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別れ(1)


「お母さん、あのね、私、お友達が出来たの。マリアンヌ様って言ってね、とっても綺麗で凛としてて、でも少し恥ずかしがり屋な素敵な人なの。

最近は本当に学園が楽しくてね、全部全部、怪盗さんのお陰なんだよ。私も何か、もっと怪盗さんの役に立てればいいのに……」


ウルティオの話をする時、リリティアの表情はふわりと綻ぶ。


「最近あまり食べられていないって聞いたから、お母さんの好きなオレンジを持ってきてみたの。これもね、怪盗さんがくれたのよ。今剥くから待っていて?」


いそいそと皮を剥くリリティアは、綺麗に剥けたオレンジを皿に並べて差し出した。


「はい!とっても美味しいから、食べてみて?」


笑顔で差し出した皿が払われて、床に鮮やかなオレンジの果実が落ちてゆく。


「あ……、ごめんね、食欲、なかったかな……」


リリティアは笑顔のまま、滲む涙が溢れないように俯いて、床に散らばったオレンジを拾い集めた。



***



朝、リリティアは鏡の前で、ニコリと笑みを浮かべてみせる。自然に笑えている事にホッとした表情を浮かべると、鞄を持って部屋を出た。

乗り込んだ馬車の中から、ぼんやりと晩夏の空を眺める。青空に思い浮かぶ笑顔を脳裏に描き、リリティアは穏やかな表情で目を細めた。


(今日は、この前言えなかったお礼をきちんと伝えよう。せっかく怪盗さんが私のために考えてくれたのだもの。ちゃんと、私も考えなくちゃ)


――そう、初めから分かっていたこと。お母さんのために、私は絶対に政略結婚が必要なのだから。なにも悲観する事なんてない。

このまま、穏やかに卒業までの日々が過ごせるのならば、リリティアにとってそれ以上の贅沢はないのだ。


リリティアは自分の心に蓋をして、ゆっくりと前を向いた。




けれど、リリティアは忘れていたのだ。彼女が望むささやかな幸せは、いつも容易く壊れてしまうという事を。




休み時間、図書室に本を返しに行くために階段を降りていたリリティアの前に、まるで何もなかったかのように可愛らしい笑顔で立つビアンカがいた。


「ごきげんよう、リリティア様」


ニコリと貼り付けたような笑顔を浮かべるビアンカに、リリティアは何かされるのではないかと警戒し、一歩後ずさる。


「いやだ、そんなに警戒しないで?ただ、私はあなたに謝りに来たのよ。今まで本当に申し訳なかったわ」


階段の踊り場で足を止めたリリティアの前までやってきて、ビアンカは楽しくてしょうがないとでも言うように口元を歪めた。


「でも私、見ちゃったのよね。あなたとウォーレン先生が昼休みにコソコソ会っているの。まさかあのウォーレン先生が生徒に手を出していたなんて、皆んなが知ったらどうなるかしら?」

「な、にを……」


ビアンカの言葉に、リリティアは息を止めた。頭から氷水を浴びせかけられたように、顔は真っ青になり唇が震えて言葉が出ない。


リリティアの脇を通って、ビアンカがもったいぶるように階段を降りる。


「待って下さい!ウォーレン先生はそんなんじゃっ」


リリティアは、やっと何とか振り返ってビアンカの腕に手を伸ばそうとした。

しかしあと数段で降り切るところにいたビアンカは、ニヤリとリリティアに向き直った。

そして、鋭い悲鳴を上げながら階段から転がり落ちた。


「え……?」


あまりの驚きに、リリティアは体を硬直させた。

ビアンカの悲鳴に、わらわらと近くに居た生徒たちが集まってくる。そして手を伸ばした状態で固まるリリティアを多くの生徒が目撃した。

そして、予定調和のように廊下の奥からはジェイコブが走ってきて倒れ伏すビアンカを抱えた。


「ビアンカ、どうした⁈」

「あ、私、階段のところでリリティア様とお話していたら、いきなり突き落とされて……」

「なんだって⁈」


(こんな事までしてくるなんて……)


リリティアはビアンカとジェイコブの企みに顔を青くさせた。何より、このままでは怪盗さんが糾弾の対象になってしまう事が恐ろしかった。


(ダメ……、やめて……)


どんなに念じても、ビアンカの口を止めることはできない。リリティアは、ビアンカが悪意を口にするのをその場に立ち尽くすして見ていることしか出来なかった。


「私、見てしまったんです。リリティア様とウォーレン先生が密会してるとこ……!それで、そんな関係、良くないと思いますって、こっそりお教えしたら、いきなり……」

「何だって⁈お前、婚約者がいながらそのようなふしだらな関係を持っていたのか⁈しかもそれを指摘されたからとこんな事を!たとえ侯爵令嬢といえども、このような殺人未遂が許されると思うなよ‼︎」


殺人未遂との言葉に、ざわりと空気が揺れる。

いくら侯爵令嬢が男爵令嬢にした事とは言え、殺人未遂となれば罪に問われる。それはすなわち、令嬢としての価値の喪失。


(そんな事になれば、父は確実に母の治療を止めてしまう。ううん、もしかしたら、家名に泥を塗ったと殺されてしまうかも……。

それに、何よりこのままじゃ怪盗さんにとんでもない迷惑をかけてしまう。

このままじゃダメ、ちゃんと、声を上げなければ……!)


