心配には及びません。この程度でしたら、十人相手でも全く問題ありませんので」
にこりと笑うカミラにほっと息を吐くも、このような往来で騒ぎになってしまうことにリリティアは不安そうに両手を握る。
(こんなことで注目を浴びてはウィルの迷惑になってしまう)
「おい、使用人風情が僕の邪魔をするな」
「申し訳ありませんが、お嬢様には指一本触れさせるなと指示を受けておりますので」
グラーシュはカミラの手を振り払おうとするが、びくともせずにギリッと口元をゆがめる。大事になるのを避けるため、リリティアはカミラの腕に手を当ててグラーシュを放させると、すっと頭を下げた。
「グラーシュ様、有難いお申し出ではございますが、ご一緒する事は出来ません。どうか寛容なお心でご容赦くださいませ」
凛とした声とお手本のようなカーテシーに人々はほぅと息を吐く。普通の紳士であればこれで引き下がったのだろうが、しかし大勢の前で断られた事にプライドを傷つけられたと感じたグラーシュはリリティアを怒鳴りつけた。
「グラン商会の僕に逆らったらどうなるか分かってるのか⁈」
グラーシュが護衛の二人に指示を出そうとした。
しかしその後ろから、低く落ち着いた声がかけられた。
「へえ、どうなるのか教えてくれるかい?」
雑踏の中から、白銀の髪を靡かせた青年が歩み寄ってくる。眼鏡をかけた涼やかな容姿で、上質な生地のスーツを違和感なく着こなす。まさにやり手の経営者といった雰囲気の青年の登場に、集まっていた人々がザワリと声を上げる。
彼は周りの視線など意に介すことなくリリティアの側により、その肩を抱いた。
「遅くなってごめんね。大丈夫だった?」
声も容姿も違っても、そのリリティアを気遣う優しい瞳にリリティアは安堵し笑みを浮かべた。
「大丈夫です、ウィ……いえ、ヴィートさん」
「良かった」
穏やかに微笑み合う二人に、グラーシュは吠える。
「おい、誰だお前。彼女には俺が先に声をかけたんだぞ!さっさとどけろ!俺を誰だと思ってる」
リリティアに向けていた笑顔が幻だと思えるほどに顔から表情を消して青年はグラーシュに口を開く。
「君こそ、誰に向かって口をきいてるか分かってる?グラン商会のグラーシュ君?」
「は……?」
カミラに離された手を振りながら訝し気な声を上げたグラーシュに、今度は反対側の雑踏の中から焦ったような声が響いた。
「申し訳ありません、ヴィート様!」
「え?父上?」
「お前、何をしてるんだ!さっさとヴィート様に謝らんか!」
グラーシュの父親と思われる恰幅の良い男がグラーシュの頭を押さえつけ、自分よりもずっと年若いヴィートに対して深く頭を下げた。
「この方はルイス商会の会長であるヴィート様だぞ!!!」
グラン商会長の言葉に、グラーシュは目を剥く。
「う、うそだろ、あのルイス商会……⁈」
周りの人々も、ザワザワと驚きの声を上げる。
ルイス商会――その名は、この町では非常に大きな意味をもつ。かつて無法地帯だったこの町で貿易業を始め、多くの雇用を生み出しここまで発展させたのがルイス商会のヴィートなのだ。この町の商店はほとんどがルイス商会の傘下と言っても過言ではない。
この町の輸送の要であるルイス商会に見捨てられれば、グラン商会など立ち所に路頭に迷う事になるだろう。
「う、ご、ご無礼をお許しください……」
恐々と頭を下げるグラーシュに、ヴィートは目を細める。
「私への暴言はこの際どうでも良いんだよ。それより、君は彼女に何をしようとしていたのかな?」
圧倒的強者からの静かな圧に、グラーシュは先ほどの威勢などどこにいったのかダラダラと冷や汗を流す。
「あ、いや、ただ、お茶に誘おうと……」
「綺麗な女性をお茶に誘いたくなる気持ちは分かるけど、不躾に腕を掴もうとして、そればかりか怒鳴りつけようなんて紳士の風上にもおけないね。彼女は私の恩師の大切な娘さんなんだが」
「そ、そうだったのですね!存じ上げず申し訳ありませんでした!」
グラン商会長が顔を青くさせ、息子の頭をさらに地面に擦り付けて頭を下げさせる。
「彼女は社会勉強の為にこの町で働くことになってね。その間私が責任を持って預かると言ってあるんだよ。それなのに変な虫がついてしまったら、恩師に顔向けが出来ないだろう?」
「も、もちろんでございます!」
「分かってくれて嬉しいよ。彼女には何にも煩わされる事なくこの町で穏やかに暮らしてほしいと願っているんだ。だからもちろん、彼女への詮索は不要だよ」
全てを従えるような声音でもって言った言葉は、グラン商会の親子のみならずこの場にいる人間全てに言っているようだった。カクカクと首振り人形のように首を振るグラン親子に、ヴィートはニコリと笑みを浮かべる。帰ろうかとリリティアを促しながら、去り際にグラーシュにだけ聞こえる声で忠告を与えた。
「グラーシュ君、彼女は君程度が手を出していい人じゃないんだよ。身の程を弁えて、二度と彼女の前に現れないでね」
破ればどうなるか分かってるよね?とでも言いたげな笑みに、グラーシュは真っ青な顔でブンブンと首を縦に振ったのだった。
