笑顔
「リリティア嬢、こちらの論文は問題がないことが分かりましたから経済学の教授にお渡ししてまいりましょう」
「あ、は、はい」
騒めく生徒たちの間を抜け、リリティアは慌ててウルティオの後を追った。
廊下を渡り、法学の講義室の隣の部屋を開けたウルティオは、リリティアを中に通す。ここはウォーレン講師の準備室としてあてがわれた部屋だった。部屋の中は綺麗に整頓されており、本棚には法学の本がびっしりと詰められている。
「あの、教授の元へ向かうのではなかったのですか?」
「そのくらい、俺がやっておくから大丈夫だ。それより、お嬢さんこそ大丈夫か?」
ウルティオの心配そうな声に、リリティアはブンブンと首を縦に振った。そして俯き両手を握りしめながら、掠れた声でずっと聞きたかった問いかけをした。
「怪盗さんは、……どうして、盗用でないと信じてくれたんですか?」
リリティアの問いに、ウルティオはきょとりと目を開く。
「君が、そんなことするはずないだろう?」
まるで当然の事のように言い切ったウルティオに、リリティアは目を見開く。何を当たり前の事を言っているのかとでも言うように不思議そうな顔をするウルティオに、リリティアは何かが胸から込み上げてくるようで、目頭が熱くなった。
「……ありがとう、ございます」
か細い声でやっとそう伝えると、良く出来ましたというようにポンと頭に大きな手のひらが乗せられた。その温かさが、どうしようもないほどに、胸を震えさせた。
座って話そうと言うウルティオの言葉に従って準備室のソファに座ったリリティアに、ウルティオが紅茶を差し出す。
「あ、ありがとうございます」
あたたかな紅茶にホッと息をついたリリティアに、向いの椅子に座ったウルティオが問いかける。
「それより、さっきのブランザ公爵家の嫡男が……もしかして、君の婚約者なのか?」
「…そうです…」
「あの、横にくっついていた赤金髪の女は?」
「ジェイコブ様と親しくされている男爵令嬢です」
リリティアの答えに、ウルティオははあっと大きなため息をはいて頭をガシガシとかいて項垂れた。
「冗談だろう……?あんな頭が軽そうな奴が君の婚約者……?しかも、その馬鹿はお嬢さんよりもあの意地の悪そうな女を優先しているのか?それに最悪なことに、君を悪役に仕立てているってことか……?」
「……私たちは、単なる政略結婚ですので。結婚さえ出来れば、どなたと仲良くなられようとかまいません」
リリティアが諦めたようにそう言えば、ひどく真剣な目をしたウルティオが真夜中色の瞳で見つめてきた。
「君は、彼と結婚したいのか?公爵夫人の地位が欲しい?」
ウルティオの問いに、リリティアは緩く首を振って俯いた。自分の状況なんて話しても怪盗さんは困ってしまうだろうし、何より自分の惨めな現状を知られたくないと思ったから。
しかしウルティオは、リリティアの正面に移動してくると膝をつき、リリティアの手をとり真剣な表情で促した。
「君が嫌なら無理には聞かない。でも、出来れば君の状況を教えて欲しい。俺は貴族社会とは何も関わりのないただの怪盗だ。君が何を話したって誰にも漏れないよ。信用できない?」
ウルティオの問いに、リリティアは必死に首を横に振る。
確かに貴族同士なら、弱みを明かすように本音を話したりは絶対にしないだろう。でも、彼なら私に不利な事はしないと信じられた。
リリティアはおずおずと口を開く。
「……公爵夫人の地位など欲しくはありません。でも、ジェイコブ様とは結婚しなければならないのです」
「家のため?」
「いいえ、母の治療の為です。父であるカスティオン侯爵と、母の治療院での治療を継続するために政略結婚をするという契約を結んでいるんです」
こんな事を言っても優しい怪盗さんを困らせてしまうと言った直後に後悔したが、リリティアの答えにウルティオは何かを後悔するように「クソっ」と床を殴りつけた。
びくりと驚いたリリティアに向き直り、とても真剣な表情で驚く事を口にした。
「お嬢さん、婚約破棄を目指さないか?」
ウルティオの言葉に、リリティアは驚きで目を見開いた。
「そ、そんな事できません。母の治療が…」
「確かに治療院での治療の継続には権力と金がいる。けど、貴族はあの馬鹿男だけじゃない。真面目で穏やかな貴族だっている。馬鹿男と婚約を破棄しても、他の地位のある男と縁を結べるのならば君の父親だって君を無下にはできないはずだ」
「妾腹の私なんかを母と共に引き取ってくださるような奇特な方、いらっしゃるはずがありません」
