別れ(3)
「これは、何の騒ぎだ!」
静まり返ったその場に響いたのは、誰か生徒が呼んだのだろう、この王立学園の学園長の焦った声だった。汗を拭きながら大きなお腹を抱えて小走りでやって来た学園長に、ジェイコブが怒鳴り声を上げる。
「学園長!この教師を今すぐクビにするんだ!こいつは生徒に手を出した淫乱教師で、この俺に不敬を働いた!それにリリティア・カスティオンも退学だ!ビアンカを階段から突き落としたんだ!殺人未遂だぞ!」
狂った様に捲し立てるジェイコブに、学園長は怯んだように汗を拭く。
「さ、殺人未遂⁈そ、その様な事があったのですか?し、しかし、念のため状況を確認させていただきたいのですが……」
「私が説明いたしますよ、学園長。
ブランザ公爵令息は婚約者が居るにも関わらず、ビアンカ嬢と不貞を働いておりました。そこで邪魔になったリリティア嬢を貶めるために、ビアンカ嬢を階段から突き落としたという冤罪で糾弾しようとしていたのです。しかしリリティア嬢はビアンカ嬢に指一本触れておりませんし、ビアンカ嬢も怪我一つありません。これで殺人未遂を主張すれば当学園が非常識の誹りを受けてしまうでしょう」
「黙れ!この俺が殺人未遂だと言っているんだ!平民が何を言っても無駄なんだよ!学園長、ブランザ公爵家に楯突くつもりか⁈」
「ひ!そ、その様なつもりでは……」
怯えをみせる学園長に、たまたまその場で成り行きを見ていたセドリック・ハイドリーが口を挟んだ。
「学園長、ブランザ公爵令息は冷静に冤罪を指摘したウォーレン先生に対して火魔法で攻撃を仕掛けていました。それはここにいる皆が目撃しています。それこそ殺人未遂ですよ」
滝のような汗を流す学園長は、頭の中で素早く自分の保身について計算しているのだろう。目がキョロキョロと定まらずに揺れている。しかし貴族派筆頭のブランザ公爵家の嫡男を処罰することなどできないのは彼の様子を見ていれば容易に想像がついた。ウルティオは、学園長に理解ある声音で声をかける。
「学園長、生徒の悪辣な行為へのご心痛お察しします。罪のない生徒を助けるためとは言え、この様な大事となってしまった事も非常に申し訳ないと思っております。しがない平民の臨時教師の分を超えていました。大人として、私は今回の責任をとるつもりです」
ウルティオの言葉に、学園長がピタリと汗を拭く手を止めてウルティオを見る。
「ほう……。ウォーレン先生が、責任を?」
「はい。私がブランザ公爵令息に無礼を働いたのは事実。それにより私が責任をとって教師の職を辞せばブランザ公爵家への弁明となるでしょう。その他の件は、生徒の将来を慮った学園長のご配慮で無かった事にすれば良いのですよ。ブランザ公爵家でも、ご子息の問題行動を隠す事が出来て学園長に感謝される事でしょう」
「ふむ、全て無かった事として、ウォーレン先生の不敬罪のみとするのか……」
自身の保身しか考えない学園長は、ウルティオの提案に魅力を感じた様子で口の中でぶつぶつと言葉を連ねる。
しかし、リリティアにとってはそんな提案とても受け入れられるものではなかった。
「ウォーレン先生が全ての責任を取る必要などありません!私を庇っていただいたのですから、責は私に……!」
「俺はこいつらに罰を与えろと言っているんだ!言うことを聞かないか!」
必死に言い募ろうとするリリティアと、叫ぶジェイコブを、ウルティオが遮る。
「リリティア嬢、これは教師としての私の責任ですから。そうですよね、学園長」
「う、うむ、そうだな。生徒の更生のためにも、今回のことは無かった事としよう。しかし、ブランザ公爵令息への不敬罪については言い訳出来ん。残念だが、ウォーレン先生には今日を持ってこの学園から去ってもらう」
「そんな……」
学園長の言葉に顔を青ざめさせるリリティアに困った様に小さく微笑んでから、ウルティオは学園長に頭を下げた。
