新しい生活(1)
本日『悪女に仕立て上げられた薄幸令嬢の幸せな婚約破棄』がシーモア様とBookLive様から先行配信開始しました!配信に合わせ、本日から第2章を再開していきたいと思います(*^^*)
一時的に身を潜めた小さな隠れ家では、目立つ婚姻衣装から町に溶け込める服装へと着替えた二人の男女がソファで身を寄せ合うように座っていた。パチパチとはぜる暖炉の明かりが暖かく二人を包む。
怒涛の一日で疲れが出たのであろう、いつの間にか肩に寄りかかるように眠ってしまった少女の前髪を、青年が愛おしげにそっと撫でる。
ちょうどその時窓から朝日が差し込み、ソファの二人を照らした。
「ん……」
眩しげにゆっくりと開かれた瞼の下から、宝石のように美しいラベンダー色の瞳が現れる。その瞳に真夜中色の瞳の青年が映し出された途端、少女は目を見開きパッと起き上がると顔を赤く染めた。
「ご、ごめんなさい、怪盗さん!私、いつの間にか寝てしまって……!」
真っ赤になって慌てる少女――リリティアの頭を宥めるように撫でると、ウルティオはおかしそうに笑う。
「いいんだよ。俺としては役得ってやつだから」
「役得……?」
よく分かっていなそうなリリティアに笑みをこぼすと、そうだ、と上機嫌にウルティオはリリティアに向き直る。
「リリィ、これから俺のことは、前みたいにウィルと呼んでくれるかい?」
そう言って朝日のもとで笑ったウルティオに、リリティアは頬を染めて嬉しそうに頷いた。
「はい、……ウィル」
リリティアが名を呼べば、ウルティオもまた愛おしそうに微笑む。新しい一日の始まりの陽のなか繋いだ手は、どこまでも温かかった。
***
「ここが拠点としている街だよ」
いくつかの隠れ家を経由して辿り着いたのは、レンガ造りの家々が並ぶ美しい街だった。いたる所に水路が通り、人々が橋や船で街を行き交う。
大通りを曲がり迷路のような入り組んだ細い道を進んでいくと、鉄細工の看板を掲げた小さな雑貨店がポツンと静かに佇んでいた。葉を茂らせた緑の蔦に覆われたその店の裏庭に続くと思われる色褪せた白い扉に、ウルティオは躊躇いなく手を伸ばす。
「おいで」
リリティアが差し出された手に引かれるままにその扉を潜れば、視界いっぱいの紫の花が目に飛び込んできた。赤茶のレンガの壁を伝い伸びた枝から満開のウィステリアの花が垂れる様子は、まるで紫の天井のようだった。その下には、真っ白な石畳の道が続いている。
「きれい……」
白い道を歩いていけば、やがて木々に囲まれポッカリと開けた空間が現れた。
「ここが俺の家だよ」
そこには、隠されるように建てられたレンガ造りの二階建ての家があった。
貴族の別荘のような優美な邸宅だが広すぎずこじんまりとしており、その壁を彩る赤茶色のレンガと白い漆喰の一部には緑の蔦が這い小さな白い花を咲かせている。洗練されながらも温かみのある佇まいの邸宅の脇には水路も流れており、キラキラと水面を光が反射している。まるで童話に出てくる妖精の隠れ家のような外観にリリティアはラベンダー色の瞳を輝かせた。
手を引かれて家に入れば、中は品の良いデザインの家具で統一され居心地良く整えられている。リビングの広い窓からは春の花が彩る庭が見渡せた。
「素敵なお家ですね」
ここで怪盗さんが暮らしているのだと思うと、ドキドキと胸が高鳴る。壁際を埋め尽くす本棚には専門書を含めたくさんの蔵書が詰め込まれており、リリティアは失礼にならない範囲で部屋を見回して目を輝かせた。
「気に入ってくれて良かった。隠れ家はいくつかあるけど、基本はここで生活してるんだ。部屋は余っているから好きな所を選んでいいけど、リリィには二階の一番日当たりの良い部屋が良いと思う」
機嫌良く案内しようとしてくれるウルティオの言葉に、リリティアは目を見開いてピタリと歩みを止めた。
(私の部屋……?それだとまるで、私もここに住むみたい……)
リリティアは段々と熱くなってくる頬を隠すように俯いて問いかけた。
「……私、怪盗さん――……ウィルと一緒に、ここで暮らして良いんですか?」
おずおずと両の手を胸元で握り、色づく頬を隠すように俯いて問いかけるリリティアを目にして、振り返ったウルティオはピキリと動きを止めた。その一瞬後には何かに気づいたようにバッと顔を上げ、慌てたように早口で弁明し始めた。