リリティアは倒れそうになりながらも、震える足を踏ん張って真っ直ぐに声をあげた。


「私は、誓ってウォーレン先生と恥ずべき行いをした事はありません。

それに、突き飛ばしたとおっしゃいましたがビアンカ様には指一本触れていません。彼女がいきなり倒れたのです」

「なんだと!これだけの生徒が見ていたというのに言い逃れ出来るはずないだろう!」

「しかし、私がビアンカ様を押した所は誰も見ていないはずです」

「俺が見ていた!」


リリティアが冷静に反論するも、周りの人々はどちらの言を信じれば良いのか分からないという顔をしている。確かに今までの出来事からまたジェイコブとビアンカの企ての可能性が高いと思う者たちもいたが、真っ向から公爵家嫡男に反論しようとする者はいないのだ。

それに、ウォーレン講師がことあるごとにリリティアを庇っていたのも事実。生徒達は、疑惑の目をリリティアに向け始めた。


「ジェイコブ様、私、足が……」

「足を捻ったのか!可哀想に。

殺人未遂では、たとえ侯爵令嬢であれ罰が下る。覚悟しておくんだな!それにあの教師もお終いだ!」

「私の事は何と言われても構いません!ですが、ウォーレン先生は素晴らしい先生です。悪意ある想像で、彼を貶めないで!」

「は!それだけ庇っているのが何よりの証拠じゃないか」


どんなに必死に言葉を重ねても、届かない。いや、そもそも、ジェイコブは元からリリティアを貶める事が目的なのだ。リリティアの話を聞くはずがなかった。それでも、リリティアは必死で声を上げた。怪盗さんが悪く言われるなんて、耐えられなかった。



「どうされたのですか?」



そこに響いたウォーレン講師の声に、リリティアは安堵と共に目頭が熱くなる。

しかし、今はウォーレン講師のことも疑われているのだ。


来てくれて嬉しい――でも、来てほしくなかった――。


リリティアは何か言おうと口を開くも、何も言葉を発することが出来なかった。そんな泣きそうなリリティアに、ウルティオは安心させるように笑ってみせた。


「は、来たな淫乱講師」

「おや、そのように言われるとは心外ですね。何故そのような誤解を?」

「誤解じゃありません!私、お二人がコソコソ会っているのを見ちゃったんですよ。成績も、ウォーレン先生にお願いしていじってもらっていたんじゃないですか?」


ビアンカの言葉に、ウルティオはクスクス笑う。


「ふふ、ただ二人で話をしていたら不貞となってしまうとは、恐ろしい事ですね。リリティア嬢の名誉の為にも、私はそのような行為は行っていないと法廷でもどこでも証言いたしましょう。彼女はあなた達とは違い、そのような恥ずべき行為を行うような人ではありません」

「な、この俺を侮辱するつもりか⁈」


ジェイコブの怒鳴り声にも、ウルティオは涼しい顔で返答する。


「大体、二人で話しているだけで関係を疑われるなんて、それでは私は何股もかけている最低男になってしまいますね。授業内容の質問などで何人もの生徒と二人で話をしたことがありますから。半分以上は男子生徒ですけどね」


「しかしこの女は激昂してビアンカを突き飛ばしたんだ!それが何よりの証拠だろう⁈」


ジェイコブの言葉に、ウルティオは厳しい表情を浮かべて反論する。


「そもそも、リリティア嬢はビアンカ嬢を突き飛ばしてなどいません。私はちょうど反対側の校舎の2階からこの階段の踊り場が見えていたのです。誓ってリリティア嬢は、ビアンカ嬢に触れてはいませんでした」


ウォーレン講師の言葉に集まった生徒達がざわつくが、それを咎めるような罵声が響く。


「うるさい!このブランザ公爵家嫡男の俺が言っている事が正しいに決まっているだろうが!!平民とこの俺、どちらの証言が信じられるかなんて、火を見るより明らかなんだよ!!」


ジェイコブの言葉に、生徒達のざわめきもピタリと小さくなる。その通り、どんなに暴論に聞こえても、証拠もなく証言者が二人いる状況で、貴族の証言が採用されるのはこの国では至極当然の事であった。

ジェイコブの言葉に拳を握りしめたウルティオは、冷たい怒りを宿した瞳を細めてその穏やかな教師の仮面をはき捨てた。


「なるほど、そうやってあなたは、身分で圧力をかけて無実の女性、しかも自らの婚約者に一生消えない醜聞をなすりつけようというのですね。今までのように」


ウォーレン講師の変化に、周りの生徒達が驚いたように息をのむ。


「あなたは、父親に決められた婚約者が初めから気に入らなかったのでしょう?なぜなら、妾腹にも関わらず、リリティア嬢は全てにおいて自分よりも優秀で、父親にも気に入られていたから。だから、子供の癇癪のように彼女を貶めようとした。そうでしょう?」

「き、さまぁっ……!!」


顔を赤黒くさせてウォーレン講師を射殺すような目で睨みつけるジェイコブに、リリティアはゾッとしてウルティオを止めるように腕に触れた。これほどの挑発を受けて、プライドの高いジェイコブが黙っている訳がない。

しかしウルティオは大丈夫だと安心させるようにリリティアに小さく笑みを浮かべると、庇うようにリリティアを自分の背に隠す。


「周りの方々も無関係ではありませんよ。なぜならブランザ公爵令息が気に入らなければ、彼女のように散々冤罪をなすりつけられ、最後には罪もねつ造されてしまうのですから」


ウォーレン講師の言葉に、生徒達は恐ろしい物を見るかのようにジェイコブに視線を向けた。


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