仕事
朝の陽ざしの中、リリティアは自身の髪がきちんと濃いブラウンに染められているのを確かめ、鏡の前で服装も問題ないか確認した。今日はオフホワイトのブラウスに落ち着いた藤色のドレープスカートを合わせた動きやすい服装だ。髪を濃く染め服装を変えるだけでも、がらりと印象が変わってくる。
今日はウォーレンの名義で経営する法律事務所に連れて行ってもらうことになっていた。
(少しでも、役に立てるように頑張ろう)
リリティアは鏡の前でグッと拳を握った後、最後に繊細な彫刻細工が施された銀色の懐中時計を確認して大切にポケットに入れた。
この懐中時計は、デートの日家に帰った後ウルティオから渡されたものだった。
『この懐中時計を見せればどこの店舗でも、絶対に持ち主の指示に従うようになってる。これはいつも隠して持っていて』
あの後伝えられた膨大な情報の中にあるウルティオの息のかかった店や事業者は王都を含めて30は超える。それらを動かす権限を、ウルティオはリリティアを守るために躊躇いなく渡してきた。
今までのリリティアだったなら、そんなものは受け取れないと固辞していただろう。しかしウルティオの想いを知ったリリティアは、静かにそれを受け取ったのだった。
***
町の中心部に位置する建物を、リリティアはウルティオの隣で見上げた。落ち着いたレンガ造りの2階建てで、貴族の出入りもあるためであろう、立派な門構えの建物だった。
「ここがウォーレン・リドニーの名義で運営している弁護士事務所だよ」
ウルティオが説明をしながらリリティアの手を引いて入口へ促す。
「一階は普通の弁護士事務所として運営してるけど、二階は組織の一部の者しか出入りできないようになってるんだ。貴族派への諜報活動の要になってる」
ウルティオが隠されるように設置された二階への階段を上り奥の扉を開けると、そこは書斎のように本棚に囲まれた空間だった。周りを見回すリリティアに笑みを浮かべたウルティオが本棚のとある書籍を抜き取り棚を押すと、更に奥に広い隠し部屋が現れ、リリティアは目を見開く。
ウルティオに続いて隠し部屋へ足を踏み入れたリリティアの目に飛び込んできたのは、机の上にうず高く積まれた書類の山。その書類に埋もれた頭がもぞりと動いたのが見え、リリティアは驚いて足を止めた。その頭は勢いよく持ち上がり、こちらに向かってきた。
「ボス、やっと来てくれたんですか⁈勘弁してください、見てくださいこの書類の山!ブランザ公爵家の対処で人員取られてぜんっぜん減らないんですよ!何とかして下さいよー。ボスなら一日で何とか出来るでしょ⁈俺はもう帰りたい!!見てくださいよこの俺の美貌に隈が出来ちゃったんですよ!女の子に草臥れて見えちゃったらどうするんですか⁈」
書類の山から抜け出してきた金髪の青年は、ウルティオに縋り付くように怒涛の勢いで喋りだした。その勢いに驚くリリティアを庇うように、ウルティオは一歩前に出るとがっしと青年の顔面を片手でぞんざいに押さえつけた。
「まだまだ元気そうなのはよく分かった。お前に朗報だ」
リリィ、と呼ばれて恐る恐るウルティオの背中から顔を出したリリティアに、今初めて気がついた青年は目を見開いた。
「まさかカスティオン侯爵令嬢ですか?なんでここに……」
一目でリリティアの素性に気づいた青年は、長い金髪を後ろで括っている。本人が言うように、泣きぼくろのある甘い顔立ちは確かに女の子達に騒がれそうだったけれど、先程の言動を見てしまったせいかとても軽そうな印象を受ける。
「リリィ、こいつはコナー。ここの職員として働きながら諜報活動を取りまとめている奴だよ。
コナー、これからリリィにはここの仕事を手伝ってもらうつもりだ。仕事内容の説明と手助けを」
「うえぇ、このクソ忙しい時にお嬢様のお守りですか?」
あからさまに面倒そうな顔をしたコナーに、ウルティオの額に青筋が浮かぶ。
