最後の夜
「問題は起こすんじゃないぞ!一週間後には、ジェイコブ様との大切な結婚式が控えているんだからな!」
侯爵の言葉に一瞬びくりと体をこわばらせた後、リリティアは静かに頭を下げる。
「……分かっております」
その後、思う存分怒鳴り散らかし満足した侯爵は退出の挨拶もなく帰って行った。
ズンズンと荒々しい足跡が遠ざかると、室内は静寂に包まれる。
リリティアはそっと息を吸い込んで、ゆっくりとバルコニーへと向きなおる。
静かにカーテンを引けば、窓の外には険しい表情のウルティオが立っていた。
「……一週間後に結婚式があるというのは、本当なのか……?」
リリティアは瞳を伏せ、俯きながらコクリと頷く。
「どうして、言ってくれなかった⁈君は、結婚式は来年だと……!」
焦ったようなウルティオの言葉に、リリティアは俯いたまま答えない。
「俺の気持ちを無理に受け取ってほしいとは言わない!だから、とにかく今はここから逃げ出そう!住む場所も、仕事も、俺が何とでもしてあげるから!だからリリィ、ここを開けてくれ!」
窓を叩くウルティオに、リリティアはゆっくりと顔を上げた。
「いいえ、このまま、聞いて下さい」
その表情は、全てを飲み込んだように静かで、そしてとても美しいものだった。
「本当は、もっと早くに言わなければなりませんでした」
リリティアは静かな声でそう告げて、寝衣の上に羽織っていたガウンのリボンに震える指をかけた。
「私は、確かに悪役令嬢なのです。あなたの優しさにつけ込んで、嘘を、ついていました」
「リリィ、なにを……?」
ウルティオが困惑した声をあげる。
リボンが解かれて、スルリとガウンが床に落ちた。
「……本当は、知っていたんです。婚約破棄なんて、無理なこと」
露わになった白い肩。
その左肩には、少女には全く似つかわしくない赤黒い紋様が刻まれている。
「それ……は……」
愕然とした表情で、ウルティオが掠れた声をこぼす。
「私の腕には、……奴隷紋が、刻まれています」
リリティアは、その紋様を隠すように右手で左腕を握りしめた。
「……なぜ、そんなものが……」
「私は、すでにブランザ公爵家の中枢の仕事を行っているのです。成人間近の公爵家嫡男の仕事を全て肩代わりしているのですから。
……その機密を抱えた人間が決して逆らわないよう、そして公爵家以外で生きていけないようにするための処置でした。奴隷紋が刻まれた者は、もはや人の扱いは受けられません。貴族としてはもちろん、バレれば平民として暮らしていくことも困難でしょう。そして公爵家から、確実に追手がきます」
例えオルティス王国が奴隷を禁止していても、近隣諸国にはまだ奴隷制度の残る国は多い。建国の時代から変わる事のないこの奴隷紋の紋様は、どの国でも同じものが使われている。人々がこの紋様を見て思うのは、嫌悪。奴隷は物であり、同じ人間とは見做されない。
「それに私は、ブランザ公爵家の悪事の一端を担っていた人間です。私のせいで、何人もの人が辛い思いをされた事でしょう。
……平民のヒーローであるあなたのそばに居ることなんて、出来ないんです。私に、そんな資格はない。ましてや、こんな奴隷紋をつけた女なんて……。
ーーーだから、これで最後……」
リリティアはウルティオとの間を遮る窓ガラスに手を伸ばす。
ウルティオの叩きつけられた拳のある場所にそっと手のひらを当てた。
ガラス越しに、二人の手が合わさる。
コツリと額を窓に押し付けると、絞り出すように声を届けた。
ーーーいつだって私を助けてくれた怪盗さん。
「婚約破棄が無理な事が分かっていながら、怪盗さんに黙っていてごめんなさい。……それでも、あと少しだけ、そばに居る理由が欲しかったんです」
