母の想い(3)
リリティアはウルティオが去ったバルコニーの前で、呆然と座り込んでいた。
(私、怪盗さんに何てこと……)
後悔から新たに涙が溢れる。
私なんかの為に貴族達の集まる場で危険を犯して婚約破棄に持ち込もうとしてくれた。治療院にも連れて行ってくれて、お母さんの手紙も持って来てくれた。
ずっと繋いでいてくれた手が、崩れそうだった私を何度も繋ぎ止めてくれたのに……。
怪盗さんがいなければ、母の死さえも知る事なく過ごしていく所だったと思えば、恐ろしさで体が震えた。
(それなのに、あんな態度をとってしまうなんて……)
去って行く時に見た痛みを堪えるような表情を思い出す。
母の死を受け止めきれない弱い自分が憎かった。
(ごめんなさい……)
ポタポタと落ちる雫が大切な手紙に染みを作ってしまいそうになって、リリティアは慌てて目を擦って涙を止める。
手紙の表紙の『リリィへ』という文字を指先でそっとなぞる。
まだ侯爵邸に来てすぐの、お母さんと笑い合えていた頃。覚えた文字を病室でお母さんに書いて見せていた事を思い出す。
『リリィが教えてくれるから、私も文字が書けるようになってしまうかもしれないわ』
そう言って笑って褒めてくれたお母さん。
もしかして、私の拙い覚書をずっと持っていてくれたのだろうか?文字を書けるようになっていたこと、知らなかった。そうまでして、何を伝えようとしたのだろう?
リリティアは震える手で手紙を開いた。
『私の可愛いリリィ』
初めの書き出しに、息をのむ。
こぼれ落ちそうな涙を、震える唇を噛む事で何とか耐えた。
『私が手紙を書くなんて驚いたでしょう?
実はね、入院中ずっとあなたの書いてくれた文字を使って隠れて練習をしていたのよ。
でも、ずっとこの手紙を書いて良いのか迷っていた』
続く言葉を覚悟するようにリリティアは手紙を持っている手に力が入る。
『あなたには私の病気のせいでずっと辛い思いをさせてきてしまったわね。あなたは私のために、ずっと一生懸命頑張ってくれていた優しい子。
あなたの優しさはずっと私の誇りだったけれど、でも、そのせいであなたが侯爵に使い潰されてしまう事が、ずっと心配だった。
私はもう長くない。この手紙を読んでいる時、きっと私はもうこの世にいないでしょう。その時、私という人質がいなくなってしまったら、今度はあなたに何かされてしまうんじゃないかとずっと気がかりだった。
だから、あなたには私が生きているうちに、逃げ出して欲しかった。
あなたは私と違って頭も良くて、きっとどこででも生きていける。でもそう言っても優しいあなたはきっと私を見捨てる事が出来ないと分かっていたから、わざと嫌われるように演技をしていたの』
喉から嗚咽がもれる。
お母さんの言葉をちゃんと見たいのに、視界が滲んで読みにくい。
『ずっとあなたを傷つけて、本当にごめんなさい。
でもね、私の望みはあなたが幸せになってくれる事だけなのよ。
だから私がいなくなっても立ち止まらず、幸せになって。いつだって、笑顔でいてね。
あなたの笑顔は、みんなを幸せにしてくれる。あなたの笑顔を見るだけで、私はいつも疲れなんか吹っ飛んでしまったわ。
リリィは私を幸せにしてくれると言ってくれたけれど、私はね、リリィが産まれてくれてからずっと、幸せだったわ』
その言葉に、目頭が熱くなる。堪えられずに落ちた一雫の涙が、手紙に小さな染みをつくる。
私は、お母さんに嫌われてはいなかった。
お母さんは、私の幸せを願ってくれていた。
それだけで、絶望の中で縮こまっていた幼い自分が救われるようだった。
『大好きよ、私の可愛いリリィ』
「っ、私も、大好きよ、お母さん……」
お母さんの優しい手も、微笑みも、全部覚えている。
でも、本当は最後に、ちゃんと会いたかった。ありがとうって、言いたかった。抱きしめたかった。抱きしめて、欲しかったよ……。
『本当は、あなたの幸せな花嫁姿を見てみたかった。きっと世界一綺麗な花嫁さんでしょうから。でも、それはこの手紙を書くことを決心させてくれたあなたの大好きな怪盗さんに託そうと思います。どうぞよろしく伝えてね。
あなたを愛する母より』
最後の言葉に、ふふ、と笑いが溢れる。笑いと共に、ぼたぼたと大粒の涙も一緒に降ってくる。
どれだけ目を拭っても、涙が後から後から溢れてくる。涙は枯れる事がないのだろうかと不思議になるほど。
「……怪盗さん、ありがとう、ございます……」
いつだって私を救ってくれる怪盗さん。
あなたのくれたガラス玉は、言葉は、侯爵邸でひとりぼっちだった私をずっと支えてくれた。
再会したあなたは、いつも私の手をとって、私の心をすくい上げてくれた。
お母さんの想いを、届けてくれた。
どれだけ感謝しても足りないくらい。私の、命より大事な人。
ーーねえ、怪盗さん。私は、あなたの為に何ができますか?