「あ、あの、お忙しい中申し訳ありません。今日一日だけでも、やらせていただけませんか?使えないようなら、キッパリ諦めますので」
「まあ、それなら……。というかお嬢様の容姿ならこんな地味な仕事じゃなく、そこらを歩いていれば簡単に貢いでくれる男を捕まえられるじゃないですか。俺も立候補したいくらい……っ痛!」
そのコナーの肩を、これ以上なく作られた笑顔を浮かべたウルティオが掴んでいた。
「コナー、面貸せ」
低く低くつぶやかれた声は、コナーにだけ届けられその背筋を凍らせた。
「リリィ、少しコナーと話があるから紅茶でも飲んで待っていて」
「は、はい……」
ウルティオはニコリとリリティアに笑いかけてから、有無を言わさずコナーを別室へと引きずっていった。
(やっぱり、ブランザ公爵の対処ですごく迷惑をかけてたんだ……)
リリティアは机の上の惨状を見つめてギュッと膝の上の拳を握りしめた。申し訳なさが込み上げてくるが、リリティアはフルフルと首を振って顔を上げた。
(ダメ……。後悔するんじゃなくて、少しでも役に立てるように今できることを頑張らなくちゃ)
一方別室。扉を閉めた途端、床に放り投げられ尻餅をついたコナーの顔の横にガッと足が振り下ろされ、壁に微かにヒビが入る。
「ヒェッ」
「その無駄に動く口を縫い付けられたくなかったら口じゃなく手を動かせ。リリィにふざけた態度をとってみろ。物理的に首を飛ばすぞ」
「調子乗ってすみませんでした!!」
氷のような無表情で告げられた言葉にコナーは冷や汗を流して土下座を敢行した。
「え~と、ちなみにどこまで関与させるんです?」
「リリィに機密事項は存在しない」
「ええ、マジですか⁈っていうかほんとにここの仕事ご令嬢ができるんですかあ?」
コナーの言葉に、ウルティオは不敵に笑ってみせる。
「自分の目で確かめてみるんだな」
「リリィお待たせ」
「い、いえ。大丈夫ですか?なんだか凄い音がしたような……」
リリティアが心配そうに聞けば、ウルティオは何でもないようににこりと口を開いた。
「大丈夫、問題ないよ。俺はこの書類の処理をしちゃうから、その間説明を聞いていて」
「は、はは。お仕事の説明頑張らせていただきます〜」
顔を強張らせたようなコナーに首を傾げながら、リリティアはお願いしますと丁寧に頭を下げた。案内された部屋にはこちらも未処理と思われる書類がたくさん積まれていた。
「うちは貴族派の情報を集めるために貴族専門の顧問弁護を担当してるんです。こっちが現在担当の貴族名簿。後で目を通しておいてください。
基本的には貴族から依頼された問題の対処が主な仕事。もちろん常に情報収集はしてるけど、普段は普通の表の仕事がほとんどですから。まずはそっちの手伝いをお願いします」
「拝見しても良いですか?」
許可を得てから資料を見てみれば、主に専任の顧問弁護士を抱えていないような中級下級貴族からの依頼が多い。
「とりあえず今日は重要度別の分配と整理をお願いします。それから今マーク中の貴族家が絡んだものは印をつけて分けておいてください」
「は、はい!」
「じゃ、俺は隣の部屋で書類作成してますから何かあったら呼んでくださいね〜」
さっさと去っていったコナーにポカンとしながらも、リリティアは書類の山を見つめた。
(えっと、ここの資料は私が見ても問題ないのよね……)
リリティアは手近な椅子に座り一つ一つ未処理の資料を確認していく。
(公爵家でも顧問弁護士の方と書類のやり取りは何度もしてるから形式は分かる。ここも同じで良かった)
リリティアはホッと息をつくと、さっさと分類を終わらせる。そして紙を広げると、さらさらとペンを動かし始めた。
どれくらいの時間が経ったのか。作業に集中していたリリティアは、優しく肩をたたかれて意識を戻した。
「お疲れ様、リリィ」
