富士学校メサイア墜落事件 第一話
●宮内省近衛府 富士学校
「……ここまでにするか」
その日の夜。
少し早めに夕食を済ませ、自習室に籠もっていた美奈代は、本を閉じて席を立った。
染谷と出会ったのは、その時だった。
まるで美奈代が席を立つのを待っていたような、恐ろしいほどのタイミングの良さだった。
「あっ」
「ああ、和泉候補生……勉強は終わりかい?」
「は、はい」
心臓が高鳴り、顔が熱くなるのを、美奈代自身、どうしようもない。
「そ……そうか」
染谷はややどもりながら言った。
「訓練が……その、延期されつづけで、残念だね」
「は、はい!」
美奈代の口からは、裏返った、すっとんきょうな声が出た。
思わず口を押さえるが、出たものを戻すことは出来ない。
「ま、魔族軍が戦闘範囲を停止、というか、縮小していると聞きましたが?」
「うん」
染谷は頷いた。
「こちらも体勢が整わないが、向こうも同じようだね。僕達にとっては、物資不足で訓練が遅れ気味の方が嘆くべきかもしれないが……」
不意に、染谷は周囲を見回した。
幸い、自習室は自分達しかいない。
「ちなみに、和泉候補生は、何を読んでいたんだ?」
「狩野粒子についての資料です」
美奈代は脇に挟んだファイルのタイトルを見せた。
「ああ。学会に発表されたっていう、あの?」
「戦場で電子機器が使えなくなった原因が、魔力物質による“空間汚染”にあるとかで、興味があって、資料を借り受けたんですが……」
美奈代は顔をしかめた。
「半分以上がワケの分からない数式の羅列では……」
「魔法物質―――“狩野粒子”の組成と、空間干渉作用の数学的証明だよ」
ファイルを受け取った染谷が書類上の数値を指でなぞる。
「ね?ここの変数作用が電子基板上の電力の流れに干渉してしまう。
このため、この空間汚染の中では、真空管以上の電子装置、ICやLSIは使い物にならなくなる。
メサイアは飛行艦のように、魔力力場の影響下に置かれている場合は、その例外ではあるが―――」
染谷は、美奈代の視線が書類ではなく、自分の顔に注がれていることに気づいた。
「―――何?」
「い、いえ」
美奈代は視線を書類の上に落とした。
「より理解出来るなと」
「これでも、入営前に数学オリンピックで優勝したことがあるんだよ?」
「……はぁ」
正直、自他共に認めるコテコテ文系の美奈代にとって、数式はこの世の存在ではない。
あんなモノを見つけだしたヤツは悪魔に違いない。
美奈代は半ば本気でそう思っていた。
「まぁ、いい」
染谷はファイルを閉じた。
「戦場では、電子機器は使い物にならない。従って精密誘導兵器による攻撃は不可能になったと覚えておけばいい」
「つまり」
美奈代は言った。
「先の赤色戦争以降、今まで進歩してきた航空機やミサイルは」
「そう」
染谷は楽しげに頷いた。
「人類の進歩は、メサイアや飛行艦という例外を除き、全て白紙に戻されたということさ」
「……」
「どうだい?その話は、これから食堂でコーヒーでも飲みながら」
「あ……申し訳有りません」
残念という顔の美奈代は言った。
「1925よりハンガーでメサイアの清掃任務が」
「そ、そうか」
染谷は心底落胆した顔で、ポケットから紙片を取り出した。
「ち、チケットがようやく手に入ったんだ。その件もあったんだが……」
「え?」
「マイフェアレディのだ。外出許可が下りる日だ。もしよかったら……その……教養のために」
美奈代の頭の中でファンファーレが鳴り響き、ゲートから各競争馬が一斉にスタート、上空では100万発の花火が連続して炸裂(意味不明)した。
血管のプレッシャーは最大。
心臓は死に物狂いの超音波振動で血流を確保する。
―――デートだ。
生まれて初めて、男と一緒に過ごす時間。
初のデートの誘いを受けている。
「わ、私でわかる内容ですか?」
泣きたかった。
―――デートの申し出を受けた第一声がそれか?
