ブランザ公爵邸(3)
カーテンから差し込む朝の光に、リリティアはそっと瞳を上げる。
「……今日は、建国祭の日……」
ここに囚われた日から、3日の日数が経っている。
リリティアは部屋に公爵がやってくるかもしれないと思うと、ほとんど眠る事もできないでいた。ウィルに託したお守りの代わりに花瓶の破片を常に握りしめて身構えていたこの3日間は、確実にリリティアの精神に負荷をかけている。
(きっと、今夜の建国祭でウィルとジョルジュ殿下は貴族派の断罪を行うはず。そのために、ずっと準備をしてきたのだから)
王族派の当主たちが回復したことで、これまでのように貴族院での法令を好き勝手にできなくなる貴族派の者たちが、次代の王を傀儡とするために王の暗殺を狙う可能性が出てきた今、一刻も早く貴族派の罪を公にする必要があった。何とかブランザ公爵の屋敷への捜査に踏み切れるだけの犯罪証拠を突き付けるため、皆が多くの時間を費やしてきたのだ。
(建国祭は王城にすべての貴族家の当主が揃う。そこで罪を明らかにできれば、いかにブランザ公爵でも逃げる事はできないはず)
ドアから一番離れた窓の側の椅子に座り、リリティアはぎゅっと手を握りしめる。
その時、ガチャリとドアが開きブランザ公爵が苛立たしげに踏み込んでくる。
花瓶の破片を握りしめめ身構えるリリティアに、冷酷な瞳が向けられる。
「チッ、あいつらも考えたものだな。王城から、お前も建国祭に登城するようにとの書状が届いている」
「私に……?」
「お前を保護した噂を流したのは失敗だった。王太子の婚約者がお前の無事を確かめるために一目会いたいと訴えているからと理由をつけて、王命まで出してお前を連れて来させたいようだ」
公爵の言葉に、リリティアの瞳に希望が宿る。
(きっと、ウィルが進言してくれたんだ。ブランザ公爵は再び私にジェイコブ様と婚姻を結ばせようと考えている。そのために、恐らく私を救い出し保護している話を社交界で流したんだ。それを逆手にとって、ウィルは私を建国祭に出席させるように要請した)
「王命という事は、陛下もご快復されてきたという事ですね。陛下からの命であれば、一貴族としてお断りすることは出来ません」
建国祭で登城することさえできれば、逃げ出す機会はいくらでも作り出すことが出来る。リリティアは逸る気持ちを抑え、静かに公爵に告げる。
希望が見えたことに表情を明るくさせたリリティアに、しかしブランザ公爵は暗い笑みを浮かべた。
「まさか、逃げ出せるなどと考えてはいないだろうな?私がお前をそのまま王城に連れて行くとでも思ったか?」
そう言うと公爵は後ろに控えていた騎士に目配せをする。それを受けた二人の騎士は、左右からリリティアを拘束しようと動く。
「っ!」
リリティアが察知して花瓶の破片を首筋に当てようとするも、男二人の力になすすべもなく押さえつけられてしまった。
痛みに顔をしかめるリリティアの顎を正面から無理やり掴み上げ、ブランザ公爵が目を覗き込んでくる。どろりとした闇が渦巻くような公爵の瞳と合わさった途端、闇魔法にかけられていた当主たちに巣食っていたのと同じ闇の塊がリリティアの精神に無理やり入り込んできた。
(私を、闇魔法で操ろうとしている……!)
体の中に冷水を流し込まれるようなゾッとする恐ろしさにリリティアは震える。体が闇の塊に取り込まれ、じわじわと精神に侵食していくようだ。従え、従えと悍ましい声が頭にガンガンと響き渡る。
立っていられなくなったリリティアは、頭を抱えて蹲った。
闇はリリティアの過去の痛みや苦しみ、絶望を表に浮かび上がらせ、代わりに幸せな記憶を、ウィルとの思い出を食らっていく。
(いや、嫌!それは、私にとって何より大切なもの。絶対に、渡さない……!)
闇に引きずり込まれた精神の中で震え蹲っていたリリティアは、呑まれかけていた光に精一杯手を伸ばす。そして掴んだ光を守るように胸の中に抱き込んだ。温かなその光に触れれば、ウィルからもらったたくさんの優しさが、大切な思いが、腕の温かさが鮮明に思い出されてリリティアを守るように包み込んだ。
(ウィルは、側にいない時だって、いつも私を守ってくれている)
瞳を潤ませふわりと笑ったリリティアは、光に包まれながら真っすぐに闇の塊に対峙した。そして渾身の力を込め、目の前の闇に向かって光の魔力を放った。
***
「クッ!」
うめき声にハッと目を見開いたリリティは、目の前で額を押さえて蹲る公爵を発見する。
(私、公爵の闇魔法に打ち勝てたんだ……!)
