迎えに
月の光が照らす窓辺のソファで、リリティアは窓の外を見つめていた。部屋の窓からは、サラの花が幻のようにひらひらと舞い落ちるさまが見渡せる。
「!」
ぼんやりと花びらを眺めていると突然ふわりと体が抱え上げられ、気づけばリリティアの体はいつの間にか帰ってきていたウルティオの腕の中に抱えられていた。
「ただいま、リリィ」
ニ週間ぶりに聞くウルティオの優しい声に、リリティアはふわりと笑みを浮かべて顔を上げた。
「お帰りなさい、ウィル」
リリティアの笑みに、ウルティオはほっとしたように顔を綻ばせた後、ためらうようにゆっくりと頬に触れた。
「体は大丈夫か?体調が悪い時に、一緒にいてあげられなくてすまなかった」
ウルティオの言葉に、リリティアは静かに首を振る。
「謝らなければいけないのは、私の方です。……ウィルは、ブランザ公爵の追手の対処を、してくれていたのでしょう……?」
リリティアの言葉に、ウルティオは小さく息をのんだ。
「……気づいていたのか」
「はい……。ブランザ公爵は、恐らく執拗に追手を出すだろうと……。私のせいで、ごめんなさい……」
腕の中で頭を下げたリリティアを、ウルティオはぎゅっと抱きしめる。
「あんなところに、絶対にリリィを返す気はないよ。これは俺の我儘だ。今回こことは別方向の遠方の町の港から国外に逃げたような細工を施してきた。公爵が隣国に捜索網を広げたのを確認したから、もう心配はないだろう。
でも、ごめん。黙っていたことで、かえって心配をかけてしまっていたね」
リリティアはフルフルと首を振って否定するが、ウルティオは自分を責めるように顔をしかめた。
「リリィに、何の心配もなく暮らしてほしいと思っていたのに……、不甲斐ないね。こんなに、不安な顔をさせてしまって」
「っ私が!私が、悪いんです。……ウィルが、私を遠くの街に住まわせるための用意をしていると聞いて……。私、私がいては迷惑をかけるだけだと分かっているのに、なのに、勝手に、悲しくなって……。ウィルにも、酷い態度をとってしまいました……」
「っ!聞いて、いたのか……」
ウルティオは気まずげに視線を逸らす。そして優しくリリティアをソファに下ろすと自分もその隣に座り、ラベンダー色の瞳を見つめた。
「あれは、もしもあの家を公爵に気づかれた時のための保険だったんだ。すぐにどうこうという話じゃない」
リリティアは頷くように顔を伏せた後、何かを決意したかのように胸元で両手を握りしめた。そして、ゆっくりとその瞳を上げる。
「ウィル、私は……例え危険があったとしても、ウィルの側に居たいです」
静かな部屋の中に、リリティアの心からの願いが響く。リリティアの瞳が、見開かれた真夜中色の瞳を真っ直ぐに見上げた。
「ウィルが、私のために言ってくれていることは分かっています。お仕事の事、私に話したくないのも、私のためだって。
でも……、ウィルが、言ってくれたから。我儘を、言ってもいいと。
だから、今からとても我儘なお願いを言っても、いいですか……?」
潤むラベンダー色の瞳が、一心に想いを伝えようと瞬いた。
「もしもウィルが、私にどうしても知られたくないと言うのなら聞きません。……でも、叶うなら私は、ウィルのことを知りたいんです。お仕事の事もちゃんと理解したい。少しでもウィルの役に立ちたい。ウィルが苦しい時には、側にいたい。怪我をした時は、隠さないでほしい。ウィルの傷は、私が癒したい。
…………私は、守られるだけじゃなくて、……一緒に、ウィルの隣を歩きたいんです」
どこまでも真摯ない願いが二人の間に花びらのように降り注ぐ。
「迷惑たくさんかけてしまうことは分かっています。でも……、私をずっと、ウィルの側に居させてもらえませんか……?」
ラベンダー色の瞳が月の光でゆらゆらと揺れる水面のように幻想的な美しさをまとい煌めく。言葉を失ったように、ウルティオは魅入られたようにその瞳を見つめていた。
リリティアの小さな唇が、何よりも大切な想いを紡ぐ。
「好きです、ウィル。大好きです。……ずっと、一緒にいたい……」
心から溢れ出したようなリリティアの言葉に、ウルティオは息をのんだ。それは初めてリリティアから告げられた愛の言葉だった。
「っ……リリィ……」
ウルティオは嬉しそうな、ともすれば泣きそうな、そんないろんな感情が混ざったような表情を浮かべて、リリティアの手をまるでガラス細工に触れるかのようにそっと手ですくった。
「俺もだ……」
リリティアの手に視線を落とし、ウルティオは小さな声で告げる。
「たったニ週間会えないだけで、駄目だった。いつもリリィがどうしているか気になってしまう」
優しく手をなぞった視線が、ゆっくりと持ち上がりリリティアの瞳をとらえた。
「手放せないのは、俺の方だ」
その言葉とともに引き寄せられ、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「裏の世界にいる俺の側で、もしもリリィが不幸になってしまったらと思うと、どうしても怖かったんだ。俺はリリィを傷つけて失ってしまうことが、何よりも怖いんだよ」