「それはあの馬鹿男が君の悪評を広めているからだろう?君はとても優秀で、容姿も誰よりも優れている。しかも光の魔力持ちときたら、本来なら君は引く手数多のはずだ。それは俺が保証する。この俺が、君に釣り合う男を絶対に探し出してみせるよ」
「ですが、私では…」
「君は、あの馬鹿男と結婚したい訳じゃないんだろ?あれと結婚しても、……幸せにはなれないんだろう?」
ウルティオの問いに、リリティアは口をつぐむ。ジェイコブとの結婚で幸せになれるだなんて幻想は、ただの一度だって抱けたことはないのだから。
「俺が手伝う。なあ、だからそんな諦めたような顔しなくていい。
――――君はさ、幸せになるべきだ」
落とされた言の葉に、ラベンダー色の瞳が瞬く。
ウルティオの言葉が、リリティアの心を日だまりのように優しく撫でた。こんな風に幸せを願ってくれる人がいる事が、リリティアにとってはただただ、不思議だった。
「どうして、こんなに良くしてくださるのですか…?私は、お礼出来るお金も宝石も持っていないのに…」
迷子のようなリリティアの問いに、正面の真夜中色の瞳がひどく優しくゆるんだ。
「…ただ、君に貰ったものを返しているだけだよ」
怪我を助けた事を言っているのだろうか?けれど、穏やかに見つめてくるウルティオの瞳に、リリティアは何故か胸が囚われるような感覚に陥り胸元を握りしめた。怖いほどに深い想いの籠った真夜中色の瞳に囚われ、逸らす事ができない。
しかしリリティアが腰を引こうとした次の瞬間には、ウルティオはいつもの人好きのする笑顔に戻っていた。
「まあ、君が気にするなら、俺の働き分の報酬をもらおうかな」
いつもの笑顔に戻ったウルティオに密かにホッとしながら、リリティアはその言葉に強く頷いた。
「私に出来ることでしたら、何でも言ってください」
自分に出来ることなどほんの少しだけれど、こんな私に優しさをくれた怪盗さんの役に立てるのならば嬉しかった。
次のターゲットの貴族の情報などだろうか?友達もいなくてあまり役に立てないかも知れないけれど、カスティオン侯爵家とブランザ公爵家の情報ならば少しは渡す事ができる。
――例えそれが怪盗さんの目的だったとしても、構わないと思った。
しかし、そんなことを考えていたリリティアにかけられたのは、思ってもみない言葉だった。
「じゃあさ、笑って?」
……怪盗さんの言葉が、はじめは理解できなかった。
見開いた瞳に映ったのは、どこまでも優しい真夜中色の瞳。
「報酬は、君の笑顔がいいな」
「……え?」
やっと溢れたのは、何の意味もなさない疑問符だけ。
じわじわと言葉の意味が染み込んできても、やっぱりたくさんの疑問符が頭の中に溢れては消えていく。
どうして、こんな言葉をくれるのだろう?
私の笑顔になんて、何の価値もないのに……。
分からない。分からない、けれど……、――――まるで、世界が作り変わってしまったかのように、目の前の世界に光が灯ったような気がした。
婚約破棄なんて無理に決まっているはずなのに、怪盗さんが言えばなんでも叶ってしまいそうに思えてしまう。
この優しさに縋ってしまいそうで、怖かった。
自分の左腕を、右手でギュッと握りしめる。
ダメだと分かっているのに、少しだけ、もう少しだけ一緒にいられる理由が持てたなら……
―――私は、願っても良いのだろうか――?
「わたし……」
何故か視界がぼやけてきて、目頭が熱くてたまらない。
リリティアはくしゃりと表情を崩して、ポロポロと溢れて手元に落ちてくる涙を茫然と見つめた。こんな風に涙を流すのは、何年振りだろう。
「お、お嬢さん、どうした⁈」
いつも余裕の表情を崩さないウルティオが慌てる様子がおかしくて、リリティアの口元がふわりと綻んだ。
心が不思議と温かい。流した涙の分だけ、心が軽くなっていくみたいだった。
ふふ、と転がり出た不器用な笑いは、まるで花の蕾が綻ぶような、数年ぶりの、心からの笑顔。
「……嬉しくて……。ただ、とても、……とても、嬉しいと、思ったんです」
リリティアの笑顔に、ウルティオは魅入られたように動きを止める。
やっと動き出したウルティオは、ぎこちなくも花弁を伝う朝露のようにリリティアの頬を伝った涙の雫を優しく拭った。
「……そうか……。
……うん、俺が、絶対にあんな男との婚約を破棄してあげるから。
君はそうやって、笑ってて」
ウルティオはそう言って、慈しむような笑顔を浮かべた。