記憶が守れたことにほっとしたのも束の間、顔を伏せ静かになったブランザ公爵が突然嗤い始めた。
「ハハ、ハハハハ!素晴らしい!光魔法の使い手は、闇魔法で操ることはできないのか!特別な力の持ち主は、そうでなくては!」
ギョロリと濁った闇色の瞳を向けてくる公爵に、リリティアはゾッと後ずさる。
ふらりと立ち上がった公爵は、口元に笑みさえ浮かべながら扉前に控えていた執事を呼ぶ。
「今日入ったアレを連れてこい」
「かしこまりました」
やがて執事に連れられて、幼い少女と少年が連れられてくる。二人の子供は薄汚れた粗末な服を着せられており、恐ろしさに震えながら手を繋ぎ合っている。
「一体、何を……」
嫌な予感に顔色を悪くするリリティアに、異常なほど上機嫌な様子でブランザ公爵は口を開いた。
「ひとつ実験をしてみたくてな。なに、昔のようにお前の光魔法の能力を確かめるだけだ。今回は……そう、光の魔力を消費しきった場合は、闇魔法の影響を受けるのか、だ」
そう言った公爵は、まるで遊びのように腰の剣を引き抜き、何のためらいもなく少年を切りつけた。
「ぃ、イヤァァァ!!」
血だまりに倒れた少年に、少女が悲鳴を上げながら縋りつく。
「――さあ、治癒をするんだ、リリティア」
信じられない瞳で目の前の出来事を凝視し顔を青白くさせるリリティアに、公爵が囁くように告げる。
「可哀そうに、この子供たちの親は貴族の馬車の前を横切ったため不敬罪で殺され、さらに自分たちも捕まり奴隷に落ちた。左腕を見てみると良い。お前と同じ紋様を刻んでやったぞ。お揃いの可哀そうなこの子供たちを、お前は見捨てることは出来ないだろう?この子供が死んだら、お前のせいなのだから」
ゾッとする公爵の声に、泣き叫ぶ少女の悲鳴。広がる血だまりの鮮烈な赤に、少年の小さくなってくる息遣い。
リリティアは今にも倒れそうな顔色で、ふらふらと倒れ伏す少年の側に膝をついた。
「光よ……」
リリティアの言葉と共に、光が溢れて少年の傷を癒す。
光が収まり少年の頬に血色が戻る。傍の少女がほっとした涙を流すも、その直後に再び恐怖に頬を引きつらせた。
公爵が、まるで道端の雑草を払うかのように腕を振り、少年を再び切りつけたのだ。
「ヒッ!!」
あまりの恐怖に顔を青くする少女を公爵は何の感慨もなく見つめる。煩くすれば自分も切られると分かったのだろう。少女はボロボロと涙を流しながら両手で自身の口をふさいだ。
公爵にとって、奴隷とは本当にそこらの雑草のように踏みつけても、切り取っても何も感じない存在なのだ。光の魔力がなければ、リリティアも簡単に切り捨てられるのだろう。
くるりとリリティアを振り返った公爵は、楽しそうリリティアに嗤いかけた。
「素晴らしい治癒だった。――さあ、もう一度だ」
公爵の言葉に、少年に伸ばす手が誤魔化しようもなく震える。抑えきれない涙がリリティアの頬を伝った。
「もう、止めてください……」
分かっている。リリティアが言ったところで、公爵が止まらないであろうことは。それでも、懇願せずにはいられなかった。
公爵は、リリティアの魔力が尽きるまで何度でも少年を切りつけるつもりだろう。リリティアが少年を庇ったところで、今度は少女に刃が向けられるだけ。何度も切りつけられ、そして癒されまた切られる。少年にとって、それは拷問のようなものだ。その一翼を担ってしまっている現状に、ガンガンと頭の痛みが増し息を吸うのさえ苦しくなってくる。ぼろぼろと涙があふれ視界がぼやける。しかし、治癒をやめることもまたできなかった。すぐに出血を止めなければ少年が死んでしまうという事が、今までの治療経験から分かってしまうから。
(私のせいで、関係のないこの子たちが……)
「ごめん、ごめんね……」
白いネグリジェが少年の血を吸って真っ赤に染まる。リリティアの手もまた、真っ赤に染まっていた。
リリティアは涙を流しながら、子供を死なせない事だけを願い光魔法を使い続けた。
やがて何度目の光魔法を使った後か――。
魔力を使い果たし倒れたリリティア顔を掴み、ブランザ公爵はほの暗い笑みを浮かべながら闇の魔力を放った。