リリティアはウルティオの腕の中で紡がれる言葉を聞く。かすかに震える吐息に、何よりもそれが本心なのだということが分かった。胸が熱くなって、ウルティオの顔を見上げようと身じろげばそっと腕の拘束が弱まる。見上げた先には、どこまでも深い想いを宿す真夜中色の瞳があった。
「君をずっと、俺の側に引き止めて――そこでリリィは、幸せになってくれるだろうか」
まるで懇願するようなウルティオの問いに、リリティアは瞳を潤ませ、迷うことなく告げた。
「っ……はい!私の幸せは、ウィルの側に居ることですから」
「うん……うん、ありがとう……」
リリティアの言葉ごと抱きしめるように、ウルティオが再び強くリリティアを掻き抱く。熱い吐息がリリティアのつむじに感じられた。
「愛してるよ、リリィ。約束する。もう絶対に君を離しはしない」
「!」
それは、リリティアが何よりも望んでいた言葉だった。
目頭が熱くなってきて唇が震えた。心が、安堵に満たされる。
「私も……愛しています、ウィル」
大きな手がそっとリリティアの頬をなでる。両手で頬を包み込まれると、見上げる真夜中色の瞳の中にラベンダー色の瞳が映り込む。その瞳がどんどんと近づき、リリティアは咄嗟に目を瞑った。すると唇に、柔らかな感触が伝わってきた。
とても優しい、啄むような口付けに胸の中が幸福感で満たされる。そっと離れた唇を追うように目を開ければ、ウルティオがこれ以上ないほど愛おしげにリリティアを見つめていた。
その瞳が、はっとしたように見開かれる。
「リリィ?」
ラベンダー色の瞳から涙の雫をこぼすリリティアに、ウルティオは焦ったようにその頬をそっと拭った。
ウルティオの指の動きで、やっと涙を流していたことに気がついたリリティアは、驚いたように両手で顔を拭う。
「ご、ごめんなさい……。嬉し、くて……。ウィルが、触れてくれて、なんだかすごく、嬉しくて、ホッと、して……」
静かに流れ出る涙をぬぐいながら、リリティアの閉じ込めていた心が雪解けのように溢れて流れていく。
「私、奴隷紋を刻まれてから、私に女としての価値なんてないって、誰かに愛されることなんて、もう、ないと、思ってたから……。ウィルは優しいから、私の事、見捨てられなかっただけなんじゃないかって、思ってしまっていて……」
リリティアの言葉を聞いたウルティオは一瞬顔を険しくさせた。そして無言のままリリティアを押し倒し、優しくソファに横たえた。
「ウィル……?」
驚いたように瞳を見開いたリリティアを、真上から真夜中色の瞳が真っ直ぐに見下ろす。
「リリィは、俺を誤解してるよ」
リリティアの頬を大きな手で包み、ウルティオがリリティアに覆い被さる。ゆっくりと影が重なり、先ほどよりも深く深く口付けられる。
「んっ、ウィ、ル……っ」
初めて与えられる深い口付けに息継ぎもままならず、リリティアはキュッとウルティオの服を縋るように握って名前を呼ぶ。しかしウルティオの熱い舌が言葉ごと飲み込むようにリリティアの舌を絡め取り、リリティアはくぐもった声を上げることしか出来なかった。
やっと唇が離された頃には、リリティアは頬を染めて息を上げていた。潤んだラベンダー色の瞳を、熱い想いを閉じ込めた真夜中色の瞳がとらえる。
「俺は清廉潔白な紳士なんかじゃない。リリィが欲しくてたまらない、ただの男なんだよ」
ウルティオの長い指がリリティアの頬を撫で、ゆっくりと首元へと降りてゆく。
「リリィに触れなかったのは、触れたらもう、手放せなくなるのが分かっていたからだ。自制が効かなくなって、リリィを怯えさせてしまうんじゃないかと怖気付いていたからだよ」
奴隷紋の刻まれた左腕をするりと撫で上げ、そのまま掬い取るように左手を取られて口付けられる。
「こんな紋様なんかで、リリィへの気持ちが変わる訳ないだろ。役に立つとか立たないとか、そんな事もどうだっていい。ただ、リリィの全てが俺のものであればそれでいい。そう思ってる。どんな手を使っても」
もう一度、今度は愛しむような優しい口付けを落とされる。
「……俺が怖くはない?」
真夜中色の瞳が、じっとリリティアを見下ろす。
リリティアはその瞳を見つめた後、――――ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「わたしは……怪盗さんに盗んでもらったあの日から、もう全部、ウィルのものですよ」
「〜〜〜っ!」
リリティアの言葉に目を見開いたウルティオは、直後ガックリと項垂れたようにリリティアの肩に額を押し付けた。その耳はこれ以上なく赤く染まっている。
「…………リリィ、本当に、大切にしたいんだ。だから、あんまり可愛い事を言うのはやめてほしい……」
「ご、ごめんなさい……?」
頬を染めてあたふたと謝ったリリティアを、ウルティオは小さな笑い声をあげて大切な宝物のように優しく抱きしめた。リリティアも勇気を持ってそっとその背に手を回してギュッと抱きしめると、離さないとでも言うように、さらに強い力で抱きしめられたのだった。




