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落ちた果実


リリティアは返却するための本を大事に抱えて図書館へ続く廊下を歩いていた。手元の本は、全て医療に関する文献だった。

ウルティオの手を治してから、リリティアは空いた時間には医療関連の本を読み漁っていた。


(本当は怪我をしないのが一番だけれど、もし怪盗さんが怪我をしたとしても、私が治してあげられたら……。光魔法では切り傷くらいしか直せないから、まずは応急処置の方法から覚えよう)


少しでも怪盗さんの役に立てる事がある。その事が、リリティアの心を明るくさせた。

その時廊下を歩いていたリリティアに、後ろから聞き間違えようのない大好きな声がかかる。


「こんにちは、お嬢さん」

「!怪盗さ……ウォーレン先生!」

「大丈夫、今は周りに誰もいないよ」


ウルティオの言葉に、リリティアはホッと息をつく。何となく気恥ずかしくて、リリティアは治療関係の本の題名が見えないようにこっそりと抱え直した。


「お嬢さんはこれから図書館?」

「はい。返却に行くところです」

「そうか、それなら、ひとつお使いを頼まれてくれないか?発注していた資料が図書館に届いたから取りにいかなければいけないんだが、用事があってすぐにいけないんだ」

「はい!そのくらいならお任せください」


少しでもウルティオに頼られた事が嬉しくて、リリティアは弾むような心で図書館へと歩を進めた。目的の資料を司書から受け取ると、そのまま法学の準備室へと向かった。


「失礼します」


リリティアがウォーレン講師の準備室の扉を開けると、彼の他にもう一人の生徒がいることに気がついた。黒に近い藍色の髪に、青にも見える翠瞳の男子生徒。彼らは楽しげに会話をしていたようで、リリティアが入ると二人ともにこちらに目を向けた。


「やあ、リリティア嬢、お使いを頼んで申し訳ない」

「いいえ、ちょうど私も図書館へ用がありましたから」


リリティアが資料を手渡すと、ウルティオはお礼を言った後、リリティアにそばにいた男子生徒を紹介する。


「彼はセドリック・ハイドリー君。リリティア嬢と同じ三年生ですよ。熱心に勉強に取り組む非常に優秀な生徒です」

「初めまして、セドリック様。リリティア・カスティオンと申します」

「初めまして、リリティア嬢。法学にとても精通されているとお聞きしていますよ」


穏やかに挨拶を返すセドリックは、非常に誠実そうな青年だった。悪評のあったリリティアにも、特に色眼鏡で見る事なく対応してくれる。


「おっと、もうこんな時間ですね。すいませんが、用事があってそろそろ出なくてはならないのです。セドリック君、リリティア嬢を送っていただいても?」

「もちろんです、ウォーレン先生。今日は有意義なお話ありがとうございました」


律儀に礼をしたセドリックは、リリティアにも穏やかに微笑みかける。


「では、リリティア嬢、行きましょうか」

「え、あ、はい……」


チラリと振り返ったリリティアは、ウルティオが大丈夫だというように頷いたのを見て、セドリックの後についていった。

初対面の男子生徒とどんな話をしたら良いのかと緊張していたリリティアだが、その心配は全くの杞憂と終わった。


「ウォーレン先生は素晴らしい先生だと思わないかい?初めの授業で教えてくださった下水道を我が領地も設置したのだが、すでに効果が出始めている」

「まあ、そうなのですか!私もあれはとても素晴らしい案だと思います。疫病の減少率の統計は取られているでしょうか?もし資料があるのでしたら、是非拝見してみたいです」

「いや、そこまでは考えていなかったな。確かに、今後のためにも統計は必要だ。今日も色々とウォーレン先生にお話を伺っていたんだ」


リリティアとセドリックは話が合い、特にウォーレン講師の事で話が非常に盛り上がった。キラキラとした瞳でウォーレン講師のことを尊敬している様子が見られるセドリックに、リリティアも緊張が取れて自然と話ができるようになっていた。


「疫病の減少の確認がとれたら、統計結果などもリリティア嬢にお見せしますね」

「はい、ありがとうございます、セドリック様」



***



「こんにちは、お嬢さん」


翌週、ウルティオは瑞々しいオレンジを持って裏庭に現れた。


「これ、たまには良いかと思って果物のお土産だよ。今が旬で美味しそうだったからね」

「ありがとうございます。……まあ、とっても美味しそうですね」


宝石のように瑞々しく輝くオレンジ色の果実を両手で持って、リリティアは顔を綻ばせる。


「あの、家に少し持って帰っても良いでしょうか?母が好きなんです」

「もちろんだよ」

「ありがとうございます、怪盗さん」


とても嬉しそうにオレンジを両手で包むリリティアに、ウルティオは満足そうに笑みをうかべる。


「沢山あるから、お嬢さんも食べていきな。手が汚れてしまうから、剥いてあげよう」

「そ、そんな、自分で剥けます」

「いいからいいから。ほら、せっかく剥いたのに、食べてくれないのかい?」


あ、とか、う、とか言いながら、顔を真っ赤にさせるリリティアは、最終的に好意を無下に出来ず、恥ずかしげにギュッと目をつぶり小さな唇を開いた。一瞬、なぜかピタリと動きを止めたウルティオは、リリティアのその唇にオレンジを放り込んだ。