目の前にはウルティオがいて、一緒に部屋に入って来たであろうコナーも後ろから顔をのぞかせていた。
「あ、すみません。もう少しで終わりますので」
「あれ、まだ終わってませんでした?」
困ったなあという顔を隠しもしないコナーに、リリティアは申し訳なさそうに終わった分の書類を渡す。
「すみません、対処案と司法院への必要提出書類の原案までは終えているのですが、予算の計算まではまだできていなくて……」
「……?よさんの、けいさん……?」
意味がわからないという顔をしたコナーは、手渡された書類の山をめくって目を剥いた。
「はいぃ⁈は?え?俺、書類の分類だけ頼みましたよね??なんで問題対応の書類まで作成されてるんですか?は?」
「え?もしかして、何か間違っていましたか?」
カスティオン侯爵家やブランザ公爵家にいた頃は、書類を見ておけと言われればそれは全ての処理を終えておけという意味であり、それが出来なければ厳しい叱咤が飛んできた。リリティアにとってはそれは当然のことと思っていたので、驚くコナーの様子に処理が間違っていたのかと見当違いな不安で顔を青くさせた。
「いや、間違ってなんてないよ。リリィが優秀過ぎて驚いただけだから、そんな顔しなくて大丈夫だよ」
「ほ、本当ですか?お役に、立てそうですか?」
「もちろんだよ。正直俺もここまでとは思わなかった。実務に関して、何の問題もないね。ここは万年人手不足だから、リリィが手伝ってくれたら助かるよ」
ウルティオの言葉に、リリティアは目を見開く。書類仕事など出来て当然で、少しでもミスがあれば食事が抜かれることも普通だった。こんな風に仕事を褒められたことなど、リリティアにとっては初めてだった。自分のやってきた事が少しでもウィルの役に立てそうだという事に嬉しさが込み上げてくる。
「……嬉しい、です。ウィルのお手伝いが出来そうで、良かった……」
ぱあっと顔を明るくさせ、花が開くような笑顔を綻ばせたリリティアに、ウルティオは片手で顔を覆って「可愛すぎる……」と項垂れた。
その横で、フルフルと震えながら書類を確認していたコナーが勢いよく顔を上げてウルティオに詰め寄った。
「……ボス!!なんで……なんでこんな即戦力を囲い込んでいたんですか⁈法律知識も、実務能力も言うことなし!とんでもない処理速度じゃないですか!」
「リリィはあの広大なブランザ公爵家の当主代理としての仕事をこなせるよう教育されてきたからな。というか、これを見る限りすでにかなりの実務に携わっていたみたいだね」
「早く言ってくださいよう!」
リリティアにぐりんっと振り返ったコナーは満面の笑みだ。
「歓迎します、リリティア嬢!いやー、貴女がいればやっと休みがとれそうです。あ、ブランザ公爵の資料についても聞きたいことがあるんで、この後お時間くださいね!」
「は、はい!よろしくお願いします」
「リリィ、あんまりこいつに仕事を押し付けられそうだったら、遠慮なく断っていいからね。俺がいない日はカミラを寄越すけど、無理して来ることもないし」
ええぇ、と悲し気な悲鳴を上げるコナーを完全に無視してリリティアを心配するウルティオに、リリティアは笑顔を浮かべる。
「いえ、初めにお話をいただいたように、週の半分はこちらで働かせてもらえると嬉しいです。それに、侯爵邸にいた頃はブランザ公爵家の仕事やカスティオン侯爵家の雑務で休みの日なんてありませんでしたから。お仕事をさせていただくのにこんなにお休みをいただいて、むしろ申し訳ないくらいです」
「「……」」
何でもないことのようにほわほわした笑顔で言うリリティアに、男二人は無言になる。
「……コナー、リリィの帰宅時間は厳守しろ。無理をしそうなら仕事を取り上げてくれ」
「……了解です」
齢十八にして劣悪な仕事環境に慣れきってしまっているリリティアに危機感を抱いたウルティオは指示を出し、コナーは深く頷いたのだった。