「だ、大丈夫だと思う」
ちらりと見た染谷の顔が赤く見えたのは、灯火管制のせいだろうか?
「何か事前に覚えていくことは?装備は?集合時間は?作戦は?」
「……とりあえず」
染谷は、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「落ち着いて」
「あっ!」
美奈代は口元を抑えた。
装備って何?
作戦って何だ?
私は一体、戦争でも始める気か?
「開演は午後1時からだ。十分間に合う。詳細はその程度しか、私も知らない。でも、一応、外出の時間は合わせたいんだ。だから、当日は、衛門の外で待っている」
「は、はい」
美奈代は、コチコチになって思わず敬礼した。
「和泉候補生、お供いたします」
「ご苦労」
染谷も思わず答礼し、二人は互いの顔をマジマジと見合ってしまう。
そして、どちらとなく吹き出した。
「クススッ……染谷候補生って」
「ん?」
「もう少しカタブツかと思ってました」
「……もうやめたんだ」
染谷は肩をすくめた。
その顔は、全てを振り切ったようにすがすがしさすら感じさせる。
見るだけで体の芯まで熱くさせる顔に、美奈代は魅入る。
「威張っても、何しても、それじゃどうしようもない相手もいる。そう教わった」
「誰にです?」
「宗像候補生だよ」
「はっ?」
「特別に和泉候補生の口説き方教えてやるって言われて……かなり支払ったけど、こういうのはお金じゃないし」
「あ……あのアマ。ここ数日、なにしてるかと思えば」
「だけど」
染谷は笑った。
「おかげで肩の荷が下りた気分だよ―――あっ」
染谷は思いついたように、
「今までの無礼な態度は、まず謝っておかなくちゃね……ごめん」
そう言って頭を下げた。
「や。やめて下さい!」
美奈代は慌てて染谷を止めた。
「が、生徒隊総隊長としての威厳っていうか、やむを得ないっていうか、あれはあれでカッコよかったっていうか!」
―――あっ。
美奈代は口から出た言葉、
カッコ良かった。
その言葉に動きを止めた。
その言葉が、自分が染谷をどう見ていたか、その証なのだ。
「―――そうか」
目をパチクリさせた染谷は、少し誇らしげに微笑んだ。
「君がそう言うなら」
その笑顔は、美奈代の琴線に心地よく触れた。
「親が政治家で、家族も政府高官ばかりとなれば、小さい頃から“他人に舐められるようなことするな”の一点張り。そういう接し方しか許されなかった……肩が凝って仕方なかった。だから、好きになった相手くらいは、本来のありのままで接してみたいと、そう思っていたから。
今、こうして君と会話していると、本当に楽しい」
「……染谷候補生」
話すときの明るさ。
自分に過去を語ってくれる程、信頼を寄せてくれている。
美奈代は、それまで持っていた染谷に対する偏見が、唾棄すべきものに思えてならなかった。
そして、自覚した。
自分は、この男が好きなんだ、と。
「今度の件、本気で楽しみにしています」
「僕もさ」
期待しているよ?
染谷は、そう笑って自習室を出ていった。
よく考えてみれば―――
染谷はエリート騎士の卵。
背も高い、ルックスはいい。
性格も実はかなりよさげだ。
そして親は政治家、兄は全て政府高官。
華族ではないが、平民としてもかなりのエリート一族の出だ。
―――もしかして私、玉の輿に乗れる?
美奈代が浮き足立って廊下を歩いていた時だ。
「―――ん?」
ザザッ!
廊下の外を何かが走る音がした。
一瞬、黒い影が通り過ぎたと思ったのは、美奈代の見間違いでは決してないはずだ。
「……不審者か?」
こんなオンボロ学校に盗みに入るバカがいるとも思えない。
スパイ?
こんな所に?
美奈代は、周囲を見回すと、そっと通用口を開け、外に出た。