「っ!そ、そうだった。未婚のお嬢さんが男と暮らすなんて嫌だよな。すまない、先に確認を取るべきだった」
リリティアが驚くほど取り乱した様子のウルティオは、やがて片手で顔を覆い体中の空気を吐き出すようにして項垂れた。
「すまない。……リリィが俺のもとに来てくれて……浮かれて、いたみたいだ」
手の間から見える耳が微かに赤い。
リリティアはウルティオの反応に驚いたように目を見開いた後、そっと彼の左手を両手で握った。
「嫌なんかじゃ、ないです」
こんな事を言うのは、はしたない事かもしれない。それでも、リリティアは勇気を出して正直な気持ちを言葉にした。
「ウィルの邪魔にならないなら、……一緒に暮らせたら、嬉しい、です」
顔を赤くさせ、ぎゅっと目をつぶって一生懸命に言葉を伝えたリリティアに、ウルティオはほっとしたように笑って宝物のようにリリティアの手を握り返した。
「……俺も、リリィがこの家にいてくれたら、嬉しいよ」
ウルティオの言葉に、リリティアは胸が温かいもので満たされたような心地になり、その心のままに綻ぶような笑みを浮かべる。
リリティアの笑みを魅入られたように見つめていたウルティオは、再びハッとしたように意識を戻すと誤魔化すように咳払いをして話し出す。
「明日にでも、リリィの服を揃えよう。それに、小物も買っておくよ。欲しい物があったら何でも言って」
「そんな、私の事でそんなにお金をかけてもらう訳にはいきません」
ただでさえ迷惑をかけているのに、これ以上は甘えられないと言うリリティアの言葉に、ウルティオは真面目な顔でピッと人差し指を上げた。
「リリィ、これは俺の我儘なんだから遠慮なく受け取って。リリィを着飾らせる事が出来るのは、君の魔法使いである俺の特権だろう?」
そう言って戯けたように笑みを浮かべるウルティオに、リリティアはへにょりと眉を下げる。心から楽しそうにそんな事を言われては、断る事などできなかった。
「それなら、せめて私に何かお手伝いできる事はありませんか?書類仕事ならある程度こなせると思います。それに、怪盗さんのお仕事も、今は出来なくても覚えてみせます」
少しでも役に立ちたいと必死なリリティアに、ウルティオは困ったように笑うとふわりとリリティアの頭に手を置き静かな声で告げる。
「リリィ、君はこんな薄汚れた仕事に関わらなくて良いんだよ」
笑顔だけれど有無を言わせぬ言葉に、リリティアはとっさに口をつぐんだ。
「それに、今はまだブランザ公爵やカスティオン侯爵が君を探しているかもしれないから外に出るのは危険だ。俺も明日からしばらく仕事で出る事も多くなる。だからリリィには安全のためにこの家にいてほしいんだ」
公爵たちからの追手の事を考えれば、リリティアはこれ以上我儘を言う事など出来なかった。しゅんと肩を落として頷く。
「分かり、ました。我儘を言ってごめんなさい」
「いいんだよ。リリィはいくらだって我儘を言って良いんだ。今まで我慢していた分をさ、全部俺に言ってくれたら嬉しいな」
「……嬉しい、ですか?」
不思議そうにリリティアが首を傾げれば、ウルティオは至極真面目に頷いた。
「ああ、嬉しいよ。すごくね」
迷惑ばかりかけている自分がさらに我儘を言う事の何が嬉しいのか分からないまま、しかし何故か胸がふわふわと温かくて、リリティアはそっと胸を抑えた。
「じゃあ夕食にしようか。今日は簡単なものしかないけれど」
元から準備されていたのか、ウルティオがさっと火を入れて温めたシチューとパンを用意してくれた。スプーンで湯気の出るシチューを掬い取って口に運ぶ。
「美味しい……」
久しぶりの温かい食事にリリティアの口元が自然と綻ぶ。温かい夕食など、久しぶりだ。侯爵邸では八年間、毎日冷え切った食事をひとりで食べていたから。
顔を上げれば大好きな人が笑って一緒に食事をとってくれる。とりとめのない話もすべてが嬉しくて、楽しかった。
(こんなに美味しい食事、はじめて……)
リリティアは、お腹の底からポカポカと温かくなるのを感じながら、その晩は新しく自分のものとなった部屋で眠りについたのだった。




