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拒絶と絶望


幼い頃、お母さんと二人で暮らしていたリリティアにとって、お母さんより大切なものなんて世界に存在しなかった。


『リリィ、大好きよ。あなたは、私の宝物』


そう言って撫でてくれる、お母さんの優しい声が、優しい手が、何よりも大好きだった――。


***


木立の中にはらはらと色付いた葉が舞い降りて、地面に紅と黄色の絨毯が出来上がっていく。その絨毯の上に座りながら本を読んでいたリリティアは、吹いてきた風にふるりと体をすくませた。


すると、そっと肩に上着がかけられて、驚いたように顔を上げる。


「こんにちは、お嬢さん」


顔を上げると、リリティアに自分の上着を提供したウルティオが心配そうな表情を浮かべて立っていた。その気遣いに、リリティアはふわりと笑みを溢す。


「ありがとうございます、怪盗さん。でも、私が上着をもらってしまっては怪盗さんが冷えてしまいます」

「俺は鍛えているからいいんだよ。それより寒くはないかい?そろそろ風も冷たくなってきたから、ここで待つのはやめた方がいいかもしれないね」


ウルティオの言葉に、リリティアはシュンとした表情を浮かべる。確かに最近は、肌寒く感じる日がグッと増えてきていた。


「ここで怪盗さんとお話しするの、とても楽しみだったので、少し、残念です……」

「大丈夫、冬の間だけだよ。また春になれば、ここで一緒に本を読もう」

「……はい」


ウルティオの言葉に、リリティアは静かな笑みを見せる。


本当は、どれだけ寒くたって構わない。誰も来ないこの場所であなたと共にいられるのならば、真冬でだっていくらでも待っていられるーー。


(でも、そんな事を言えば怪盗さんが心配してしまうものね)


リリティアはそっとかけられた上着の前を握り締め、その温もりに頬を緩めた。



***



今日もまたお母さんのお見舞いにやって来たリリティアは、お見舞いの籠を持ちながら大きな治療院の建物を見上げる。


最近は、ここに来るたびに緊張するようになった。そんな自分が少し悲しい。


日に日に痩せ細っていくお母さんを見つめる日々。


今日の顔色は悪くなっていない?今日は、私を見てくれる?

……声を、聞かせて欲しかった。

私を見ないようになってから、お母さんが何を考えているのか、分からなくなってしまったから。

言ってくれたなら、私が悪い所は全部直すから――もう一度、笑った顔を見せてほしかった。


小さく息を吐いてお母さんの病室のドアを開けようとしたリリティアに、横合いから声がかかる。


「リリティア様ですね。お母様の事で、少しお話が……」

「は、はい」


お母さんを担当している医師の話が進むたびに、リリティアの顔は青白くなっていく。崩れそうな体をなんとか立て直し、リリティアは医師に頭を下げた。






「お母さん、最近ご飯を食べていないと聞いたわ。もちろん無理して食べるのは良くないと思うけれど、でも、好きなものなら食べられるかもと思って、また、お母さんの好きなオレンジを持ってきたの。ちょっとだけでも、食べてくれたら嬉しいな」


リリティアは、震える声を抑えつけて何とか笑顔でお母さんにオレンジの籠を見せた。


つい先ほど、治療院の医師にこれ以上衰弱が続くようなら危ないと言われた。食事もほとんど摂っておらず、すでに起き上がることも難しくなってきている。


せめて、もう少しでも食事を取ってくれたなら。そう願うリリティアに、背を向けてベッドに寝ていたお母さんから唐突に――1年ぶりの、掠れた声が届けられた。



しかし焦がれていたその声は……いとも簡単にリリティアを絶望に叩き落とす。



「もう、来ないで。

あなたが貴族令嬢なんて続けるせいで、私はずっと檻みたいな病室の中で監視されてるのよ。ーーいい加減、私を解放して」



久しぶりに聞いたお母さんの声は――リリティアを拒絶するもの。そしてリリティアの心を切り裂く、刃物だった。


「おかあ、さん……」


手から滑り落ちた籠から、オレンジがコロコロと床に転がり落ちる。

そして、世界が崩れる音が聞こえた。


「あなたなんて、産むんじゃなかった」







リリティアは、どうやって家まで帰ってきたのか分からなかった。気づいた時にはいつもの裏庭の木立に座り込んで、薄闇のなか呆然と降りしきる落ち葉を見つめていた。



――1年前から、お母さんの様子はおかしかった。でも、きっと調子が悪いからだと、きっと先生が治してくれるからなんて、私は無神経な発言をしていた。

その事で怒っているの?

