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恐れるものは

ウルティオ視点です。



月の光も届かない裏路地に、人相の悪い男たちが人目を忍んで集まる。

小声で何かを指示する灰色のローブの男の足元を、湿った風が通り過ぎていった……、その時。


「っ!」


周りの男たちは何も気がつけなかったその気配に、ローブの男だけは気がつきハッと警戒するが、それはあまりにも遅すぎる気付きだった。


「ギャア‼︎」

「グァッ!」


吹き上げる風とともにバタバタと男たちが倒れていく中、ローブの男だけは胸元でナイフを掲げてギリギリで致命傷を避ける。しかし目の前に音もなく降り立った黒髪の男の氷のような視線を受けて、自分の命運を否応なく理解させられた。


「お前、まさかウルティオか……⁈」

「お前は知る必要のないことだ」


その言葉が終わらぬ内に、ローブの男の意識は強制的に奪われた。



***



「ボス、お疲れ様です」


後ろからかけられた言葉に、ナイフについた血を無表情で風で飛ばしながらウルティオは静かに振り返る。背後では追手の人間たちが倒れ伏しており、部下の数人が縄を使って拘束している。


「ここら一帯に潜んでいた追手は捕らえたみたいです。ですが、お一人でやらずに俺らにも仕事させて下さいよ」


ガスパルの言葉に、ウルティオは氷のような無表情のままに口を開く。


「ネズミ一匹たりとも逃がす訳にはいかない。俺一人の方が確実だ」

「まあ、それはそうなんですが……。……それにしても公爵家の追手、かなりしつこいですね」


ガスパルの言う通り、ここ数日は家に帰る事もままならない程にブランザ公爵家からの追手の対応に追われていた。リリィを不安にさせないように伝えていないが、今日などはかなり悪質な裏の人間たちまで動員されており処理するのに時間を要した。

ただ来た追手を殺すだけではいつか拠点の町を特定されてしまう。情報をかく乱させるために他の町にも放たれている追手の情報も掴み、そちらに潜伏しているような細工も施し偽の情報を流していく。

しかしブランザ公爵からの捜索はウルティオの想像以上の規模で行われていた。リリィ一人にこれだけの人員をかけることにブランザ公爵のリリィへの執着を感じるようで、ウルティオはその瞳に冷酷な怒りの炎を湛えた。


「片付けは頼んだ」


身を翻し裏路地を後にするウルティオに、ニカっとガスパルが笑顔を浮かべる。


「お、早々に姐さんのとこに行くんですか?羨ましい限りっす」

「いや、まずどこかで服を着替えないとな……」


静かな瞳で左手の袖口についた返り血を眺めてウルティオは息を吐いた。


「へ?そんな小さな汚れ気にしてんですか?」

「リリィにこんな汚い血の跡を見せられる訳ないだろう」


ウルティオの言葉に、ガスパルが驚いたように片方だけの目を見開いた。


「……想像以上に大事にしてんですね……。そういえば、ブランザ公爵家の資料について、いくつか姐さんに聞きたい事があるってコナーが言ってましたが……」


リリィが危険を犯して調べ上げたカスティオン侯爵家とブランザ公爵家の資料は、貴族派の繋がりを示す貴重な情報がいくつも含まれていた。今まで疑わしき家を一つずつ潰していくしかなかった調査が、確信を持って行えるようになる。それは金塊よりもはるかに価値のあるものだ。しかし――。


「裏付け調査はあいつの仕事だ。リリィを関わらせるつもりはない」

「いいんですか?」

「コナーにも、こんな薄汚れた仕事にリリィを関わらせたら首を飛ばすぞと伝えておけ」

「え……、物理的に?」

「さてな」


ウルティオはスルリと身を翻して裏道を抜ける。真夜中のため大通りと言っても人影はなく、夜道を月の光が照らしていた。

月を見上げながら、ウルティオはいってらっしゃいませと送り出してくれたリリィの笑顔を思い浮かべて微かに口元を緩めた。

自分の家にリリィがいてくれることが、これほど心を満たしてくれるとは思わなかった。

どんなに疲れて帰った日でも、そっと部屋を窺いリリィのあどけない寝顔を見られれば、それだけで疲れなど吹き飛んだ。


(リリィは、もう寝ているだろうか。そうだ、お土産にまたお菓子を買って帰ろう)


甘いお菓子に目を輝かせて美味しそうに食べてくれる様子が可愛くて、学園や侯爵邸にいつも人気のお菓子をお土産に持って行っていたのを思い出して頬を緩める。しかしそんな事を能天気に考えていた当初の自分を、ウルティオは後日後悔することになる。



***



本当に、リリィと暮らせるという事に浮かれていたとしか言いようがない。


俺の家に連れてきた日の夜、温かな食事に嬉しそうに頬を緩ませたリリィに、俺は悔しさで拳を握りしめたのを思い出す。

リリィが侯爵邸でどんな扱いをされていたのか、潜入中におおよその事は把握できていた。使用人にも蔑まれ、毎日冷たい食事を一人で取らされていた。八年前のあの日、あと一週間だけ早くリリィを迎えに行く事ができたなら――そんな後悔が幾度となく頭を過ぎる。そうすれば、少なくとも奴隷紋なんかでリリィがあれ程悲しい思いをする事なんて無かったはずなのに。

