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懐古(1)

ウルティオ視点です。



――何もかもを失いどん底に落ちた者にとって、その時差し伸べてくれた手はどんなに小さくとも、特別だった。




ウィリアム・ルーベンス。それが俺が生まれた時に授けられた名前だった。

司法を司るルーベンス公爵家の嫡男として生まれた俺は、優しい両親としっかり者の姉と幸せな幼少期を過ごした。常に中立で、司法に権力を持ち込むべきではないとする清廉潔白な父は、今の貴族の汚職まみれの現状を憂い、王族への忠義も忘れなかった。そんな父を誇りとし、俺は勉学に励み当然のように将来は父の後を継ぐつもりでいた。

当時の王も父を頼りにしており、王城にもよく俺を連れて訪れた。三歳年下の王太子ジョルジュもずいぶんと俺に懐いてくれており、兄のように慕ってくれた。王太子の側近となる事が決まっている親友のマルティンとともに、将来は王やジョルジュを支えてゆきたいと思っていた。


貴族の横暴が当たり前になってきた当時においても、平民のみならず貴族の裁判も執り行う司法の最高権力である司法長の父は、どんなに賄賂を積まれても罪を見逃すようなことはしなかった。

しかしそれは、当然のように後ろ暗い貴族達にとっては邪魔に思われていたのだった。



――当時十二歳だった俺は、何も把握出来ないうちに全てが終わってしまった。


誰よりも公明正大だった父は、ありもしない冤罪で投獄され、しっかりとした裁判もされずに死刑が言い渡された。もとから体の弱かった母は心労で倒れ、父の処刑日のしばらく後に儚くなった。

家門は取り潰しではなく、父と折り合いの悪かった父の弟が継ぐことが決まっており、その息子――つまり俺の従兄弟にあたるモーガンが我が物顔で俺たち家族の持ち物を奪い笑ながら俺たちに追放を告げた。

モーガンは姉のグレーシアに自分の妻となるなら追放を取り消してやると迫ったが、拒絶されたため激昂し、姉は娼館に売り払われた。


俺は、何も出来なかった自分が殺したくなるほど惨めで、衛兵に放り出された石畳に這いつくばりながら、胸の中にマグマのように沸々とたぎる怒りの炎を燃やし復讐を誓った。

恐らく今回のことに関与していただろう叔父と従兄弟のモーガン、そして父の冤罪に関与したであろう貴族たち。そいつらの罪を白日の元にさらし、必ず引き摺り下ろしてやる。それだけを糧に、泥水を啜るような生活に耐えてきた。


貴族の身分を剥奪された俺ではそいつらの不正の証拠を集めることは不可能だ。それならば、そいつらが後ろ暗い行為を行うための手足となる裏ギルドから辿っていくのが俺にできる唯一の道だった。

そうして俺は、復讐を胸に裏の世界へと沈んでいった。



裏ギルドでは莫大な金が動き、貴族たちの違法行為を実行している。邪魔な政敵の暗殺などの依頼も横行していた。この裏の世界で父の冤罪の証拠を手にするためには、のし上がっていくしかない。

のし上がるために、生き残るために、俺は自分の手を汚してきた。


誠実だった父が今の俺を見たら何というだろうかと、血に濡れた手を何度も洗いながら眠れずに、夜中に何度も吐いた夜もあった。

剣術を学んでいても、まだ幼く力が弱い子供では上からの理不尽な命令にも逆らうことは出来ない。ズブズブと、自分が汚泥に沈んでいるように感じていた。



そんな時、ある仕事で同じ組織の男がミスを犯して敵対組織に追われる事になった。

仲間だったはずの男は俺の足を切りつけて囮にし、逃げ去っていった。この世界ではこんな裏切りは日常茶飯事。俺は全身を負傷しながらもがむしゃらに相手の攻撃をいなし、這々の体で逃げ出した。


内臓に達するような重症は回避しても、全身の切り傷から血が流れて体が寒さで震えてきた。意識が朦朧としてきたところで、俺は道端のゴミに足を取られて路地裏に倒れ込んだ。


道ゆく人々は、血だらけで蹲る俺に汚い物を見るような目を向ける。そして関わらないように足早に去っていった。当然だろう。俺自身も、誰かが助けてくれるだなんてカケラも思っていなかった。多くの人を救ってきた父が冤罪で捕えられた時も、ルーベンス家が叔父に乗っ取られた時も、誰も助けてなんてくれなかったのだから。誰だって、自分の身が一番なのだ。


――ああ、俺はここで死ぬのか。


貴族の悪事の片棒を担ぐ命令にも歯を食いしばりながら手を染め、自身の誇りを汚し復讐のために手を血で汚してきた。それなのに、それは全て無駄になってしまった。俺は、ただの犯罪者としてここで死にたえることになる。

深い絶望感が襲い、目頭が熱くなる。


薄汚れた暗い路地裏から遠くに見える青空を霞む視界で眺めながら、俺は一筋の涙を流していた。


「申し訳ありません、父上、母上……」



しかしその時、全てを諦め瞳を閉じようとした俺の視界に、とても綺麗なラベンダー色が飛び込んできたのだ。



「だ、だいじょうぶ?」



柔らかなミルクティーブラウンの髪を乱して心配そうに覗き込んできた可愛らしい少女の姿に、俺は朦朧とした意識の中で天使のお迎えが来たのかと思った。


「わたしの家はすぐそこなの!そこなら手当てができるから、がんばって!」


その少女は天使ではなく現実の人間だったようで、一生懸命に俺を支えて小さな家に俺を連れていった。

そして血だらけの俺を厭わずに小さな手で手当てをしてくれた。


「わたしはリリィっていうの!あなたのお名前は?」

「……ウィル」


ウィリアム・ルーベンスの名は捨てていた。裏ギルドでは全く別の偽名を使っていたのだが、なぜかこの時、俺は家族に呼ばれていた愛称を伝えていた。


仕事に行っていたリリィの母親も困った顔をしながらも俺を受け入れてくれて、俺が回復するまで家に置いてくれることになった。リリィの懇願が大きかったのだろう。俺が必要ないと言っても、なぜだかリリィは生きる気力を無くしてろくに喋りもしない怪しい俺を一生懸命看病してくれた。


「……何で、俺を助けた?」

「?元気になって欲しかったからだよ!」


何の裏もない太陽みたいな笑顔でそう答えるリリィに、俺は確かに救われたのだ。

何故か涙が溢れてきて、リリィは「どこか痛いの⁈」と慌てて俺を慰めては背中をさすってくれた。


その小さな手は、とても温かかった。


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