だったら、何度だって謝るわ。もう二度とそんな事言わないって誓うから。



……だから、産まなければよかったなんて、言わないで……。



リリティアは喉を掻きむしりたくなるような衝動のまま地面の土を握りしめる。


檻のような病室ーーーそう、その通りだ。お母さんは、私が抵抗しないようにする為の人質だ。私の行動で、治療が中止されたり、殺される可能性だってある。そんな立場、息苦しくて当然だ。


辛い思いをさせてごめんなさい。気づかなくて、ごめんなさい。


でも、私にはこうするしか選択肢がなかったの。お母さんの病気を治療してもらうには、こうするしか……。



お母さん、私、今以上に頑張るから。

誰にも負けないくらい勉強して、礼儀作法も今以上に完璧にする。公爵家の仕事だって余裕でこなせるくらいになってみせるから。

そうすれば、侯爵はもっと良い治療をしてくれるでしょう?そうしたら、お母さんは今度こそ元気になるかもしれない。そうしたら、退院して、自由になって、……また、私を愛してくれる?



ああ、きっと、お母さんが大変な時に、今の穏やかな時間がもう少し続いてくれたらなんて考えてしまったから罰が当たったのだ。大丈夫。もう二度とそんな事考えない。私はちゃんと、生涯侯爵との契約通りに公爵家当主の妻として仕事を続けていくから。

辛いなんて、もう思わない。ちゃんと心を殺して生きていくから。今だって、涙なんて流れてないでしょう?ちゃんと出来ているでしょう?


心を殺すの……。ちゃんとできるように。もう、余計な事を考えないように……。


「大丈夫……。私、できるわ……。大丈夫……」


ラベンダー色の瞳から光が失われそうになっていたその時、大きな声がそれを遮った。




「大丈夫な訳ないだろ‼︎」




リリティアが緩慢な動作で顔をあげれば、そこにはいつの間にやってきたのか、目の前で苦しそうに顔を歪めたウルティオがリリティアの肩を痛いくらいに掴んで怒鳴るように声を上げていた。


「何があった⁈そんな顔して、大丈夫な訳ないだろう⁈」

「……私は、大丈夫ですよ?大丈夫……」

「……今日は、君の母親に会いに行くはずだったよな。そこで、何があった?」


ビクリと震えたリリティアに何かあった事を確信したウルティオは、追求の手をゆるめなかった。今、聞き出さなければ取り返しのつかない事になると本能が告げていた。


絶対に聞き出すまで引かないという気迫を感じ、リリティアは俯いて蚊の鳴くような声で口を開いた。


「お母さんに、もう、来ないでって、言われたんです……。私なんか、産むんじゃ、なかった、って……」


血を吐くようなリリティアの言葉に、ウルティオの顔が険しくなる。

リリティアは涙を流していないのが不思議なくらい、深い深い絶望を瞳に宿して口を動かす。そうしないと、全てが崩れてしまうとでもいうように。


「きっと、最近幸せな事が多過ぎて、罰が当たったんです。

でも、大丈夫なんです。私はもう、この生活に不満を持つことなんてしないから。怪盗さんも、もう、大丈夫ですから……」


何も写さない瞳で、リリティアは言葉を紡ぐ。


「私、ここに引き取られる時誓ったんです。お母さんのために、絶対に耐えてみせるって。なのに、怪盗さんの優しさに縋って、甘えて……。たくさん、迷惑かけて……。それが、間違っていました。私は、お母さんのことだけ考えなきゃいけなかったのに……」