全てを諦めたようなリリィの悲しげな笑みを思い出すだけで、ブランザ公爵とカスティオン侯爵への殺意で目の前が真っ赤になる。

リリィを取り巻く環境は、どこまでも彼女を傷つけていた。


…………だったら、俺が守ってもいいじゃないかと思ったのだ。


表の世界にリリィの幸せがないのならば――これからは、俺のもとで何者からも守っていきたいと、そう思った。



リリィに確認を取ることも忘れて当然のように自分の家に連れ帰った時は自分の浮かれように愕然としたものが、リリィが俺の家にいて、笑顔で行ってらっしゃい、おかえりなさいと言ってくれる。それだけで、言いようのない幸福感が胸を満たした。次いで心を占めたのは、この何より大切な存在を失いたくないという思いだった。


大切にしたかった。汚い世界など見せずに、ずっと綺麗な世界だけを見ていて欲しい。そうして、俺の隣で笑っていて欲しい。


リリィは侯爵邸で虐待されていたこの八年で、ずっと成果を求められてきた。役に立たなければいけないという強迫観念に晒され続けてきた。だからもうそんな必要はないのだと。そばに居てくれるだけでいいのだと、知って欲しかった。


しかし、無理をしないように言っても、リリィは悲しそうな表情を浮かべてしまう。

ただ、笑顔でここにいてくれたらいい。それだけなのに。


――それなのに、俺は失敗してしまった。


綺麗なラベンダー色の瞳を悲しみで伏せるリリィに、自分の不甲斐なさを突き付けられた。


(……ハッ、天下の大怪盗が情けない)


人の心理に関する専門書の内容など、何十冊分も頭に入っている。人々の思考を誘導し、騙し、偽りの仮面を被って宝を、そして情報を奪ってきた。それなのに、何故世界で一番大切な人を悲しませてしまうのだろう。




リリィが風邪で寝込んでいると連絡を受けた時は、自分でも驚く程に動揺した。


あの家の中で、なんの憂いもなく笑って過ごしてもらえるように出来る限り手配したつもりだった。それなのに、リリィは日に日に元気がなくなっていった。ちゃんとリリィと話す時間を取りたかったが、ブランザ公爵の追手の対処のために家に帰れない日が続いてしまった。


『ごめんなさい……』


熱に魘されながら、苦しげに君が紡ぐ言葉に、自分の無力さを痛感した。

熱で寝込んでいるリリィの手をとる。綺麗な白い指先についたいくつもの小さな傷。何かあったのは明白なのに、リリィは俺に伝えようとはしなかった。俺が忙しいからと、遠慮させてしまったのだろうか。それとも、俺には話したくなかったのだろうか。無理に聞き出そうと思えばできたかもしれないが、顔を伏せ俺を見ようとしないリリィに不安が襲う。結局俺は、無理に聞き出すことなどできなかった。


俺は不安を埋めるように、前々から念のためにと用意させておいたリリィの避難用の物件の選定を急がせていた。もしも貴族派に企みがバレれば、組織の中でも一部の者しか知らないこの家も安全とは言い切れない。そうなった時に、リリィだけは確実に逃がすつもりでいた。


リリィの安全を考えるのならば、もとから追われる身の自分から離して遠方に送るのが一番であることは分かっていた。それでも自分のもとに引き留めているのは俺の我儘だ。公爵家から助け出したことに恩を感じているリリィにつけ込んで、側に繋ぎ止めている。だからせめて、リリィには危険なんかとは無縁の生活を贈りたかった。



「あなたねぇ、大切なのは分かるけど、それじゃあ籠の鳥じゃない。あなたの望みだけを押し付けているように見えるわ」


リリィの事を頼んだ際、姉に言われた言葉が頭の中を木霊する。その時は笑って誤魔化したが、きっと姉の言う通りだったのだろう。


これまでずっと、こんな血に汚れた俺ではなく、もっと真っ当な男のもとでリリィには幸せになってもらいたいと思っていた。手放す覚悟は、何度もしてきた。それがいざ自分の手元に来てくれて、きっと俺は臆病になっていたのだ。俺の裏の顔を知られて怖がられるのが怖かった。俺のもとで悲しい思いをさせてしまうことが恐ろしかった。俺のもとで不幸になってしまうリリィなど、絶対に見たくなかった。


リリィは幸せにならなくちゃいけない。誰よりも幸せに、笑っていてほしい――それは願いではなく、俺の中では絶対に確定した未来だった。そのためなら何だってするつもりだし、俺が離れる事でリリィが幸せになれるのならば、躊躇う事はないと……そう、思っていた。


だけど俺は、もっとリリィと話をしなければいけなかったのだろう。

リリィを自由にしてあげたいと思っていたのに、俺自身がリリィを閉じ込めてしまっていたのかもしれない。俺しか頼る者がいないリリィには、選択肢さえなかったのに。

リリィが本当に望んでいることを、今度こそちゃんと叶えてあげたい。リリィの望みを叶えるのは、いつだって俺だけでありたいのだから。


「早く、会いたいな……」


今はもう、体の調子は大丈夫だろうか。悲しい表情はしていないだろうか。

リリィの顔を思い出せば、すぐにでも会いたくなる。今すぐにでも抱きしめて、明るい笑顔を見せてほしい。お帰りなさいと、言ってほしい。


「……はは、こんなんでいつでも手放せると思っていたなんて、笑えるな」


俺は乾いた笑いを浮かべた後、顔を覆っていた片手を下ろし拳をギュッと握りしめた。決意を込めた瞳で夜の海を見つめる。


(まずはブランザ公爵の追跡をここで確実に排除する。リリィの憂いを全部取り去って、そうしたら――)




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