とても美味しいはずなのだけれど、ドキドキと心臓が飛び出しそうなほど波打って、リリティアは味があまり分からなかった。

味のわからないオレンジを飲み込んで、リリティアが恥ずかしさから瞑っていた目をそっと開くと、なぜかウルティオは手で顔を覆ってしまっていた。「怪盗さん?」と呼びかけると、「何でもない、ちょっと刺激が強かっただけだから」とよく分からない事を言ってリリティアの手に剥いたオレンジをそっとのせてくれる。


「あ、ありがとうございます」

「うん、いっぱい食べて」


一人で食べられるようになって、やっと味わうことができたオレンジの果実は、とても甘酸っぱくて美味しかった。



二人でオレンジを食べ終えて一息ついたところで、ウルティオがわざとらしい程明るい声で尋ねてきた。


「ところで、彼と話してみてどうだった?」

「え?」


何の話だろうと首を傾げたリリティアは、「セドリック・ハイドリー君だよ」とのウルティオの言葉に、やっと合点がいく。


「とても、話しやすく親切な方でした」


リリティアが素直な感想を述べると、ウルティオが良かったと笑みを浮かべる。何となく、その笑みがいつもと違うように感じたリリティアはウルティオの顔を見上げるが、顔を前に向けたまま話すウルティオと目を合わせることは出来なかった。

そして続けられたウルティオの言葉にリリティアの表情は凍りつき、先ほどの疑問など彼方へと消えてしまった。


「俺としては、彼はおすすめだよ。ハイドリー家は今まで中立を貫いて来た家だ。それはつまり、それだけの力と政治的バランス感覚が優れているということ。

婚約者もいないし、周囲や本人から性格等を調べてみたけど、真面目で穏やかな性格だった。きっと君を幸せにしてくれると思うな」


「……え……」


突然のウルティオの言葉に、はじめは何を言われているのか分からなかった。意味を理解していくごとに、目の前が暗くなってくるような感覚に襲われる。


――怪盗さんは、セドリック様と私が結婚することを、望んでいる……?


喉がカラカラに乾いて、何か言おうと口を開いても、何も言葉が発せなかった。


――そうだ、怪盗さんは初めから言っていた。私が婚約破棄されても母の治療が続けられるように、新たな相手を探そうと…。彼は本当に、私のために探してくれていたのだ。この前も、きっとわざと私にお使いを頼んで彼と会わせたんだ……。


いつだって、私を助けてくれて、私なんかの為にこんな事までしてくれて……。ありがとうと、感謝を伝えなければいけないのに。


でも、どうしてだろう。胸がズキズキと痛んでしょうがなかった。


何故か目頭まで燃えるように熱くなってきて、リリティアは涙が溢れないように必死で目を瞑り顔を俯けた。


(優しい怪盗さんを、困らせちゃ駄目……。何でもないように、笑うのよ)


「あの、まだ会ったばかりなので、分からない、みたいです……」

「……そうだね、君の気持ちが一番だから、すぐに決める必要はないよ」

「はい、ありがとう、ございます……」


きっと、上手く笑えていたと思う。私のおかしな様子は気づかれていないようだったから。


「あ、もうこんな時間ですね、そろそろ授業に行かないと」

「……そうだね」


怪盗さんに心配をかけないように、足早にその場を去ろうとしたリリティアの背中に、ウルティオの静かな声が聞こえた。


「お嬢さん、俺は……、お嬢さんには、誰よりも幸せになって欲しいと思っているよ」

「……ありがとう、ございます」


そう言ってリリティアはオレンジを抱いて歩き出す。

ウルティオが見えなくなると足は段々と早くなり、遂には走り出した。しかし滲んだ視界の中で足はもつれ、石畳の上で転んでしまう。

手から転がり落ちたオレンジのひとつがペシャリと潰れ、リリティアはまるで自分の心みたいだと思った。


(大丈夫、次会う時は、ちゃんと笑顔でありがとうと言えるわ。大丈夫、大丈夫……)


その果実も大切に拾い上げると、リリティアはゴシゴシと涙を拭って立ち去った。



――その様子を、赤金髪の少女が校舎の影から見ていたのに気づく事なく。


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