第三十二話 変わっていくヘンリー
「はぁーーーー……」
肺の中の空気を全て吐き出すようなため息が中庭の空気に溶けていく。
肌を撫でる生温かい湿った風が、気持ち悪くて仕方なかった。
「ご機嫌よう、ジュリアンナ様。何やらお疲れのご様子ですね」
「あ? あぁ、ルーバンか。お前本当気配ねぇよな」
椅子に腰掛けたまま視線をあげる。そこにはいつも通りの柔和な笑みを浮かべたルーバンがいた。
「最近ヘンリー様と疎遠なようですが……そちらの件ですか?」
「まあ、そんなとこだ」
ガブリエルはあれからずっとあたしにベタベタくっついてくるし、ヘンリーはすげぇ形相でこっち睨んでくるしで気が休まる暇がねぇ。
ルーバンはまるであたしの真意を探るかのようにじっとこちらを見つめている。
「……なんだよ」
あたしは眉を寄せてルーバンを見つめ返す。やつはその視線を受けて、肩をすくめて困ったように微笑んだ。
「いえ、なんでもございません。……ただ、最近なヘンリー様は常にジュリアンナ様のことを考えられているようなので」
「先生があたしのことを?」
「えぇ。ジュリアンナ様からいただいた菓子折りの包み布をじっと見つめていらっしゃったり、ジュリアンナ様の名前を聞いて表情を強張らせたり。ただ喧嘩しているだけだとは思えない反応でして」
あいつそんなことしてんのかよ。なんかガブリエルみたいだな。
「この前中庭でヘンリー様を見かけた時は布に顔を寄せてジュリアンナ様の名前を呼ばれていましたよ」
「待て、あいつ頭大丈夫か??」
布ってあの包み布か? てかそれ嗅いでも菓子の匂いしかしねぇだろ。
「この前は窓の外の花を眺めて『あいつはどんな花が好きだろうか』とおっしゃってましたし」
「いや乙女か!!」
「その上でこの前略奪ものの女性向け小説を読まれていましたね」
「怖えよ!! それ本当に先生か!?」
どう考えても別人だろ! 中身異世界からの転生者かってレベルの変わりかたしてんぞ!!
ガタリと音を立てて椅子から立ち上がると、ルーバンは唇に手を当ててくすくすと笑い始める。
「冗談です。少しは気が紛れましたか?」
「お前の冗談は冗談になってねぇんだよ!!!」
お陰で心臓バックバクだし冷や汗とまらねぇんだけどどうしてくれんだこいつ!!
肩で息をしながら、あたしは大きくため息をつく。
「で、今度はどこまで本当なんだ?」
この前の話でも一部だけが冗談だった。てことは、今回も似たようなパターンだろ。
花はまだわかる。礼として渡す可能性はあるし。だが流石に布嗅ぐのと略奪系女性向け小説はやばい。
ルーバンは焦らすように口元に手を当ててから、ふわりと口元をほころばせる。
「花の件は冗談です」
「よりによってそれかよ!!」
腹の底から声が出てくる。いやだってありえねぇだろなんでそれなんだよ!
「それと布に顔を寄せていたのは刺繍の際ですね」
「紛らわしい言い方すんじゃねぇびっくりすんだろ!」
ルーバンの方をキッと睨む。心底楽しそうに目を細める姿が苛立たしい。
こいつ完全にあたしで遊んでやがる……!
「申し訳ございません。しかし本当にそのような事をしそうなほどに、ヘンリー様は心を乱されていますよ」
「……は?」
急に真面目になるルーバンの声音に、あたしは思わず面食らう。
「最近顕著に口数が増えています。戦闘で無理をなさることも減りました。ヘンリー様の中で、確実に何かが変わっている。そんな気がしてならないのです」
全てを見透かすようなルーバンの赤い瞳と、目が合う。
「あの方は一度決めたら曲がらない方です。どうか、お覚悟を」
にやりと吊り上がったルーバンの口元はひどく不気味で、あたしは無意識に息を呑む。
「それでは、私はこれで失礼しますね」
固まったあたしを1人置いて、背を向けて歩いていくルーバン。
気味の悪い何かに縛り付けられたかのように、あたしはしばらくその場から動くことができなかった。




