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ブランザ公爵邸(2)


ブランザ公爵が去っていった部屋の中で、リリティアはふらりと床に座り込んだ。無意識に左腕を握り込む表情は、今にも泣きそうに歪む。


(大丈夫、……大丈夫。私は、もう昔の私じゃない)


必死で恐怖を押し込もうとするけれど、それでもブランザ公爵と対面した事で、罵られ、蔑まれてきた昔の生活を鮮明に思い出してしまう。目の前で使用人を切りつけて、お前が治さねばコイツは死ぬぞと治癒魔法を強要してきた冷酷な瞳。鮮烈な血の赤と氷のようなその瞳は、幼い頃の恐怖そのものだった。今でも震えてしまう両腕で、自身を抱きしめる。


「ウィル……」


小さく大切な名を呟けば、涙が込み上げてくる。

ウィルに会いたかった。何よりも安心できる腕の中に戻りたい。


(ウィルたちは大丈夫だろうか。危険な目には、あっていない……?どうか、無事で……)


リリティアを確保するため、王城にいるウィルたちにも暗部の者たちが差し向けられた可能性は高い。あの時点では、どこにリリティアが潜んでいるのか公爵は判別できていなかったのだから。


リリティアはお守りのガラス玉を握りしめた両手を額に押し当て、ウルティオ達の無事を一心に祈った。




夜空に浮かぶ月が頂点を過ぎた頃。

がやがやと外から兵士たちの叫ぶような声が聞こえてきて、リリティアは立ち上がって恐々と窓へ近寄った。窓の鉄格子の柵は内側にも外側にも取り付けられている厳重さだ。冷たい鉄格子に手をつき、外の様子を窺う。


「っ!」


その時、窓から見つめる先の夜空に藍色の小鳥が羽ばたく。ハッとして目を見開いたリリティアの目の前に、不意に影が落ちた。


ばさりと風にはためく黒いマント。漆黒の髪が靡き、その端正な容姿を月の光が浮かび上がらせる。

真夜中色の瞳が、ひたとリリティアの姿をとらえた。


「――リリィ!」


切迫した表情が、リリティアの姿をみとめた瞬間泣きそうに歪んだ。


「ウィル……!」


泣きそうになりながら、リリティアもまた縋るように鉄格子ごしにその名を呼んだ。しかし、近くでウルティオの様子を見たリリティアはハッと目を見開き顔を青くさせた。


「ウィル……怪我を……!」


黒いマントで誤魔化そうとも、ぽたぽたと足元に垂れる血の跡を誤魔化すことはできない。恐らくピストルにやられたのだろう。ブランザ公爵邸の衛兵たちには、ピストルが配備されているであろうことは予想出来ていた。空を飛ぶことの出来るウィルにとって、それは最大の脅威だ。それがなくとも、ブランザ公爵邸は王宮以上の厳重な警備が敷かれており忍び込むことは不可能と言われているのに。


「ウィル、血が……!まさか、正面から突入してきたんですか……?王城は……」


ダインには、自分の場所を特定させるために鳥の準備はしてもらったけれど、もし自分が連れ込まれたのがブランザ公爵邸だった場合には絶対に助けに来ないようにと伝言をお願いしていた。ウィルまで捕まったり、こんな風に傷ついてほしくなかったからだ。このブランザ公爵邸からリリティアを連れて逃げ出すのは不可能と言っていいい。ましてやリリティアと違い、ウィルが捕まれば躊躇いなく殺されてしまう可能性が高かった。それを、ウィルも分かっているはずなのに……。


「そんな事、どうでもいい!!」


怪我の痛みも全く気にならないかのように、ウルティオはぶつかる様に鉄格子ごしにリリティアを見つめる。


「リリィ、無事か?!酷いことはされていないか?!」


焦燥にかられた表情で、一心にリリティアを心配するウルティオに何かが込み上げてきそうでグッと唇を噛む。


「……私は、大丈夫です。でも、なんでこんな危険なこと……。来ないでって、伝えたのに……」

「リリィが囚われたと聞いて、俺が何もしないでいられる訳ないだろう⁈リリィの無事も分からず気が狂いそうになるのに比べたら、こんな傷なんてことない!」


叫ぶようなウィルの言葉に、リリティアは胸が締め付けられて瞼が熱くなる。公爵邸に忍び込むなんて、自殺行為なのに。冷静な組織の指導者であるウィルであったなら、こんな無謀な事、するはずないのに。


(それでも、ウィルは来てくれた……)


胸が熱い。こんなに危険な真似してほしくないと思っていたのに、来てくれた事が、胸が震えるほどに嬉しく感じてしまう。恐怖で縮こまりそうだった心が、一瞬ですくい上げられる。


「リリィ、窓から離れて!」


リリティアが窓から離れたのを確認すると、ウルティオは胸元から何かを取り出して窓に投げつけた。爆発音と、ガシャンというガラスの割れる音が響く。衝撃がおさまってから見れば窓ガラスは粉々に砕けていたが、鉄格子にはほとんど傷もついていないようだった。


「クソッ、駄目か!」


険しい顔で鉄格子を殴りつけるウルティオ。今の爆発音で、侵入者の居場所はほぼ特定される。きっとすぐに公爵邸の衛兵たちがここになだれ込んでくるだろう。そうなれば、たとえ風魔法で飛ぶことのできるウルティオでも逃げ切るのは難しい。それでもウルティオは、諦めた様子を見せなかった。


