姉(1)
リリティアは布団をかぶり、その日一日をベッドの上で過ごした。心配をしてくれるウィルに申し訳ないと思いながらも、気力の全てが抜け落ちたかのように起き上がることができなかった。それに、今は正面からウィルの顔を見る勇気がなかった。
(こんなんじゃ、余計ウィルの迷惑になってしまうのに……。でも、顔を合わせるのが怖い。遠方に行ってくれと言われてしまうのが、怖い……)
ギュッと枕に顔を埋めるリリティアの耳に、遠慮がちなノックの音が聞こえてくる。
「リリィ、いいかい?」
ウルティオの声にびくりと肩を跳ねさせながらも、リリティアはおずおずと起き上がってストールを羽織る。返事をすれば、心配そうなウルティオが顔をのぞかせた。
「リリィ、体調はどう?」
枕元の椅子に腰かけてリリティアの顔を覗き込んでくるウルティオに、リリティアはさっと顔を俯かせる。
「もう、大丈夫です。迷惑かけて、ごめんなさい……」
「何度も言うけど、迷惑なんかじゃないよ。こんな時くらい、たくさん甘えて」
ウルティオの言葉に、リリティアは何も言葉を返せずにいた。そんなリリティアの様子に何を思ったのか、ウルティオは躊躇いがちにリリティアの名を呼ぶ。
「リリィ、これからニ週間ほど仕事で帰れなくなるんだ。今回の仕事ではガスもマチルダもこの町を空けることになる。長期でここにリリィを独りにするのは心配だから、信頼できる人の元に君を預けようと思う」
ウルティオの言葉に、心臓がギシリと嫌な音を立てた。
「……あの、カミラもいますし、そのくらいの期間でしたら私は平気です」
リリティアは声が震えないように、精一杯に声を絞り出す。
「俺が心配なんだ。リリィはまだ病み上がりだろう?どうか俺のために、我儘を聞いてくれないか?」
「っ……。分かり、ました……」
シーツの上の手をギュッと握りしめて、リリティアは何とか返事をひねり出した。
たったニ週間の話だ。今すぐに遠くの町へと送られる訳ではない。それなのに、昨日のウルティオとガスパルの話が耳の奥で繰り返されて顔から血の気が引いていく。
「リリィ?大丈夫か?」
顔色の悪いリリティアを心配そうに覗き込み、頬に触れようとしたウルティオの手をリリティアはとっさに俯き避けてしまった。
「あ……」
ウィルを拒絶するような行動をとってしまった事に気づいた途端、リリティアは顔を真っ青にさせた。
「あ、ご、ごめんなさい……っ」
「いや……」
上げていた手をゆっくりと下ろし顔を伏せた後、ウルティオは顔を上げると、何てことないように笑って優しい声でリリティアを気遣って声をかけた。
「……すまない、まだ体調が悪いところを無理させてしまったね」
優しい声に、胸が詰まる。リリティアは、ただフルフルと首を振ることしかできなかった。
その二日後、リリティアはウルティオの姉のいるという家に向かうことになった。
***
「姉は子供の頃からから可愛くない弟じゃなくて妹が欲しいと言っていた人だから、可愛い女の子が滞在するって言ったら大喜びしていたよ。よかったら相手をしてやってほしい。あ、でも無理はしなくていいからね」
「いいえ、私もウィルのお姉さまにお会いできるのは楽しみです」
ウルティオの姉の家に向かう馬車の中、普段通りに会話を交わす。ウルティオが何事もなかったかのように話しかけてくれるから、リリティアも表面上は普通に話すことができた。しかしふとした拍子に、喉に何かを詰め込まれたような沈黙が二人を包む。二人で話をしていて、そんなことは初めてだった。
何よりあの時以来、ウルティオはリリティアに触れようとはしなかった。
到着したのは、きちんと手入れのされたこじんまりとした邸宅だった。リリティアとウルティオが玄関ホールに入ると、美しい黒髪の女性が正面の階段を降りてやってきた。シンプルながらも上品なワンピースを纏った彼女は、澄んだ青い瞳をこちらに向けるとウルティオに似た美しく秀麗な顔に上品な笑みを浮かべた。
「久しぶり、姉さ……」
「初めまして、リリィちゃん!!ウィルの姉のグレーシアよ。ずっとあなたに会いたいと思っていたの!まああ、本当にお人形さんみたいに可愛いわ!」
ウルティオの言葉を遮り、びっくりする速度でリリティアの前までやってきたグレーシアは、満面の笑みでリリティアの手を握った。
「リリィちゃんはケーキはお好き?一緒にお茶会をしようと思ってうちの料理人に色々お菓子を作らせていたのよ!紅茶とハーブティーならどちらが好きかしら?それに……」
「は、初めまして。リリティアと申します。えと、ケーキは好きです。それで……」
目を白黒させながらも律儀に答えようとしているリリティアを、姉から奪い取るようにウルティオが肩を抱いて庇う。
「姉さん、リリィは病み上がりなんだから、そんな勢いで来たら疲れてしまうだろ。まずは休ませてやってくれ」
「まああ、独占欲の強いこと。まったく、束縛の強い男は嫌われるわよ」
からかうようなグレーシアの『嫌われる』との言葉に一瞬真顔になってグッと言葉を飲み込んだウルティオは、諦めたように肩を落としてリリティアから手を放した。
「心配しなくても大丈夫よ。リリィちゃんに無理はさせないわ」
「当然だ」
グレーシアの言葉に答えた後、ウルティオはリリティアに向き直り、まるで壊れ物に触れるかのようにリリティアの指先をそっと握る。
「リリィ、無理せず、自分の体を一番に考えてくれ。今回の仕事が済んだら、時間がとれるようになるから。終わったらすぐに迎えにくるよ」
「ウィルも、どうか気をつけて……」
「うん」
そっとリリティアの指先に触れるか触れないかという口づけを落とすと、ウルティオは自分の姉に真剣な瞳を向ける。
「リリィを頼む」
「任せなさい」
グレーシアの言葉に頷くと、ウルティオはリリティアに小さな笑みを向けてから背を向け去っていった。
その後ろ姿を眺めて、グレーシアは頬に手を当てからかうような笑みを浮かべながらため息をはく。
「ちょっと信じられないわね……。ウィルがあんなに過保護になるなんて。本当にリリィちゃんの事が大事なのね」
扉が閉まってからもずっとウルティオの背中を見つめ続けていたリリティアは、グレーシアの言葉に静かに首を振った。
「ウィルは、ただとても……とても、優しいだけです」
リリティアの言葉に驚いたように目を見開いたグレーシアは、からかうような笑みを引っ込め、何も聞かずに優しくリリティアに笑いかけた。
「改めていらっしゃい、リリィちゃん。この家を自分の家だと思って寛いでね。移動で疲れたでしょうから、夕食までは部屋でゆっくり休んでいて。そのころには夫も帰ってくると思うから、紹介するわ」
「ありがとうございます、グレーシア様。あの、ご迷惑おかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします」
リリティアはグレーシアの優しさに感謝し、深く頭を下げた。案内された客間は居心地よく整えられており、優しい心遣いがとても嬉しかった。
夕食の席で紹介されたグレーシアの夫は、寡黙ながらも穏やかな笑みが印象的な男性だった。ロイルと名乗った彼は鍛えられた立派な体躯をしており、治安維持隊の隊長をしているという。食事の席では明るくおしゃべりなグレーシアばかりが話しているように見えるが、その話を聞く優しい表情が、彼がどれだけグレーシアを大切にしているのかを察せさせる。その様子に、リリティアは胸が温かくなるのを感じた。