***
その夜は、まるで初めて怪盗さんと出会った日のように大きく明るい月が夜空に浮かんでいた。
窓辺の椅子に座り静かに手元の手紙を眺めていたリリティアは、バルコニーから聞こえたノックの音にパッと顔を上げると、すぐに窓を開けてバルコニーに降り立った人物を見上げる。
黒いマントを羽織り、漆黒の髪を靡かせたその姿。真夜中色の瞳がリリティアを映して優しく緩まるのを見ると、泣きたくなるほどに胸が締め付けられる。
「こんばんは、お嬢さん」
「っ、こんばんは、怪盗さん……」
泣きそうな声で挨拶を返したリリティアに、ウルティオは小さな笑みを浮かべた。
「……手紙、読めたかい?」
ウルティオの問いに、ブンブンと首を縦に振って答える。
「怪盗さん、手紙を届けてくれて、ありがとうございました。
それから、ごめんなさい。怪盗さんは、私のために教えてくれたのに、私……」
「お嬢さんが謝ることなんて何もないよ。
分かっていたんだ。君が、何より大切にしていたお母さんの死を聞けば、冷静でなんていられなくなるだろう事は。でも、君をここから早く連れ出したかった俺が気が急いていたから、君を傷つけてしまったね。すまなかった」
「そんな!怪盗さんが謝ることこそ、全くありません!」
ウルティオはパッと顔を上げて必死で否定するリリティアの赤い目元を、右手でそっと優しくなぞる。そして全てを包み込むような笑みを浮かべた。
リリティアは、その笑みに泣きそうな気持ちになる。
大きな手の温もりにそっと目を閉じた後、リリティアはウルティオの左手をすくいとるように両手で触れた。
ピクリと手を動かしたウルティオの様子を見て、リリティアはそっと手袋を外す。
「この手の火傷……手紙のために……?」
手袋を外した手は、手のひら全体が赤くなっていてところどころに水ぶくれまであり、非常に痛々しい様子だった。
ウルティオは決まり悪そうに頭をかく。
「何でバレたんだ?格好つかないなぁ。
こんなのかすり傷みたいなものだから心配いらないよ」
戯けて言うウルティオに、痛みを飲み込むようにリリティアがそっと言葉を紡ぐ。
「光よ……」
優しい光が二人を包み、奇跡のようにその火傷の痛みも傷も消し去ってゆく。最後の光の残滓が、戯れるようにリリティアの周りを踊りその表情を照らした。
「私なんかのために、ごめんなさい……」
悲しそうにウルティオの左手を両手で握って俯いたリリティアの手を、今度は逆にウルティオの大きな手が包み込んだ。
「なんか、じゃない。お嬢さんだからだ。
お嬢さんが大切だから、俺が、俺のためにやったんだよ」
戯けた様子はスッと消え去り、真剣な瞳がリリティアを見つめる。
「お嬢さん、俺に、盗まれてくれないか?」
逸らすことができないほど真剣な真夜中色の瞳の中に、強い意志を感じて息をのむ。
「もちろん断ってくれても良い。そうしたら約束通り、これからも婚約破棄に協力する。お嬢さんを幸せにしてくれる貴族を絶対に探し出すよ。
……けど、もしお嬢さんが望んでくれるなら、ーーー俺と、一緒に行こう」
「あ、で…も…、そんな、ご迷惑は……」
突然の言葉に、リリティアは狼狽えるように緩く首を振る。そんなリリティアの両手を、ウルティオは宝物のように優しく握った。
「この前、俺は君の立場が心配だからって言ったね。だけど、それはただの言い訳だったんだ。
ーーー本当は、ただ、君を攫っていきたかっただけなんだよ」
リリティアの瞳が揺れる。ドクドクと、心臓の鼓動が早鐘を打った。
真夜中色の瞳の中に、揺れるラベンダー色の瞳が映り込む。
「俺は、怪盗なんてやってる犯罪者だ。一緒にいては、危険な目にあう事もあるかもしれない。だから君には、日の当たる場所で幸せになってもらいたかった。
でも俺は、自分で君のために見繕った相手に嫉妬なんて馬鹿な真似をするくらい、……君が、好きなんだ」
ラベンダー色の瞳が大きく見開かれた。
ウルティオの言葉に、胸がいっぱいになって目頭が熱くなる。
嬉しくない訳がない。現実なのかと信じられないくらい、夢みたいに幸せで、嬉しかった。
怪盗さんは……怪盗さんの青空みたいな笑顔は、私の光だった。大好きで、大切な人。
怪盗さんの為ならば、私はきっと何だってできる。
そんな人に好きだと言ってもらえて、まるで、奇跡みたいで……。
ーーーだからこそ、頷く訳にはいかなかった。
リリティアは、そのまま縋るように伸ばしてしまいそうな手を必死でぎゅっと握りしめる。
そしてゆっくりと握られていた手を離すと、震える声で告げる。
「……ごめんなさい、怪盗さん。私は、あなたと行く事はできないんです」
「……っ、そうか……」
リリティアの言葉に、ウルティオは苦しげに拳を握りしめた。
リリティアは、自分の表情が見られないように、必死に歯を食いしばって俯いた。
その時、廊下からドタドタと騒々しい音が聞こえてくる。
「っ!」
誰かが部屋へ入ってくるのを察したリリティアは、ウルティオが見つからないよう急いで部屋に入ると窓の鍵を閉め、カーテンも閉める。
ノックもなく扉を開けて入って来たのは、夜会にでも行った帰りなのであろう、いつにもまして豪華な衣装を羽織ったカスティオン侯爵だった。
侯爵はリリティアをジロリと見ると不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「今日の夜会でブランザ公爵からお前の様子を聞かれたが、まさかまだ勝手に母親の所に行こうだなんて考えてないだろうな?」
「……はい」
俯いたリリティアは、ギュッと寝衣のスカートを握って従順に頷いてみせた。
「問題は起こすんじゃないぞ!一週間後には、ジェイコブ様との大切な結婚式が控えているんだからな!」




