王太子
夕暮れせまるオルティス王城の執務室。そこでは、王太子ジョルジュ・シア・オルティスが書類をめくる音だけが響いていた。金髪に金の瞳という王家特有の色彩をもつ王太子の机の上には、本来国王が行なわなければならない決裁書類が積まれている。
不意に書類を見つめる視線が険しくなり、ギュッとペンを握りしめる。目線の先にあるのは、国の専売品である塩を貴族たちにも販売権を認めるとする裁決書類だ。
かつてオルティス王国は王が強力な国軍を有し国を守ってきた。貴族は領地を守ってもらう代わりに国に税を払い、常に王に付き従う体制が出来ていた。
それでも初代王の方針で、王だけが独裁することなく、貴族院と評議会の多数決でもって国の政治が決定される仕組みが続いてきた。
しかし貴族の力が増すようになり、その仕組みは最悪の形で貴族派の者たちに利用されるようになってしまった。
先代の王の時代、深刻な冷害による飢饉で隣国がオルティス王国の資源を求めて侵略戦争を仕掛けてきた。それは何とか食い止められたが、王国の軍も少なくない被害を被った。さらにオルティス王国も冷害の被害で余裕はなく、国庫の食料も国民のために分け与えられて国の資金が不足していた。その時、いくつかの高位貴族が王族に取引を持ちかけたのだ。
資金を提供する代わりに、貴族の軍の所持を認めるようにと。
無理な徴兵を防ぐため、各貴族家での軍の所持は建国当時から禁止されていた。しかし国民を飢えさせないために当時の王はそれを認めるしかなかった。
それから、この国の地獄は始まってしまった。
軍を所持した貴族が次にしたのは、国への納税の拒否だった。軍を所持しているのだから、国の守護は必要ない。それが貴族たちの主張だった。払わされ続けるのは、むしろ王族の横領ではないか、と。
当時の食糧事情は貴族たちの資金に賄われていたため、王も平民からなる評議会も強く反対する事ができなかった。
こうして貴族からの納税が無くなると、王の権威は瞬く間に弱体化した。
ジョルジュの父が王位を継いですぐの時期、平民の声を聞くための評議会の廃止を貴族たちから要求された時、父はもちろん反対した。しかしその時にはもう、王城内は貴族派に掌握されてしまっていたのだ。
常に警護され、毒味も行われていたはずの母が王城内で毒殺された。使用人たちは貴族派から派遣された者たちが占めており、すでに誰も信用出来ない状況だった。王族に忠義を尽くしてくれていた家門も冤罪で貴族派に次々と潰された。妻と数少ない味方を一気に失い、父は全ての気力を失ったかのように部屋に引き篭もるようになった。
形式上、公の場では貴族たちは王族に頭を下げるも、すでに政の決定権は貴族派が握っているようなものだった。
その後、この国の政治はただ貴族派の利益を貪る狩場となった。
たった数十年、そんな短期間の間に、この国は変わってしまったのだ。
かつてはこの国を何とかしたいという志を持ち勉強に打ち込んできたジョルジュも、今では父の穴埋めの公務に忙殺されるだけの毎日だ。いや、それは言い訳に過ぎない。父と妹の命を守るためなどと言いながらも、結局は何も出来ない現状に膝を折った。抗うことを、やめたのだ。
諦念の瞳で再び貴族派の私利私欲の為の法案に認印を押す。印章に描かれている王国の象徴の誇り高き獅子を乾いた笑いで見つめた。
その時、執務室のドアをノックする音が響く。
「殿下、失礼いたします!」
入ってきたのは、幼い頃からジョルジュを支えてきた側近であるマルティン・ヴァロア。王族派のヴァロア侯爵家の嫡男だ。
彼はいつもの冷静な態度をかなぐり捨てて息を切らして部屋へ入ってくると、挨拶もそこそこにジョルジュへ一通の手紙を渡してきた。
「殿下、これを!」
「いつものお前らしくないな。いったいどうしたんだ?」
「読んでいただければ分かります!」
マルティンの様子に訝しげに眉を顰めながらも封筒を受け取る。くるりと封筒をひっくり返すも差出人は書かれていない。
マルティンの圧に押されて封筒を開けて手紙を読み出せば、ジョルジュの目は段々と見開かれ、遂には椅子を蹴倒して立ち上がった。
「マルティン‼︎彼に会ったのか⁈今彼はどこにいる⁈」
「分かりません。その手紙は、我が家にいつの間にか届けられておりました。どこの者が配達したのかもいつ届いたのかも不明なのです」
マルティンの答えに、ジョルジュは力を失ったかのように再び椅子に腰を下ろした。そして手で目元を覆う。
「……生きて、いたんだな……。良かった……」
「ええ、本当に……。子供の頃に私達で作った秘密の暗号文字がこんな所で生存確認に役に立つとは……。
それから、こちらの資料も共に届けられていました」
マルティンが渡してきたのは、今度は分厚い封筒だ。
中身をパラパラと確認したジョルジュは、再び目を見張る事となる。
「これは、貴族派の家門の横領を証明する書類じゃないか!」
「はい。公爵家には届きませんが、いくつかの貴族派の家を黙らせる事ができるものです」
「どうやってこんな物用意できたんだ……?
それに、この資料の代わりに依頼したい事と言うのが、こんな事なのか……?」
「ええ、随分と不思議な依頼でございますね」
納得できなくとも、これだけの見返りを用意してまで願ってきた事なのだ。こちらに不利益となる話でもない。彼の希望ならば、ジョルジュに躊躇いはなかった。
かつて、マルティンと共に自分を弟のように可愛がってくれていた姿を思い出す。
「……彼は、この舞踏会に現れるだろうか」
「可能性は高いのではないでしょうか?……このリリティア・カスティオンという令嬢についても出来るだけ調べておきましょう」
「ああ、頼む」
ジョルジュは久々に明るい表情を浮かべて頷いた。そして彼がいるかもしれない城下の街の明かりを見つめながら、学園の舞踏会に意識を向けた。