「リリィ、待ってろ、今何とかするから!」


鉄格子の破壊は止め、邸内に侵入してリリティアを助け出そうとしているのか、侵入できそうな場所を探すウルティオをリリティアは声を上げて止めた。


「ウィル、聞いてください!闇魔法の使い手は、ブランザ公爵自身でした。今までは火魔法の従者を隣において火魔法の使い手だと偽っていたのです。闇魔法の発動条件は、相手の体の一部に触れながら目を合わせる事。そうして闇の種を植え付け、任意の時に闇の芽を芽吹かせて相手の精神を操るんです」

「なっ」


リリティアの言葉に、ウルティオは顔をしかめる。恐らくリリティアと同じように、闇の種を植え付けられている範囲に脅威を感じたのだろう。下手をすればこの国の過半数の貴族家の当主の精神に干渉が可能な状態なのかもしれないのだ。公爵自身が罪を犯したという決定的な証拠がなければ、配下の貴族を闇魔法で操ってその者に罪を擦り付け自白させることも容易にできる。


「ウィル、手を……!」


リリティアは鉄格子からウルティオに向かって精一杯手を伸ばした。


「リリィ?」


必死で手を伸ばそうとするリリティアに、ウルティオも鉄格子越しに腕を伸ばす。


「ウィル、これを……!」


鉄格子の両側から伸ばした二人の手の指先が、かすかに触れる。リリティアはウルティオの手に、丸いガラス玉をころりと落とした。


「リリィ?!これは!」


手の中のものがリリティアの大切なお守りであることに気がつき、ウルティオがハッとしたように目を見開く。


「ウィル、それを持って、逃げてください」

「リリィを置いていける訳ないだろう!」


外からも廊下からも、衛兵たちの駆けつける音が近づいて来る。もう、時間がない。

リリティアは大好きな真夜中色の瞳をじっと見つめて言葉を紡ぐ。想いが、ちゃんと届くように。


「ウィル、私は以前のように、全てを諦めて言っている訳じゃありません。約束したでしょう?私は絶対に、ウィルの隣に戻ってきます。ウィルとの未来を、絶対に諦めたりしません」


ジェイコブとの結婚式の前日、窓越しにウィルと話した夜を思い出す。あの時私は、これ以上ウィルを巻き込まないために彼を拒絶した。でも、今は違う。二人の未来のために、二人が生き残るために、一緒に戦うために、今出来る事を……!


宝石のような美しいラベンダー色の瞳が、月明かりに照らされ決意の輝きを灯す。その美しさに、ウルティオは息をのんだ。


「ウィル、公爵の目的のため、私は絶対に殺されることはありません。だから、私の事は心配しないで行ってください!――どうか、貴族派の、ブランザ公爵の悪事を暴いて……!」


リリティアは触れたままの指先に、ありったけの光の魔力を流しこんだ。その指先から強い光が溢れ、ウルティオの体を包み込む。


「リリィ……!」


奇跡のようにすべての傷が癒されたウルティオは、しかし諦めきれないというように血が滲むほど鉄格子を握りしめた。いや、食いしばった口元からはすでに血が流れている。

そんなウルティオに、リリティアは心配させないよう、太陽のように明るい笑顔を浮かべて見せる。


「それは私の宝物だから、絶対に取りに戻ります。だからお願い、ウィル……」


(絶対にウィルのもとに戻ってみせる。これは、その証だから)


リリティアの懇願する瞳に、ウルティオは痛みを堪えるような表情でガラス玉を握りしめた。やがて顔を上げ、決意を込めた強い瞳でリリティアを見つめ返す。


「っ、絶対に、助けるから!だから少しだけ待っていてくれ」

「はい!」


離れ難い思いをなんとか断ち切るように背を向け闇夜に消えていったウルティオを、リリティアは涙をこらえて笑顔で見送る。

衛兵が部屋になだれ込んで来るまで、リリティアはいつまでもその闇夜を見つめていた。



***



王都にある隠れ家の一つ。その屋敷のバルコニーに、一つの黒い影が降り立った。屋内に入ったその人物に、数人が群がる。


「ウルティオ様、リリィ様は……?!」

「ボス!姐さんは、姐さんはご無事ですか……?!」


涙を流さんばかりにリリティアを心配していたマチルダとカミラ、そして護衛として守れなかったどころか守られたことで自責の念にかられているガスパルが戻って来たウルティオに詰め寄った。


「……今は、危害を加えられてはいないようだったが、っ……助け出せなかった……」


血がでるほどに拳を握りしめているウルティオの様子に、皆は口を噤む。自身の命よりもずっとリリティアの事を大切にしているウルティオが、誰よりも今の状況に苦しんでいるのは皆が分かってた。リリティアが攫われたとの報告を受けた時のウルティオの様子は、とても言葉では言い表せない。無謀ということが分かっていても、公爵邸に乗り込むウルティオを誰も止めることは出来なかったのだ。

押しつぶされそうな沈黙の中に、静かな声が落ちる。


「……3日後だ。3日後の建国祭の舞台で、全てを終わらせる」


俯いているため前髪で隠れたその表情は見ることはできない。しかし、その凍えるような声音で紡がれた言葉に何よりも重い決意を感じる事ができた。


「……準備は進めています。必ず、間に合わせてみせます」


コナーの言葉に、ウルティオは顔を上げるとずっと握りしめていたガラス玉のお守りを自身の首にかける。そしてゆっくりと全員を見回した。


「建国祭の舞台で、貴族派を断罪する。そして、必ずリリィを取り戻す」

「「「はい!!」」」


そうして、全員が3日後の建国祭に向け走り出したのだった。




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