「リリィ!!!」


止めどなく言葉を紡いでいたリリティアは、ウルティオに怒鳴るように名前を呼ばれてビクリと肩を震えさせた。


「リリィの幸せを願って何が悪い⁈」


真っ正面からあまりにも真剣な真夜中色の瞳に射すくめられ、言葉が止まる。


「俺は怪盗だから、自分勝手なんだ。

俺は、リリィが幸せを諦めるなんて許さない。

リリィの心を殺すことなんて、絶対に許さない!!!」


いつもリリティアを気遣ってくれる態度とは全く異なる、有無を言わせぬほど強い言葉。でも、怖いなんて思わなかった。


「リリィがいらないと言うのなら、全部俺が奪ってやる」


だって、あまりにも真摯に、私の幸せを願ってくれている。その心が、痛いくらいに胸を打った。


「……だから、頼むから、俺の前では心を取り繕うことはやめてくれ」


懇願するようなウルティオの言葉に、心を覆っていた暗闇がこじ開けられる。差し込んできた光が眩しくて、リリティアの瞳が熱くなった。


ひくりと、喉が引き攣る。


どうして、決心した所にこんな言葉をかけてくるの?

どうしていつも、私を救い上げてくれるの?


どうして、こんなに、好きになってしまったのーーー?


「うっ……っ、うぅ……」


決壊するかのように、ラベンダー色の瞳から大粒の涙が次々と溢れてくる。


今にも消えそうな小さな震える背中に腕を回し、ウルティオはギュッとリリティアを胸に抱きしめた。

ウルティオの温もりが、リリティアの冷え切った体を優しく包む。

その温もりに縋るように、リリティアはウルティオの胸に額を押しあて声を殺して泣き続けた。






ウルティオの胸で壊れたように泣き続けていたリリティアが泣き止んだのは、辺りがだいぶ暗くなってきた頃だった。


「落ち着いた?」

「はい……。ごめんなさい、怪盗さん。こんな時間までご迷惑かけて……」

「迷惑なんて思わないさ。……もう、大丈夫かい?」


ウルティオの問いにコクリと頷き、リリティアは赤い目のまま小さく微笑んでみせた。その頬を、ウルティオがムニっとつねる。


「無理して笑わなくていいって言っただろ?」

「……はい」

「お嬢さん、俺は君の協力者だ。だから、何かあれば俺に伝えて。約束だ」

「はい……。怪盗さん、今日は、ありがとうございました」


これ以上戻るのが遅くなれば、家の者に伝わってしまうだろう。それに、これ以上一緒にいては、離れがたくなってしまいそうで怖かった。

リリティアは振り切るように、邸宅へ戻るために後ろを向いた。



「……なあ、俺に、盗まれる気はないか?」



背後から聞こえたウルティオの言葉に、リリアティアは息をのんで全身の動きを止めた。


ドクリと痛いほどに刻まれた胸の鼓動に、全身が震える。滲む視界を、目を瞑って必死に耐える。

気持ちが溢れそうな胸の前でギュッと震える手を握り締めると、小さく息を吐き出して何事もなかったかのような笑顔を浮かべてウルティオに振り返った。なんて事ない冗談に対して、笑うように。


「ふふ、ナンパですか?残念ながら、私はお母さんの治療ために政略結婚をしなければなりませんので」

「……それは残念だ」


ウルティオも、何かを飲み込むように作った笑顔を浮かべると夜の闇へと消えていった。


リリティアは、左腕をアザができるほどに握りしめ、いつまでもウルティオが消えた方向を見つめていた。




***



侯爵邸からの帰り道、ウルティオは街の裏道にスッとその身を滑り込ませた。暗い路地裏には、上背があり威圧感のある隻眼の大男が寄りかかっている。

ウルティオが現れるとスッと背筋を伸ばした大男に、ウルティオは視線だけ向け命令を下す。


「ガス、至急調べたい事がある。治療院に人を送り込めるか?」

「ただでさえ人手不足なのに無茶言わないで下さいよ。あそこはコネが物を言うからその繋がりを得ようとすると金かかりますぜ?」

「金に糸目はつけない。出来るだけ早く調べるんだ」


その有無を言わせぬ冷めた態度は、リリティアの前とはまるで別人のようだった。


「ったく、はいよ!ボスの頼みならしゃあねぇな。で、誰を調べるんですか?」

「……カスティオン侯爵家で治療費を出している、オリアという女性の現状を」



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