「かしこまりました。直ぐに荷物をまとめましょう」
「ブランザ公爵令息、後のことはこちらから公爵にお話させていただきますので。
他の者も早く教室に戻りなさい!授業が始まるぞ!」
学園長の声を皮切りに、その場は解散となったのだった。
***
荷物を纏めるためにと去っていったウルティオの背中を呆然と見つめながら座り込むリリティアに手を貸したのは、その場にいたセドリックだった。
「大丈夫ですか、リリティア嬢。教室までお送りします」
「……はい……」
力なくその手を取ったリリティアは、よろよろと立ち上がる。憔悴した様子のリリティアに、セドリックは躊躇いがちに声をかけた。
「ウォーレン先生は、恐らくリリティア嬢を守るためにあのように一人で責任を取られたのだと思います。やはり、素晴らしい先生です」
「……はい、分かっております」
リリティアは溢れそうな涙をグッと歯を食いしばって耐えた。
ウルティオがジェイコブを挑発し、責任を取ると言う形でこの件を片付けたのも、全てリリティアの為だったのだとリリティアは誰よりも理解していた。
ジェイコブがあのような事件を起こさなければ、今日の件はリリティアとウォーレン講師の不貞とビアンカを突き飛ばした冤罪の正否に焦点が当てられてしまっただろう。そうなれば、どちらが正しいにしてもリリティアの名には傷がつき、そしてまたジェイコブの証言が採用される恐れがあった。
だからウルティオは今までのジェイコブ達の茶番を暴露した上で挑発し、教師への魔法による暴力事件を起こさせたのだ。学園長が保身のためにジェイコブを罰せないのを分かった上で、それを含めてリリティアへの醜聞も全て無かった事にする為に。
「私は、ウォーレン先生に助けられてばかりだったに、何も恩を返せず、こんなご迷惑を……」
教室への歩を進めながらも、俯き声を震わすリリティアにどう声をかけようかとセドリックが躊躇っていると、教室の前で腰に手を当て仁王立ちで待っていたマリアンヌがリリティア達に気づき声を上げた。
「リリティア、話は聞きましたわ!あなたは今直ぐ、ウォーレン先生の所にお行きなさい!先生には上手く誤魔化しておきますから!」
「マリアンヌ様、でも、私は……」
「何を躊躇っておりますの⁈今を逃すと、もう会えなくなってしまうかもしれませんのよ!あなたにとって、大切な人だったのでしょう?」
「マリアンヌさま……」
じわじわと目元が熱くなってくる。
申し訳なさで顔を上げられなくなっていたリリティアに、最後に励ます様に頭に乗せてくれた手の温かさを思い出す。
(このまま会えなくなるなんて、嫌……!)
「私、行ってきます!マリアンヌ様、セドリック様、ありがとうございます!」
***
リリティアはウォーレン講師の準備室へと走った。息を切らせながら扉をノックするが、シンと静まり返った部屋の中は人の気配がしなかった。
恐る恐る扉を開けば、室内は綺麗に片付いていて、まるでここにウォーレンという教師がいたことなど幻のように感じてしまう。
(どうしよう、もう、学園を出て行ってしまったの……?)
泣きそうになりながら廊下に出て周りを見回したリリティアは、一縷の望みにかけて校門へと駆けていった。
リリティアは今までほとんど本気で走った事などなかった。軟禁状態で勉強をさせられ、少しでも淑女としての行動から外れた行為をしようものなら激しい罰を与えられた。だからいきなり走ろうとすれば、直ぐに息が切れて足がもつれてしまいそうになる。その事が、酷く歯痒かった。
(お願い!もう少しで良いから、早く動いて!)
とっくに足の限界が来ていたけれども、歯を食いしばって走り続けたリリティアの視界に、ちょうど校門を出ようとするウルティオの姿が映った。
「怪盗さん!」
大きな声で呼びかけたつもりでも、その声は息切れの合間に小さく掠れてしまった。
(お願い、気づいて……!)