***
途中でどこかへ報告に向かうと言ったカミラと別れて人目がない通りに入った所で、リリティアはヴィートに申し訳なさそうな表情で謝った。
「ごめんなさい。揉め事を起こしてしまって」
「リリィが謝る必要なんてないよ。しつこいあの男が悪いんだから。怖くなかった?」
眼鏡を胸ポケットにしまったヴィートは、リリティアの頬に手を当て心配そうに聞く。白銀のウィッグを取り去り本来の姿に戻った彼に、リリティアはフルフルと首を振る。
「大丈夫です。カミラもいてくれましたし、ウィルがすぐに来てくれましたから。本当に、助けてくれてありがとうございました」
「そんなの当たり前だよ。怖い思いをさせてなくて良かった」
ウルティオはホッとしたように笑みを浮かべる。
「それにしても、よく俺のことすぐに分かったね。ヴィートの姿を見せるのは初めてなのに」
「ヴィートさんの容姿については資料で読んでいましたから。ウィルは、今日はルイス商会の仕事だと言っていましたし。それに――」
「それに?」
首を傾げるウルティオに、リリティアは微かに頬を染める。
「あの、私を気遣ってくれる様子は、いつもの優しいウィルと同じだったから」
たとえ変装していたとしても、リリティアを見つめる優しい真夜中色の瞳を見間違えることはない。いつだってリリティアを助けてくれる大好きな人の手を、リリティアは迷いなくとることができた。
「困ったな。リリィには俺の変装が通用しないみたいだ」
ウルティオは、全く困っていなそうな嬉しそうな笑みを浮かべる。
「でも、今回は本当にごめんなさい。目立つ行動をしてはいけなかったのに」
迷惑をかけてしまったと申し訳なさそうな顔をするリリティアに、ウルティオはばつが悪そうに頭をかく。
「あー、ごめんね。実は、こういう騒ぎが起こるのは予想してたんだ」
「そうなんですか?」
心底びっくりしたように目を見開いたリリティアに、ウルティオは苦笑を浮かべる。
髪色を目立たないブラウンに染めたとしても、透き通るような白い肌にビスクドールのように整った容姿、貴族のお手本のような優雅な所作の令嬢が市場にいれば話題に上がるのは仕方がないことだ。だからこそ、ウルティオはヴィートの姿で牽制を行った。下手に隠すと人々は余計に好奇心を刺激されるものだが、貴族の介入のないこの町で実質一番力のあるヴィートの庇護下にある令嬢だと公言しておけば、もうリリティアを詮索してルイス商会の怒りを買おうとする者はいなくなるだろう。
「うん。リリィはさ、自分が凄く可愛いってことをちゃんと自覚した方がいいかな」
「私が、ですか?」
不思議そうに首を傾げるリリティアに、ウルティオがずいっと顔をよせる。
「いつも言ってるでしょ。リリィは可愛いって。俺の言葉、信じてなかったの?」
ウルティオの言葉に、リリティアはパッと頬を染めて慌てて首を振る。
「でも、あの、それはウィルが、こ、恋人だから、言ってくれてるのかなって。他の人にとっては、今の私はただの平民で、親しくするメリットもありませんし……」
「あのねリリィ、メリットのある無しなんて関係なく、男は可愛い女の子を誘いたくなるものなんだよ」
ウルティオの言葉に目を瞬かせたリリティアは、俯いて小さな声で問いかけた。
「……それは……客観的に見て、ウィルも、私の容姿は、その、……好ましいと、思ってくれているということですか?」
「当たり前だよ!リリィは世界一可愛いんだから、男にどんな目で見られているかちゃんと……」
自覚を持とうねと続けようとしたウルティオの言葉は、ラベンダー色の瞳を煌めかせて頬を染め、ふわりと幸せそうに笑顔を綻ばせたリリティアに完全に封じ込められることになった。
「……嬉しいです……」
恥ずかしそうに赤くなった両頬を手で押さえるリリティアの反応に、ウルティオは片手で顔を覆って沈黙した。
「…………分かった。うん、俺がしっかり守ればいい話だ」
「?」
ウルティオの反応に首を傾げるリリティアを無言のまま抱き上げて、家への帰路を速足で進む。
「ウィル⁈あの、重いので自分で歩きますから」
「リリィは軽すぎるくらいだから何の問題もないよ。それにお腹が空いたから、早く帰りたいと思ってね」
「そうだったのですね。あ、今日は焼き立てのパンを買って来たんです。ウィルは胡桃パンは好きですか?」
「うん、美味しそうだね。楽しみだ」
嬉しそうなウルティオの笑顔に、良かった、とパンの袋に視線を落としたリリティアは、ややして心配そうにウルティオを見上げて切り出した。
「……あの、ウィル。今後は、私はあまり市場へ行かない方がいいでしょうか」
「ヴィートの姿で詮索は不要だと牽制したから大丈夫。今頃町中に噂が広がっているはずだよ。初めにヴィートの庇護下の令嬢だと堂々と印象付けておけば、意外と人間の心理はそこに固定されてまさか怪盗に連れ去られた侯爵令嬢とは結び付けられないものなのさ。だからリリィは何も心配せずに自由に買い物して良いんだよ。またリリィとデートもしたいしね」
「……はい!」
嬉しそうに笑顔を浮かべるリリティアを大切に腕の中に抱きしめながら、ウルティオもまた零れるような笑みを浮かべるのだった。