ーーー卒業まで。それまでの間だけ、あなたのくれる溢れるほどの優しさに触れていたいと、願ってしまった。
「もう、十分なんです。ウィルは幼い日の約束通り、私を助けてくれました」
リリティアの言葉に、ハッとしたようにウルティオの目が開かれる。
「まさか、気づいて、いたのか……?どうして……」
「知っていますか?『灰かぶりのお姫様』も『怪盗ウルフの冒険』も、私たちが生まれる前に絶版となっているんです。平民がお姫様になったり、平民の怪盗がお姫様を助けるのは、血統を重んじる貴族にとっては不快なものだったから。
雑貨屋のおじさんも、もう売れない、しかも持っていたら問題になる本を処分したかったから私にくれたのかもしれません」
リリティアはそっと目を閉じる。
――だけどそのお陰で、私はあなたがウィルだと気づくことができた。
とても優しくて、文字も書けて、所作も貴族のように綺麗だった男の子。追放されたルーベンス公爵家の本来の正統なる後継者と同じ年齢で、澄んだ青空色の瞳をもったウィル。そして、太陽のもとで透けるその瞳が、時折青空のように綺麗な青色になる怪盗さん。
「問題ありとして絶版になった絵本を、子供に読ませる貴族や富裕層はいないでしょう。そしてそれ以外の平民は文字は読めず、子供に絵本を買い与えるような余裕もありません。あの絵本の内容を知る若者は、ほとんどいないはずなんです」
リリティアは胸元のお守りのガラス玉をギュッと握りしめる。
「初めに気付いた時、とても驚いたけれど……またウィルに会えて嬉しかった。顔も声も朧げにしか覚えていなかったけれど、ウィルのくれた言葉とガラス玉のお守りは、ずっと私を支えてくれました」
ラベンダー色の瞳が、幸せそうに緩む。
「なにより、約束通り私を助けに来てくれた事が、本当に嬉しかった」
「俺は、まだ君を救えていない!」
ウルティオの激昂に、リリティアはフルフルと首を横に振って、綻ぶような笑みを浮かべた。
「たくさん、本当にたくさんの優しさをもらいました。もう、返しきれないほどに。私はこれ以上ないほど、救われたのです」
それこそ、一生分の幸せをもらったのだ。私なんかには勿体無いほど、優しくて、宝石みたいに輝く幸せな日々だった。
「今まで、あなたの優しさにたくさん甘えてしまってごめんなさい」
焦燥を含んだ真夜中色の瞳を真っ直ぐに見つめて、リリティアは涙を流さないよう耐えながら、精一杯の笑顔を浮かべた。
「……私の優しい怪盗さん。いままで、ありがとうございました。
最後にひとつだけお願いを聞いていただけるのなら、ーーどうか、私の事は忘れてください」
ウルティオの息をのむ音が聞こえる。
リリティアは最後まで告げると、シャッとカーテンを引き、視界を遮った。
「っリリィ!リリィ‼︎ここを開けてくれ‼︎」
ウルティオの叫びを、リリティアは窓に額を押し付けながら唇を噛み締め聞いていた。そうしなければ、嗚咽が漏れてしまいそうだったから。
ウルティオの声に、廊下から衛兵がやってくる音が聞こえてくる。きっと外でも異変に気づいて衛兵がやってくるだろう。
(お願い、早く、逃げてください……)
リリティアの願いが届いたのか、やがて衛兵達の声と共にバルコニーから気配が消える。それを確認したリリティアは、ホッと息をつくと力を失ったように床に座り込む。
その途端、耐えていた涙が嗚咽と共に溢れ出た。
「ふ、う、うぅ……っ!」
うずくまり、声を押し殺すようにリリティアは涙を流し続けた。心が、引き裂かれるように痛い。
痛みには慣れていたはずなのに、痛くて痛くて、仕方がなかった。




