姉(3)
しかし非難の言葉も覚悟していたリリティアにもたらされたのは、ふわりと柔らかな抱擁だった。
「……辛かったわね」
「っ……!」
リリティアを優しく抱きしめるグレーシアの温もりに、リリティアは頭が真っ白になった。
「そっか……。そうよね、女の子がそんな物を刻まれたら、自分に自信が持てなくて当然よね……。ずっと、辛かったでしょう。――今まで、よく頑張ったわね」
「っ!」
その言葉に、リリティアの瞳から一筋の雫が流れ落ちる。それを合図にするかのように、後から後からボロボロと、決壊したように涙があふれてくる。
「わ、私の事、汚いって、思わないんですか?」
「そんなこと、思う訳ないでしょう?そんな事リリィちゃんに言ったのはどこの馬鹿なのかしら」
グレーシアが憤慨したように目を吊り上げる。その様子に、やっとリリティアの体から力が抜ける。
「……ウィルが、馬鹿男と呼んでいる人です」
「まあ、なんて正しい呼称かしら」
ふふふ、と笑いながら、優しい笑みを浮かべてグレーシアはリリティアの涙をぬぐう。
「私もね、リリィちゃんの気持ち、少し分かるかもしれない。私も、娼館に売り払われた元娼婦だから」
「えっ?」
グレーシアの言葉に、リリティアは目を見開いた。
「私とウィルがルーベンス公爵家の出だというのは知っていたわよね。……父が冤罪で処刑されルーベンス家が叔父に乗っ取られた時、私は叔父の子――従兄と結婚すれば家に残してやると言われて……、迷わず断ったの。
受けていれば……もしかしたらウィルを助けることもできたかもしれないけれど……、当時の婚約者以外との結婚なんて、考えられなかった。そのせいで怒りをかって、娼館に売り払われたの」
「そんな……」
グレーシアの言葉に、リリティアは息をのむ。瞳を潤ませ悲しみに沈むリリティアに、しかしグレーシアは明るく笑顔を浮かべる。
「でもね、当時の婚約者だった今の夫が、地位を捨てて私を迎えに来てくれたのよ。初めは追い返したわ。私を迎えたことがばれれば、貴族派からにらまれるのは必至。彼や、彼の家に迷惑はかけられないと思った。でも、彼は家とは縁を切って来たから問題ない。ただの騎士位だけとなった自分の婚姻なんて、誰も気にしない。だから俺を選べってね、言ってくれたのよ」
「素敵ですね……」
「ふふ、そうでしょう?だから私も腹をくくったわ。元娼婦として、私を蔑む人もいるでしょう。彼にまで非難がくることもあるでしょう。それでも、私は彼を信じて、彼を幸せにしようってね」
胸を張って堂々と言葉を紡ぐグレーシアの姿が、リリティアにはとても眩しく思えた。
「ただ、ウィルにはかわいそうな事をしてしまったと思っているの。私がもっと上手く立ち回れればよかったのだけれど……。両親の仇をとるためでもあるのだけれど、お金のためにあれほどがむしゃらに裏の世界で身を削ってきたのは、私を助けるためでもあったから」
一度瞳を伏せたグレーシアは、静かに空色の瞳をリリティアに向ける。
「一度全てを失った人間はね、また大切なものを作るのが怖いのよ。
あの子も、あなたに汚い仕事は関わらせたくないなんて言ってあなたを遠ざけるのは、本当はただ、あなたを失いたくない臆病者の戯言よ」
「グレーシア様……」
「あの子はね、守るために離れることを選んでしまうの。その相手が大切であればあるほど。ジョルジュ殿下とマルティンにも、今のいままで生存を知らせることさえしていなかった。
……でもね、そんなあの子が初めて手元で守りたいと願った女の子が現れた。それがリリィちゃん、あなたなのよ」
驚いたように顔を上げたリリティアに、グレーシアはまるで秘密を口に乗せるようにそっと笑みを浮かべた。
「私に連絡をとってきた時は驚いたものだわ。何年振りかしらって。追われる身であるあの子は、騎士の夫と私に迷惑をかけないよう、関りを持とうとしなかったから。
それが、大切な女の子を守ってほしいと言ってくるなんて――ふふふ、私、その時は嬉しくて躍り出しそうな心地だったわ」
実際、夫の手を引いて躍ってしまったわ、とグレーシアは楽しそうに言葉を紡ぐ。そしてぎゅっとリリティアの手を握った。
「あの子は黙っていては、きっと少しでも自分のせいで貴女に危険があると判断すれば、すぐに貴女を大切に仕舞い込んでどこか遠方に送ろうとするでしょうね。それが貴女のための最善だと信じている。
でもね、私はあの子に大切な人と共にいる時間を諦めて欲しくないの。殿下や私を頼ってまで守ろうとしたリリィちゃんにね、あの子の側にいて欲しいと思うのよ」
グレーシアは、リリティアに慈しむような笑みを浮かべる。
「だからもしリリィちゃんがあの子の側に居たいと思ってくれているのなら、心のままに振舞って。遠慮なんてしないで、思ったこと全部、あの子に言ってあげて。あの子が離れようとしたなら、その腕を引いて引き留めてあげて。貴女のお願いなら、きっとあの子は断れないわ」
「わ、私なんかが……」
「リリィちゃん」
リリティアの言葉を遮り、青空色の瞳が真っすぐにラベンダー色の瞳を見つめる。
「リリィちゃん、貴女が大切だと言ったあの子の言葉を、信じてあげて」
グレーシアの言葉に、リリティアはハッと目を見開いた。
『俺は、自分で君のために見繕った相手に嫉妬なんて馬鹿な真似をするくらい、……君が、好きなんだ』
そう伝えてくれた時のウィルの真剣な瞳を思い出す。
……私は、自分に価値なんて見出せなかった。
迷惑しかかけられない、奴隷紋のある自分では、ウィルの隣には相応しくないと思っていた。
でも、それは私を好きだと言ってくれたウィルの言葉を信じない事と一緒だったのかもしれない。
今まで私は、ううん、きっとウィルも、ずっと一緒にいる事はできないと当然のように考えていた。学園や侯爵邸で語り合いながら、私もウィルも、いつかの別れを覚悟していた。
それが一緒にいられるようになって――――初めて、失うことの怖さを知った。
(私、あの時から何も変わっていなかった。ウィルの側にいる今の時間を壊したくなくて、一番大切なこと、ちゃんと伝えられずにいた)
私はずっと、ウィルの側にいたい。だから、側にいるために、役に立ちたいと思った。成果を上げなければ存在価値などないとずっと思い込んでいたから。
役立たずの自分が嫌で、ずっと不安を感じていたのは、ただウィルの側にいたかったから、それだけなのに。
「……私、ウィルの側にいたいです」
涙と共に、素直な心がポロポロと零れ落ちる。
「ウィルの、役に立ちたい。離れたくない……。なんにも言ってくれないの、寂しい……。ひくっ……うっ……、ウィルに、会いたい……。笑って、ほしい……。わ、私も、グレーシア様のように、ウィルを幸せにしてあげられる人間に、なりたい……」
優しく抱きしめてくれるグレーシアの腕の中で、リリティアは子供のように涙を流しながら、真っさらで純粋な願いが溢れてくる。
(自分に自信なんて持てないけれど、でも、ウィルの言葉を信じたい。こんな私を好きだと言ってくれたウィルに、ちゃんと自分の気持ちを伝えたい……)
「ウィルに、大好きだって、伝えたい……」