「怪盗さん!!!」
精一杯の声で叫んだリリティアは、そちらに気を取られたせいで元からよろけていた足が上がらずにその場でバランスを崩して重心が前に倒れてしまう。
転倒の痛みを予想してギュッと目を瞑って衝撃に備えたリリティアは、しかし次の瞬間には逞しい腕にふわりと抱きとめられた。
「大丈夫かい?お嬢さん」
顔を上げると視界に広がるウルティオのいつもの笑顔に、リリティアの瞳からポロポロと涙が溢れた。急いで駆けつけてくれたのだろう、門の近くに荷物が投げ捨てられているのが見える。
リリティアが突然泣き出したことに、真夜中色の瞳がギョッと見開かれる。
「ど、どうした⁈お嬢さん、足を捻ったか?痛みがあるのか?」
先程学園長を上手く言いくるめた人物とは思えない狼狽ぶりをみせるウルティオに、リリティアはフルフルと首を振った。
「違うんです。怪盗さんに会えて、ホッとして……」
目元をグッと拭うと、リリティアはウルティオへガバッと頭を下げた。
「怪盗さん、ごめんなさい。私のせいで、こんな事に……」
憔悴した様子で謝るリリティアに、ウルティオは何でもないような笑顔で頭を撫でる。
「良いんだよ、ちょうどここで欲しい情報は粗方得ていたからね」
「本当、ですか?私のせいで、お仕事を邪魔してしまいませんでしたか?」
「大丈夫!元から教師になるのは短期間だけの予定だったからね。だからお嬢さんが気に病むことはないんだよ」
「でも、私のせいで怪我まで負わせてしまいました……」
「そんなの、お嬢さんが治してくれたじゃないか。むしろ俺がお礼を言う立場さ」
「ですが……」
どこまでも自分自身を責めるリリティアに、ウルティオは困ったように笑って腰を下ろすと同じ視線で目を合わせた。
「お嬢さん、俺の本業を忘れたのか?俺は怪盗ウルティオだよ。俺は、俺のやりたい事をやったんだ。謝られる事なんて一つもないよ」
「はい……」
怪盗さんの仕事の邪魔はしていなかった。その事に少しだけ安堵するも、リリティアは心にポッカリと穴が空いたような喪失感を感じてギュッと胸の前で手を握る。
「もしかして、俺と会えないのを寂しがってくれているのかな?」
「……はい。寂しい……です……」
戯けたように問われた言葉に、リリティアは自分の気持ちを素直に口にした。
自分で思っているよりもずっとずっと、心が痛い。
怪盗さんは貴族の情報収集の為に学園に来ていたのだ。だからずっと一緒にいられる訳ないと知っていたはずのに、突然の別れに心が悲鳴をあげていた。
ラベンダー色の瞳を潤ませたリリティアの嘘のない真っ直ぐな言葉に、ウォルテオはパッと拳で口を覆って横を向く。なんだか耳も赤いような気がしてどうしたのだろうと思っていると、突然ガシガシと頭をかいて大きな息を吐き出した。
「は――、そんな風に言われたら、決心が鈍る……」
「えと、ごめんなさい、困らせてしまって……」
リリティアが訳も分からず謝れば、ウルティオは顔から手を離してフッと柔らかい笑みを浮かべた。
「さあ、お嬢さん。こんな所を見られたら、また心無い噂を流されるかもしれない。そろそろ教室に戻りな。せっかく、もう何の心配もなく学園生活を送れるようになったんだから」
「……はい。全部、怪盗さんのお陰です。本当に、ありがとう、ございました」
泣きそうになる心に蓋をして心からの感謝を伝えて頭を下げれば、上からクスリと笑う声が聞こえる。
「大丈夫。また直ぐに会いに行くよ」
小さく呟かれた声に顔を上げようとした時、後ろから教師の声が聞こえてきた。ビクリと肩を跳ねさせて後ろを確認したリリティアが再びウルティオの方へ視線を戻すと、そこに居たはずのウルティオの姿は幻のように消えていた。
そこには、元から誰も居なかったかのように静かな木漏れ日だけがサワサワとリリティアに降り注いでいた。




